十時連久
| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 天文14年?(1545年?) |
| 死没 | 文禄2年1月27(1593年2月28日)(『筑後国史』によれば2月5日)[1] |
| 改名 | 四郎[2]→惟道→連久 |
| 別名 |
十時傳右衛門(初代) 異名:生摩利支天 |
| 戒名 | 雄功院殿前右門校尉義聞連久大居士 |
| 主君 | 立花道雪→立花宗茂 |
| 氏族 | 豊後大神氏族十時氏 |
| 父母 | 父:十時惟長[注釈 1] |
| 兄弟 | 十時惟元[注釈 2]、惟道、十時惟久[注釈 3] |
| 妻 | 板井兵部少輔の娘 |
| 子 |
十時新四郎、宮壽(十時源兵衛)室 養子:十時源兵衛[注釈 4] |
十時連久(ととき つれひさ)は、日本戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は惟道(これみち)。通称は傳右衛門(伝右衛門)。異名は「生摩利支天」。十時惟長の次男、十時惟元の弟。子に十時新四郎、娘に宮壽、婿養子に十時源兵衛。名跡の継承者は堀盛。 立花家侍大将、家老・武者奉行。家紋は五本骨扇。
生涯
出自
十時氏(とときし)は、九州の豊後国における国人衆である大神姓一族の庶流をルーツとする。代々入倉荘に居住したことから「入倉」を称していたが、大友氏が豊後国守護として下向した際にその臣下となった。その後、入倉長門守惟信[注釈 5]の代に同国大野郡十時荘へ移住して十時城主となったことから「十時」と改称し、大友一族の重臣である戸次氏に従属して家老を務め、戸次姓も賜った[3][4]。
大永6年(1526年)3月20日、十時惟信は孫の十時惟種[注釈 6]とともに、初陣であった若君・戸次鑑連(立花道雪)に従軍し、豊前国馬ヶ岳城の攻略戦に参加した。鑑連はわずか一日で同城を落城させたものの、惟信と惟種は戦死した[5][6]。
惟道の幼名は四郎。父は十時和泉守惟長であり、惟長は十時惟信の三男・河内守惟玄の子にあたる。
早期経歴
元亀2年(1571年)5月、主君・戸次鑑連が大友宗麟の命を受けて筑前立花山城へ移封され、形式的に立花氏を継承すると、惟道は父の惟長、兄の惟元とともに十時氏の庶流としてこれに従った。惟道は板井兵部少輔の娘を娶り、一子を儲けて板井氏を継がせ板井新四郎と称させた。また、渡辺清左衛門の子・源助に娘の宮寿を嫁がせ、婿養子として迎えて十時源兵衛と改称させた[7][8]。
惟道と従兄弟の十時連貞はともに十時家の庶流であったが、十時家嫡流の十時惟忠の次男で立花家老となった十時連秀とともに、数々の赫々たる戦功により主君・道雪から「連」の一字を賜り、連久とも名乗った[9][10]。
- 永禄11年(1568年)4月から7月にかけての立花鑑載討伐[11]、
- 永禄12年(1569年)5月の毛利元就軍と対峙した多々良浜の戦い[12]、
- 天正9年(1581年)11月12日に宗像氏貞家臣と秋月種実の連合軍による伏撃を受けた小金原の戦い(立花家側は清水原の戦い)[13]、
- 天正11年(1583年)4月16日に筑紫広門を破った志免町吉原口の戦い[注釈 7]、
- 天正12年(1584年)から翌年にかけての筑後遠征、
- 天正15年(1587年)9月から12月にかけての肥後国人一揆討伐(養子の十時源兵衛とともに奮戦し敵を撃退)[17][18][19]、
- 天正16年(1588年)5月27日の黒門の戦いでは、兄の惟元、従弟の連貞とともに放討作戦の討手の一員として加わり、惟道自身は隈部親永を討ち取って当日の首功を挙げた[20][21][22][23][24]。
これらの戦いにおいて、多くの一番槍、一番首、一番乗りの軍功を重ねた[10]。
