円融院

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円融院(えんゆういん、天文18年(1549年) - 没年不詳)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。美作国の国人・三浦貞勝に嫁ぎ、三浦貞勝の死後に備前国の国人・宇喜多直家に嫁ぐ。三浦桃寿丸、容光院(吉川広家正室)、宇喜多秀家、次女(明石全登正室)らの母。実名は不明。

名前

確かな史料からは尊称としての「大方殿」、院号の「円融院」が知られている。

実名については従来「お鮮」、「お福(おふく)」、「太万」など諸説があったが、「お鮮」は後述する「法鮮」銘五輪塔の法名からの連想で、「太万」は貴人の母の尊称である「大方」の誤記から生じたものと考えられる。

残る「お福(おふく)」については、文禄2年(1593年)5月27日付けで豊臣秀吉が10月の凱旋予定を伝えると共に、追伸で朝鮮へ出陣中の宇喜多秀家の釜山帰陣を報じた書状[1]の宛名が「ふく」であることを根拠としている[2]。しかし、宛名が「ふく」のみで敬称や脇付が無いという書札礼上の観点から、宛名の「ふく」は秀家の母ではなく、秀家の母の侍女、あるいは秀家の正室・豪姫の侍女と考えるのが穏当と指摘されている[3]。さらに、秀吉は当時の通例に従って、表向きは侍女を宛先にして言伝を頼むという形式をしばしば踏んでおり[3]、この「ふく」宛ての書状においても言伝を頼む形式をとっている[4]点からも、「ふく」が秀家の母ではなく侍女であることを補強している。

以上より、円融院の実名は不明とするほかなく、一説に号と伝わる「備前殿」も確かなものとはいえないという。

生涯

出生

天文18年(1549年)に生まれる[3][5][注釈 1]。

その出自については、備前国津高郡下土井村の庄屋である土井六郎兵衛が某氏が語る虎倉村に関する事柄を筆記した『虎倉聞書』では美作国東部の領主である三浦氏一門の三浦能登守の娘または妹とし、寛政年間(1789年-1801年)に岡山藩士の大沢惟貞が編纂した『吉備温故秘録』では鷹取氏の娘としている[3][6]。その他に、三浦氏の重臣である船津重俊の長女とする伝承もあるが、確たる史料は無いとされている[6]。

三浦貞勝との婚姻

永禄2年(1559年)頃に美作国の高田城主・三浦貞勝と婚姻し[6]、三浦桃寿丸を産んだ[7]。

永禄7年(1564年)12月、毛利方の備中松山城主・三村家親の圧迫により三浦貞勝が切腹すると、親類の江川小四郎に連れられて備中国に逃れ、隠れ住んだという[7][5]。

宇喜多直家との婚姻

備中国に隠れ住んでいた円融院は、その後宇喜多直家と婚姻しているが、どのような経緯があったかは不明である[5][7]。

直家との間には3人の子が生まれており、元亀2年(1571年)には後に吉川広家の正室となる容光院が生まれ、翌元亀3年(1572年)には嫡男の宇喜多秀家が生まれている[8]。そして、秀家の姉か妹かは不明であるが、明石全登の正室となる娘がいる[8]。

天正9年(1581年)11月から天正10年(1582年)1月の間に夫の直家が病死し、嫡男の秀家が家督を相続した。

宇喜多秀家の時代

家督を相続した秀家はまだ11歳であったため、宇喜多氏では有力家臣の宇喜多忠家、岡家利、長船貞親、富川秀安、明石行雄による集団指導体制がとられている[9]。また、天正14年(1586年)にイエズス会が宇喜多氏の領国におけるキリスト教の布教許可と、岡山での聖堂と修道院の建設許可を願い出た際に、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは宇喜多家の有力家臣2人を通じて許可を取ったと報告書に記し、スペイン人宣教師のルイス・デ・グスマンは布教許可を秀家と円融院に対して願い出たとしている[10]。このことから、少なくとも天正14年(1586年)頃までは宇喜多氏の実権が有力家臣達にあり、場合によってはそこに円融院も加えた集合体が実権を有していたと考えられている[11]。

天正16年(1588年)7月、秀吉の斡旋により娘の容光院と吉川広家の縁談が持ち上がり、10月19日に婚儀が挙げられた[12]。

天正18年(1590年)6月、娘の容光院と共に伊勢神宮に参拝したが、その帰路に容光院が病に倒れたため、容光院を京都に滞留させ、同年6月21日に円融院と容光院は吉田神社に病気平癒の祈祷を依頼した[13][14]。その後、容光院は夫・広家の領国である出雲国に戻ったが病状は思わしくなく、翌天正19年(1591年)4月19日に21歳の若さで死去した[15]。

文禄3年(1594年)冬、秀家の従兄弟の浮田左京亮(後の坂崎直盛)が日本人修道士のヴィセンテからキリスト教の洗礼を受けた[16]。その際にヴィセンテは、豊臣政権がキリスト教抑圧の姿勢を見せていることから、浮田左京亮の身辺に危害が及ばないように洗礼について秘密にするように諭したが、左京亮は1日で約束を反故にし、全てを口外した上で備前国で自身の入信を宣伝するなど、布教に近いことを始めた[17]。さらに左京亮の帰国後にその妻が死去したが、左京亮はそれにめげることなくキリスト教の教義を広めることを宣言した[17]。宣教師のオルガンティーノによると、こうした浮田左京亮の動向が諸侯や円融院を驚嘆させたという[17]。

晩年

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで敗れた秀家は巧妙に逃亡し[18]、慶長6年(1601年)5月頃まで上方周辺に潜伏してから[19]、未だ徳川方と講和を結んでいなかった島津氏領である薩摩国に潜伏した[20]。

