太子三校
太子三校(たいしさんこう)は、中国の南北朝時代、421年から589年まで、皇太子の護衛にあたる部隊を率いた校尉三つの総称である。宋・斉・梁・陳・北魏で太子屯騎校尉・太子歩兵校尉・太子翊軍校尉だが、北斉でだけ旅騎校尉・屯衛校尉・典軍校尉であった。
背景
校尉はおおよそ数百人を率いる部隊長で、漢以降の中国の諸王朝の軍隊にあった。それらと別に、前漢の武帝が宮殿や首都周辺の警備にあたる特別な校尉を数多く作った[1]。特別な校尉は、普通の校尉と区別して、前漢で八校尉、西晋で五校など様々な呼び方をした。漢の皇太子に特別な校尉はなく、護衛は中盾と衛率の職務であった。
太子三校に限らず、皇帝付き、皇太子付きの武官が南北朝時代に多くなった背景には、魏・晋 からの絶え間ない戦乱と政変がある。西晋は衛率を増強して皇太子に独自の軍事力を与え、殿中将軍のような顕職で門閥貴族の子弟を誘った。東晋を禅譲させた宋は、初代の劉裕が遅くに男子を儲けたため、初めから皇位継承に不安を抱えていた[2]。
南朝
宋
南朝の宋(420年 - 479年)が、永初2年(421年)5月に東宮屯騎校尉・東宮歩兵校尉・東宮翊軍校尉を作ったのが初めである[3]。東宮は皇太子の宮殿のことで、皇太子その人を指す。史書に「東宮」を付けて書かれるのは『宋書』本紀のこの箇所だけで、『宋書』でも他の部分では「太子」である。東宮・太子がない屯騎校尉・歩兵校尉・翊軍校尉は東晋にあり、このうち屯騎と歩兵は宋にもあったが、翊軍はなくなった[4]。太子屯騎校尉と太子歩兵校尉は「太子」を付けないと別の官になってしまうが、太子翊軍校尉はそうではないということである。
宋の三校の定員は各7人[4]。官秩は不明だが、他の王朝で校尉より地位が高い左衛率(7人)・右衛率(2人)が宋では旧四百石である[4]。
斉・梁
陳
南朝の陳(557年 - 589年)では、屯騎校尉などの五営校尉と、太子屯騎校尉など太子三校の官秩が同じ千石で、官品も同じ第六品[7]。儀式のときの服装も、皇太子付きのと皇帝つきは同じである。印綬は銀印青綬、すなわち銀製の印のつまみの穴に、青く細い布(綬)を通して体にかけた[8]。朝服に武冠をかぶり、水蒼玉を佩き、獸頭の飾りがついた革袋(鞶)を腰につけた[8]。
北朝
北魏
北朝の北魏(386年 - 535年)の初期の官制は不明で、漢化政策を進めた孝文帝(467年 - 499年)のときに従第四品上の太子三校があった[9]。南朝では宋の時代である。孝文帝が最後に残し、死後に施行された太和23年(499年)の官制では、太子屯騎校尉・太子歩兵校尉・太子翊軍校尉が従第五品の官であった[10]。
皇帝の側に屯騎校尉と歩兵校尉があって翊軍校尉がないのは宋と同じである[11]。官品は変わっても、他の官との上下関係に変わりはない。
太和23年(499年)以後
- 第三品 - 太子詹事
- 従第三品 - 太子左衛率・太子右衛率
- 第五品 - 屯騎校尉など五校尉
- 従第五品 - 太子三校
東魏・北斉
北魏が東西に分裂した後の東魏(535年 - 550年)にあったか不明だが、続く北斉(550年 - 577年)は三校の名を旅騎校尉・屯衛校尉・典軍校尉に改め、皇帝の校尉と名を分けた[12]。左衛坊率と右衛坊率の下にあり、定員は各2人で、30人の騎尉を率いた[12]。騎尉の下にさらに兵士がいた可能性もあるが、部下を持たない将軍が百人以上いた北斉では、なんとも言えない。
西魏・北周
西魏(535年 - 556年)も不明だが、末期の数年間に、儒教の経典である『周礼』をもとにして全面的な官制改革をおこない、それを北周(556年 - 581年)が受け継いだ。簡略にしか伝わらないが、卿より下の文武官の名は上・中・下の大夫と上・中・下の士を末尾につける方式で体系的にに作られ、特別な校尉はなかったようである[13]。577年(北周の建徳6年、北斉の承光元年)に北周が北斉を滅ぼしたので、そのとき北朝の三校はなくなった。
隋より後
北周を継いだ隋(581年 - 618年)に太子三校はなかった。589年(隋の開皇9年、陳の禎明3年)に隋は陳を滅ぼして中国を統一した。陳とともに太子三校はなくなり、以後も復活することはなかった。皇太子の武力としては衛率が残り、それもやがて形骸化していった。
太子三校の人物
太子三校になったとだけ書かれてどの校尉だったかわからない一人をここで挙げ、その他は個々の校尉の記事に載せる。
脚注
- ↑ 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』136 - 147頁。
- ↑ 吉川忠夫『劉裕』(中央公論社、中公文庫、1989年、初版は中国人物叢書3として1966年)183頁以降。太子三校に触れた文脈ではなく、まだ年少の皇子を地方の要地の長官に据えたことなどを指摘する。
- ↑ 『宋史』巻3、武帝紀第3、永初2年5月。
- 1 2 3 『宋書』巻40、志第30、百官下。
- ↑ 『南斉書』巻16、志第8、百官。
- ↑ 『隋書』巻26、志第21、百官上、梁。
- ↑ 『隋書』巻26、志第21、百官上、陳。
- 1 2 『隋書』巻11、志第6、礼儀6、衣冠1、陳。
- ↑ 『魏書』巻113、官氏志9第19。太和23年以前の官制について記した箇所。三校のそれぞれを正式にどういったかはここにないが、太和23年官制と列伝に見える任命例から屯騎・歩兵・翊軍と推定できる。
- ↑ 『魏書』巻113、官氏志9第19。太和23年。字は「翌軍校尉」。
- ↑ 官氏志の太和23年官制には「歩兵校尉」ではなく「歩軍校尉」とある。が、列伝に歩兵校尉の任命例が多くあり、歩軍校尉はない。
- 1 2 『隋書』巻27、志第22、百官中、後斉。
- ↑ 『隋書』巻27、志第22、百官中。
- ↑ 『魏書』巻73、列伝第61、奚康生。