吉田神社

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吉田神社

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吉田神社

境内
所在地 京都府京都市左京区吉田神楽岡町30
位置 北緯35度1分31.26秒 東経135度47分4.68秒 / 北緯35.0253500度 東経135.7846333度 / 35.0253500; 135.7846333座標: 北緯35度1分31.26秒 東経135度47分4.68秒 / 北緯35.0253500度 東経135.7846333度 / 35.0253500; 135.7846333
主祭神 建御賀豆智命
伊波比主命
天之子八根命
比売神
社格等 式外社
二十二社(下八社)
旧官幣中社
別表神社
創建 貞観元年(859年)4月
本殿の様式 春日造
札所等 神仏霊場巡拝の道第112番(京都第30番)
例祭 4月18日
主な神事 節分祭
地図
吉田神社の位置(京都市市街内)
吉田神社
吉田神社
地図
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画像外部リンク
神楽岡吉田社 - 都名所図会(日文研ホームページ)
鳥居
斎場所大元宮

吉田神社(よしだじんじゃ)は、京都市左京区吉田神楽岡町にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。吉田山に位置する。

祭神

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祭神は次の4柱(「春日神」と総称)で、勧請元の春日大社と同じ。()内の漢字は春日大社での表記。

歴史

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当社は、貞観元年(859年)4月に藤原山蔭が一門の氏神として、また平安京の守護神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる[1]。建てられた場所は吉田山で、ここは古来より「神楽岡」(神が集いし岡)と呼ばれ親しまれている場所であった[2]。

後には平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された[2]。

鎌倉時代以降は卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し[2]、その拠点として文明16年(1484年)11月24日に境内に吉田神道の根元殿堂として斎場所大元宮を建立している[2]。これらによって当社は神道界に絶大なる権威を得て隆盛を極めた[2]。

天正18年(1590年)には吉田兼見がかつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿を境内の斎場に移して再興し、慶長14年(1609年)には勅を受けて神祇官代とされ、伊勢例幣使の儀礼を1871年(明治4年)まで勤めている[2]。ただし左京区八神社によると、八神社がある場所には神祇官の神祇斎場所があり、そこに延喜5年(905年)12月26日に大内裏にある神祇官から八神殿が移されて祀られるようになったが、文明16年(1484年)に八神殿は吉田神社の斎場所大元宮に移転された、としている[3]。

江戸時代に入ると社領は590石であったが[2]、寛文5年(1665年)に江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられるなどし、幕末に至るまで神道界に大きな権勢を誇っていた[2]。

しかし、明治時代になると神道裁許状の特権は剥奪され、1872年(明治5年)には八神殿が皇居に遷座させられた[4][2]。また、国家神道によって神道界の中心は当社から伊勢神宮に変えられてしまった。当社は官幣中社に列せられたとはいえ、ごく普通の神社とされたうえ、それまで吉田神道の中核をなしていた斎場所大元宮は当社の単なる末社とされてしまった。

1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。

大元宮

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重要文化財。正式には「斎場所大元宮」(さいじょうしょだいげんぐう)という吉田神社の末社である。現代ではいくつかある末社のうちの一つの扱いであるが、明治に入るまでは吉田神社の信仰の中心であった。

吉田兼倶は文明年間に森羅万象の起源であり、また宇宙の根元神である虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る吉田神道(唯一神道)を考え、大成すると、室町にあった自邸に虚無太元尊神を祀る社・大元宮を建て、その祭祀を行い始めた[2]。そして、兼倶はいよいよ吉田神道を目に見える形にして一般に広めようとし、また本格的に伊勢神宮を含む全国の神社を吉田神社の統制下に置こうと考え始めた。

そこに、日野富子などからの寄付もあって、文明16年(1484年)に吉田神社がある現在地に新たな社・斎場所大元宮を創建すると、11月24日に自邸から虚無太元尊神を遷座した[2]。

主祭神虚無太元尊神の周りには、その虚無太元尊神の作用によって生じた天神地祇八百万大神の他、全国の神々を祀っている[2]。この大元宮を拝むことは日本中の全ての神社を拝んだことに等しいとし、神社自体の格も伊勢神宮よりも上であるとした。まさに吉田神道の考えをそのまま形に表した吉田神道の根元殿堂といえる[2]。これにより、大元宮を神道の中心地とした当社は日本で最上位の神社として権勢を誇った[2]。