慶長7年(1602年)12月末に徳川家康と対面して正式に島津氏の本領安堵が認められた島津忠恒は秀家の助命交渉も開始し[21]、薩摩国へ帰国してから、秀家の近況を伝えるためか、家臣を上方に派遣して円融院に伽羅1斤を贈っている[22][23]。なお、このことを島津義久から伝え聞いた島津義弘は、今の時分における円融院に対する丁重な音信について忠恒に自重を求めている[24]。

それ以後の動向や没年は不明。

没年および法名について

円融院は文禄3年(1594年)に没し法鮮尼と呼ばれたとの説が広く普及しているが、これは「法鮮」銘五輪塔(岡山市徳吉町)や某寺の過去帳に法鮮を「宇喜多氏御前」とすることに基づくものである。しかし実際には円融院が慶長5年(1600年)以降も生存していたことが自筆書状(焼失、備前難波文書)から明らかになっている。

そこで同塔を生前の逆修墓とする見解もあるが、これも当時のイエズス会士の書簡に当時「宇喜多左京亮」を名乗っていた坂崎直盛の室「宇喜多氏御前」が岡山で病死したとの記述があり、時期的にも符合することから、これをこの女性に比定するのが妥当との見解が近年出されるに至っている。

豊臣秀吉の側室説

一般的に、円融院は絶世の美女[注釈 2]で、夫・直家の死後、宇喜多氏からの人質として上洛したところ、その美貌から豊臣秀吉によって強引に聚楽第の西の台に移されて寵愛を受け、その秀吉からの寵愛が円融院の子である宇喜多秀家の出世に繋がったとする話が知られている[5][7]。

上記の逸話は万治3年(1660年)に岩国領吉川家家老の香川正矩によって編纂された『陰徳記』に記されているが、宇喜多秀家の栄達は母の円融院がその美貌によって秀吉を惑わしたからという揶揄に過ぎず、以下の点で無理のある筋書きであるため、円融院の美女説と秀吉側室説は後世の創作であることが指摘されている[25][26]。

例えば、『陰徳記』が記すように上洛した円融院が聚楽第に移されたとするのであれば、聚楽第が造営された天正14年(1586年)以降の出来事となるが、天正14年(1586年)時点で宇喜多秀家は既に秀吉の養女である豪姫と婚姻し、紀州征伐で先鋒を務め、従五位下・侍従に叙任されて参内を果たす等の厚遇を受けている[26]。また、 『陰徳記』では人質を求める秀吉の命によって円融院一人が上洛したとしているが、天正13年(1585年)頃から既に秀家は大坂や京都に活動場所を移しているため、円融院一人が上洛したとする『陰徳記』の記述とは矛盾する[8]。

以上のように『陰徳記』の筋書きに無理があることが認識されていたためか、正徳2年(1712年)に出版された『陰徳記』の増補改訂版にあたる『陰徳太平記』ではこの逸話が削除されている[8][25]。

登場作品

テレビドラマ

漫画

脚注

注釈

  1. ↑ 古来推測に基づく様々な見解が出されてきたが、今日では吉田兼見の日記『兼見卿記』の記事から天文18年(1549年)にほぼ確定したと考えられている。
  2. ↑ 『陰徳記』に「天下第一ノ美人」と記されている[7]。

出典

  1. ↑ 『葉上文書』、文禄2年(1593年)比定5月27日付け、ふく宛て、大かう(豊臣秀吉)書状。
  2. ↑ 桑田忠親 1943, pp. 263–264.
  3. 1 2 3 4 大西泰正 2019, p. 25.
  4. ↑ 桑田忠親 1943, p. 263.
  5. 1 2 3 4 大西泰正 2017, p. 21.
  6. 1 2 3 立石定夫 1988, p. 208.
  7. 1 2 3 4 5 大西泰正 2019, p. 26.
  8. 1 2 3 4 大西泰正 2019, p. 27.
  9. ↑ 大西泰正 2019, p. 38.
  10. ↑ 大西泰正 2019, pp. 38–39.
  11. ↑ 大西泰正 2019, p. 39.
  12. ↑ 大西泰正 2019, p. 65.
  13. ↑ 大西泰正 2019, p. 68.
  14. ↑ 大西泰正 2017, p. 32.
  15. ↑ 大西泰正 2019, pp. 68–69.
  16. ↑ 大西泰正 2019, p. 163.
  17. 1 2 3 大西泰正 2019, p. 164.
  18. ↑ 大西泰正 2019, p. 232.
  19. ↑ 大西泰正 2019, p. 233.
  20. ↑ 大西泰正 2019, pp. 234–235.
  21. ↑ 大西泰正 2019, p. 235.
  22. ↑ 大西泰正 2019, p. 236.
  23. ↑ 大西泰正 2017, p. 90.
  24. ↑ 大西泰正 2015, p. 42.
  25. 1 2 大西泰正 2017, p. 22.
  26. 1 2 大西泰正 2019, pp. 26–27.

参考文献

  • 桑田忠親『太閤書信』地人書館、1943年7月。全国書誌番号:61000258。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 立石定夫『戦国宇喜多一族』新人物往来社、1988年10月。全国書誌番号:89004269。 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『吉備地方文化研究』第16号、就実大学吉備地方文化研究所、2006年
  • 『宇喜多家史談会会報』第24・25号、2007年8月 
  • 大西泰正『宇喜多秀家と明石掃部』岩田書院、2015年5月。ISBN 978-4-87294-890-5。 
  • 大西泰正『宇喜多秀家』戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】013〉、2017年10月。ISBN 978-4-86403-261-2。 
  • 大西泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』KADOKAWA、2019年9月。ISBN 978-4-04-082287-7。