前田 陽一(まえだ よういち、1911年(明治44年)11月3日 - 1987年(昭和62年)11月22日)は、日本のフランス文学者、比較文学・哲学研究者。父はGHQによる占領期に、文部大臣を務めた教育家の前田多門。妹は精神科医・翻訳家で、ハンセン病救済活動で著名な神谷美恵子。群馬県出身。

来歴・人物

成城高校(旧制)、1934年東京帝国大学仏文科卒。同年フランス政府招聘留学生として留学。

パリ大学在学中は、外務省の河相達夫の推薦により外交官補となり、ドイツ占領下のパリ大使館で副領事を務めるが、ノルマンディー上陸作戦後、ドイツへ逃れ、1945年、米軍に拘束され、アメリカで終戦を迎える。

この逃避行は、ヴァイオリニストの諏訪根自子、ドイツ外交官補の大賀小四郎が一緒だった。帰国後前田は、外交官試験を通っていなくても外交官として遇するという河相の言葉が文書化されていないことを知り、研究専攻に戻り、一高教授を経て1949年東大教養学部助教授、1951年 - 1972年教授、教養学科長等を歴任した。大江健三郎の東大時代の恩師にあたり、不破哲三のフランス語の師匠でもあった[1]。

ブレーズ・パスカル研究の世界的権威。手稿解読にあたって「複読法」を開発、フランス本国にも大きな影響を与えた。1972年 - 1973年ソルボンヌ大学客員教授。1980年に名誉博士号を授与されている。

『パスカル「パンセ」註解』にて日本学士院賞受賞。フランス政府から1954年教育功労章、1966年レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ、1987年、パスカルとデカルトに関するフランス語・日本語の著書・論文に対してアカデミー・フランセーズのフランス語圏大賞[2]。

皇太子時代の明仁上皇のフランス語教育にも関わった。実妹の神谷美恵子は皇太子妃(現在の上皇后美智子)の相談者だったので、時期は異なるが(昭和期に)兄妹で平成期の天皇・皇后の補佐役を務めたことになる。

また、上述のように不破哲三にフランス語を教えたこともあり、共産党のプリンスと本物のプリンスの二人を教えたことを生前自慢していたという[3]。

著書

訳書

脚注

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  1. ↑ 不破哲三「一高記念祭の思い出など」(「前田陽一 その人その文」編集刊行委員会編・発行『前田陽一 その人その文』1989年)237-240頁。
  2. ↑ “Yoichi MAEDA”. www.academie-francaise.fr. Académie française. 2019年6月26日閲覧。
  3. ↑ 別冊宝島ムック「共産党宣言」P.88。宝島社, 1997年
  4. ↑ 最終巻は没後刊。担当者だった大塚信一『理想の出版を求めて』(トランスビュー, 2006年)に、前田への回想もある。
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