さらに、天正18年(1590年)には後陽成天皇の勅命により、かつて神祇官で祀られていた天皇の守護神である祭神8座(神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神)を祀る八神殿を、神祇官の衰退に伴い大元宮の後方に遷座して祀ることとなった。

しかし明治時代になり、1872年(明治5年)に八神殿は皇居に移された[2]。それ以降は、天皇家の祖先である天照皇大神を直接祀る伊勢神宮こそが日本で最上位の神社であるという国家神道が勢いを増す中で吉田神道の勢いは衰えを見せ、現在では大元宮は吉田神社のいち末社の扱いを受けるにいたっている。

境内

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境内図
  • 本殿 4棟
    • 本殿第一殿(京都府指定有形文化財)
    • 本殿第二殿(京都府指定有形文化財)
    • 本殿第三殿(京都府指定有形文化財)
    • 本殿第四殿(京都府指定有形文化財)
  • 拝殿
  • 東御廊(京都府指定有形文化財)
  • 西御廊(京都府指定有形文化財)
  • 中門(京都府指定有形文化財)
  • 舞殿
  • 直会殿
  • 着到殿
  • 社務所
  • 参集殿
  • 竜沢池(たつざわのいけ) - 境内南に位置する。奈良の猿沢池を真似てつくられた池で、1926年(大正15年)まで雨乞い神事が行われていた[5]。
  • 太元講社郷土資料館
  • 吉田幼稚園

摂末社

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摂社

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若宮社(京都府指定文化財)
神楽岡社
  • 若宮社 - 祭神:天忍雲根命。延元元年(1336年)に吉田兼熈により創建。1877年(明治10年)に摂社に定められる[2]。春日大社にも天忍雲根命を祀った若宮神社が鎮座しており、当社のもととなっている。
    • 本殿(京都府指定有形文化財) - 慶安元年(1648年)現在地に再建[2]。
    • 拝殿
  • 神楽岡社 - 祭神:大雷神、大山祇神、高龗神(2文字目は「雨」の下に「口口口」、その下に「龍」)。神楽岡町の地主神であり、雷除の神とされている。鎮座年代は明らかではないが、『延喜式神名帳』に記載のある「霹靂神」だといわれる[6]吉田神社本宮創建の頃には既に鎮座していたという。例祭は9月23日で神幸祭が10月最終日曜に行なわれる[2]。

末社

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  • 斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう) - 祭神:天神地祇八百万神。延喜式内社全3,132座の全国の神々、天神地祇八百万神を祀る[2]。
    • 本殿(重要文化財) - 八角形の本殿に六角の後房を付けた極めて特異な形状をしている。慶長6年(1601年)再建。
    • 中門(京都府指定有形文化財)
    • 東神明社 - 祭神:天照皇大神。
    • 西神明社 - 祭神:豊宇氣比売神。
    • 東諸神社・西諸神社 - 祭神:全国68か国の式内社全3,132座[2]。
    • 八神殿跡
  • 神龍社 - 祭神:吉田兼倶(神龍大神)。永正10年(1513年)2月創建。1880年(明治13年)に末社に定められる[2]。
  • 今宮社 - 祭神:大己貴神、大雷神、健速須佐之男命。古くから木瓜大明神と称される吉田町の産土神。建保3年(1215年)には既に存在しており、文化13年(1816年)に現在地に再建[2]。社殿内と境内に、四神を配した石がある。
    • 本殿
    • 拝殿
  • 祖霊社 - 祭神:講員の祖霊。
    • 本殿
    • 拝殿
  • 菓祖神社 - 祭神:田道間守命・林浄因命、相殿祭神:菓子関係功労者の霊。1957年(昭和32年)11月11日創建。菓子の神(菓祖)として製菓業者の信仰を集める。春と秋の2回祭礼が行われる[7][2]。
  • 山蔭神社 - 祭神:藤原山蔭、相殿祭神:恵比須神。1959年(昭和34年)5月創建。藤原山蔭は吉田神社の創始者で、四条流庖丁道の創始者とされ、自身も料理の神として信仰を受けている[2]。
  • 三社社 - 祭神:多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津毘売命、金山毘古命、金山毘売命、菅原神。もとは吉田家の邸内に祀られていた家神であったが、弘化元年(1844年)に現在地に遷座された。1872年(明治5年)に末社に定められた[2]。
  • 竹中稲荷神社 - 祭神:宇賀御魂神、猿田彦神、天鈿女神。天長年間(824年 - 834年)には既に社殿があったという。天保11年(1840年)に信徒の寄付により現在地に移されて再建。1872年(明治5年)に末社に定められた[2]。
    • 本殿
    • 拝殿
    • 竹中稲荷神社境内社
      • 稲荷社、稲荷塚計50基(社)以上。
  • 天満宮社 - 祭神:菅原道真。地福院に奉祀されてあったのを嘉永5年(1852年)に現地に遷座。1872年(明治5年)に末社に定められた[2]。
  • 竹劔稲荷神社(奥の院) - もとは独立した神社で天長年間(824年 - 834年)には存在していた。後に吉田神社の末社となった。

