北川大輔

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北川 大輔(きたがわ だいすけ、1910年〈明治43年〉10月23日 - 1970年〈昭和45年〉3月27日)は、日本出身のキリスト教聖公会の司祭、神学者、人権活動家。世界教会協議会(WCC)総主事、立教大学名誉博士[1]。 第二次世界大戦中の日系アメリカ人強制収容を自ら体験した経験から、日系人コミュニティの救済にとどまらず、アフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカンの権利擁護活動、さらに世界教会協議会(WCC)を通じた世界的な人種差別撤廃運動に尽力した[2][3]。弟で宗教学者のジョセフ・北川(北川三夫)もシカゴ大学神学部教授となり、聖公会の司祭を務めた[2]。

生涯

生い立ちと修学

1910年10月23日、日本統治下の台北市にて、日本聖公会の司祭・宣教師であった北川千代吉牧師の長男として生まれる。実弟のジョセフ・北川((北川三夫)も後に聖公会司祭・宗教学者となった[2]。

1928年(昭和3年)、立教大学に入学。在学中は日本聖公会京都主教シャーリー・H・ニコルズらの指導を受けた。その後、東京の中央神学校でさらに学び、神学者・牧師としてのキャリアをスタートさせ、福井県福井市にて4年間宣教活動に従事した[2]。

1937年8月、ニューヨークの総合神学校(General Theological Seminary)へ留学のため渡米。2年間の課程を修了後、1939年6月16日に米国聖公会から執事に叙任された[2]。

戦時中の活動と強制収容

1939年9月、ワシントン州ケントの聖パウロ教会常駐牧師に就任し、ホワイトリバー渓谷周辺の日系人コミュニティやシアトルの聖ペテロ教会で青少年指導に携わった[2]。

1941年12月7日の真珠湾攻撃直後から、FBIに拘束された日系人家族の通訳や精神的ケアに尽力。1942年5月、強制退去命令によりカリフォルニア州のパインデール仮収容所へ送られた後、同年9月にトゥーリーレイク強制収容所へ移送された[2]。

トゥーリーレイク収容所では、一世と二世の架け橋としてキリスト教の礼拝や日曜学校を立ち上げたが、行政側との通訳を務めたことなどから収容者内部の過激派から裏切り者扱いを受け、過酷な脅迫や襲撃に晒される事態となった。1943年10月、連邦教会協議会の日系人再定住委員会秘書に就任し、収容所を離れて東海岸および中西部での再定住支援活動に従事した[2]。

1944年7月、ミネソタ州スネリング砦の米軍情報部(MIS)語学学校の従軍牧師に任命され、出征前日系二世兵士のカウンセリングを担当。同年7月1日、日系二世の杉本不二子と結婚した。戦後はミネアポリスに留まり、日系人センターの開設や日系アメリカ人市民同盟(JACL)ツインシティーズ支部の設立(1946年)を主導した[2]。

公民権運動と世界教会協議会

1950年代以降、北川の活動は日系人社会を超えて人種問題全般へと拡大した。シカゴ大学神学部で博士号(Ph.D.)を取得後、1953年にミネアポリス市長人種関係諮問委員会委員長に就任し、ネイティブ・アメリカンの都市移住・人権問題に関する重要な報告書を作成した[3]。

1954年秋よりニューヨークのプロテスタント・エピスコパル教会本部勤務を経て、スイスのジュネーヴに本部を置く世界教会協議会(WCC)の職員・幹部として世界各地(主にアフリカや欧米)の人種関係・社会問題の研究をリードした[3]。

1960年代のアフリカ系アメリカ人公民権運動において、白人キリスト教団体の事向けな無関心を厳しく批判。1963年7月4日、メリーランド州ボルチモアのグウィン・オーク遊園地で行われた人種隔離抗議デモに参加し、不法侵入容疑で逮捕された[3]。

1967年、自らの収容体験と一世・二世の内面葛藤を描いた著作『一世と二世:収容の日々』(Issei and Nisei: The Internment Years)を執筆・出版した[3]。

1970年3月27日、WCCの出張・勤務先であったスイスのジュネーヴにて急死。享年59。遺体はニュージャージー州ハッケンサックに埋葬された[3]。

1962年3月には、母校の立教大学から名誉博士を授与されている[1]。

著書

  • The Pastor and Race Relations (Seabury Press, 1965)
  • Issei and Nisei: The Internment Years (Seabury Press, 1967)

脚注

関連項目