典軍校尉
典軍校尉(てんぐんこうい)は、中国の後漢末期の188年から189年と、南北朝時代の北斉(550年 - 577年)にあった官職である。後漢では皇帝直属の西園八校尉の一つ、北斉では皇太子に属する太子三校の一つ。北斉のは太子典軍校尉(たいしてんぐんこうい)ともいい、官品は第五品であった[1]。
制度の変遷
後漢
校尉は漢以降の中国の諸王朝でおおよそ数百人を率いた部隊長である。それに特別の名をつけて優待することは前漢の武帝にはじまり、時代により職掌・名称様々なものが設けられた。後漢にも屯騎校尉など特別な校尉が常設されていたが[2]、典軍校尉はそれらと別に、一時的に設けられた。
黄巾の乱勃発による治安悪化に際し、霊帝は中平5年(188年)8月に西園八校尉を設けて皇帝直属の軍事力を強化した[3]。その一つが典軍校尉で、曹操が任命された[4]。典軍校尉としての曹操の事績は知られない。曹操は、翌中平6年(189年)に皇帝(少帝弁)を廃した董卓から驍騎校尉への任命をもちかけられて逃亡した[5]。他の八校尉の活動もこの年までである。
北斉
政情不安が続いた南北朝時代には、皇太子の武力が充実しており、軍を率いる衛率のほか、太子三校という特別な部隊長を三種類用意した。北斉の典軍校尉はその一つで、北斉にはほかに旅騎校尉・屯衛校尉があった[1]。
左衛坊率、右衛坊率に属し、定員2人、第五品[1]。左衛坊率の下に左典軍校尉1人、右衛坊率の下に右典軍校尉1人ともとれるが、記述が簡略で任命例もないので不明。30人の騎尉が属した[1]。この30人が全体で30人なのか、各校尉に30人なのか、騎尉の下にさらに兵士があったかどうかも不明である。
典軍校尉の人物
脚注
参考文献
外部リンク
- 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。