文化財

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重要文化財

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京都府指定有形文化財

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  • 吉田神社 9棟(建造物) - 2012年(平成24年)3月23日指定[9]。
    • 本殿 4棟
    • 中門 1棟
    • 東御廊 1棟
    • 西御廊 1棟
    • 摂社若宮社本殿 1棟
    • 末社斎場所中門 1棟

主な祭事

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節分大祭
  • 節分大祭(2月2日 - 4日)
    吉田神社の節分祭は室町時代から行われている京洛の一大行事である。主な祭儀としては疫神祭、追儺式、火炉祭がある。
    疫神祭は疫神を祭り、「荒振る事なく山川の清き地に鎮まります」ことを祈る。
    追儺式は俗に「鬼やらい」と言われており、疫鬼を追い払い、人々の幸福と平和な生活を願う。
    この追儺式は、平安時代に宮中で行われていた「追儺の義」を、神楽岡町の住民らが1928年に復活させたものである[10]。
    火炉祭は二ノ鳥居前の八角形の火炉で参拝者が持参した古い神札を焼き上げる[11]。
  • 例祭(4月18日)

前後の札所

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神仏霊場巡拝の道
111 慈照寺 - 112 吉田神社 - 113 真正極楽寺(真如堂)

所在地

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  • 京都府京都市左京区吉田神楽岡町30

アクセス

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周辺

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京都大学との関係

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吉田神社は京都大学吉田キャンパスに至近であり、京都大学の正門から吉田神社の鳥居を見ることができる距離にある。

京都大学は正門を閉じることはほとんどないが、近衛通が参拝者や出店で賑わう節分大祭の日に限って正門が閉鎖される[12]。また祭事においてのアルバイトに在学生が従事することも多い。

京都大学吉田キャンパスに近い影響で受験生や在学生が合格祈願に参拝することがあるが、「受験生が吉田神社に参拝すると京都大学に落ちる」「在学生が参拝すると単位を落とす」などのジンクスが存在する。

脚注

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  1. ↑ 御祭神と由緒.吉田神社、2026年8月17日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 各社のご由緒.吉田神社、2026年8月17日閲覧。
  3. ↑ 八神社、2026年8月17日閲覧。
  4. ↑ 宮地直一、佐伯有義監修『神道大辞典縮刷版』臨川書店、1986年、p.715、ISBN 4-653-01347-0
  5. ↑ 昭和京都名所圖會 2洛東-下
  6. ↑ 鈴鹿隆男 編『吉田探訪誌-平安京を彩る神と仏の里』ナカニシヤ出版、2000年、175頁。ISBN 4888486115。
  7. ↑ 鈴鹿隆男編 『吉田探訪誌-平安京を彩る神と仏の里』 ナカニシヤ出版、2000年、177-178頁。ISBN 4888486115。
  8. ↑ 吉田神社斎場所太元宮 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
  9. ↑ 京都府指定・登録等文化財(京都府教育委員会)。
  10. ↑ 「鬼は外!福は内♪ 吉田神社で追い出せ」『朝日新聞』2012年2月3日朝刊26面
  11. ↑ 吉田神社発行 『吉田神社略記』
  12. ↑ 2026年 吉田神社節分祭に係る本部構内交通規制について 2026年8月28日閲覧

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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