天正15年(1587年)6月、立花家が筑後柳川大名となると、戸次鑑連の跡を継いだ立花宗茂は過去の功績に鑑み、惟道に1千石の俸禄を与えた[25]。その後、侍大将、家老兼武者奉行[26]、さらには総奉行四人衆の一人に抜擢された[注釈 8]。
前述の黒門の戦いの後数年の間(天正16年(1588年)5月27日以降から文禄元年(1592年)までの間)に兄の惟元が没したと見られ[注釈 9]、その32町の領地を継承した[28][10][注釈 10]。そして実子の新四郎を十時氏に復帰させ(これ以降、少なくとも文禄5年(1596年)までの史料文書に十時新四郎の名が見られ、主に伯父・惟元の俸禄を継承したものと推測される)、養子の十時源兵衛とともに俸禄を分け合い、計1千2百石を領した[29]。なお、板井家は立花家臣の堀盛が新四郎に代わって継承した[30]。
継承者・新四郎と源兵衛の戦功
新四郎の戦功
天正9年(1581年)11月12日、立花山城の北東に位置する国人豪族・宗像氏貞の一部家臣が、さきに宗像色姫[注釈 11]の輿入れに伴う化粧料(嫁入り道具代わりの領地)として立花方に割譲された領地に不満を抱いていた。折しも立花軍が秋月軍との戦い(潤野原の戦い)に出陣する一方、由布惟信、薦野増時、小野鎮幸、立花鎮実、内田鎮家、足達連安、十時連秀、安東連忠ら立花家臣の率いる兵800が、兵糧不足に陥っていた筑前南東端の鷹取城へ兵糧搬送に向かう隙を突き、宗像軍は秋月軍と連合して翌13日の帰路を急襲した(小金原の戦い、立花家側は清水原の戦い)。
この戦いにおいて立花家の諸将はそれぞれ多くの敵将を討ち取り、最終的には由布、小野、薦野、内田、十時といった立花家臣らが、太陽を背にして高所から駆け下り陣を突くという兵法上の正しい判断を下したことで、宗像方は大敗を喫した。敵将の吉田貞辰や石松秀兼らは討ち取られ、この一戦は宗像氏貞の裏切りと同義とみなされて道雪の激怒を買い、両家の同盟は破綻した[31][32][33][34][35][36][37][38][39][40][41]。
この時、新四郎も兵糧・輜重搬送隊の一員として任務に参加しており、翌13日の帰路において思いがけず初陣を迎えることとなった。この凄惨な戦闘の中で、当時わずか13歳ほどであった新四郎は、槍の穂先によって手傷を負いながらも敵将一人を討ち取り、見事に初の手柄を挙げた。戦後の軍忠功名状には「板井新四郎」の名でその戦功が記録されている[42]。
天正14年(1586年)8月24日、新四郎は亡き主君・戸次鑑連の跡を継いだ若君・立花宗茂に従い、立花山城の包囲を解いて撤退する島津軍を追撃、翌25日には島津軍の筑前における拠点であり、星野吉実・吉兼兄弟が守る高鳥居城を攻撃した。
城方の兵力はわずか300人であったものの、鉄砲の激しい射撃や大木・巨石を投げ落とす手痛い抵抗により、立花軍の将兵は一時少なからぬ被害を受けた。しかし、主君・宗茂や家中大将・小野鎮幸の鼓舞によって立花軍は猛攻を加え、ついに城内へと攻め入った。
この時、立花家一門衆の立花統春がいち早く敵大将・星野吉実の所在を見つけ出した。統春は吉実に対し、敵大将を討ち取る際の礼儀に則って額を押さえ、首を掻き切ろうとした。しかし吉実が激しく抵抗したため、兜の緒を切るにとどまった。そこへ通りかかった新四郎はまだ若くであったため、統春のこの行為が敵大将を仕留める作法であると知らなかったが、吉実を素早く突き飛ばして槍で刺し殺した。
立花家の武者奉行・池辺永晟が戦功の記録を行う際、新四郎は「これは統春殿の功績とすべきです」と語り、一方の統春も謙遜して「自分は討ち取ることができなかったため、致命傷を与えた新四郎(伝右衛門連久)殿の戦功とすべきだ」と述べた。しかし新四郎は疑問を抱き、「戦場とは狩猟と同じで、先に獲物を捉えた者の功績ではないでしょうか!?」と主張を譲らず、永晟に対し統春に戦功を記録するよう目配せした。
永晟がこの件を主君・宗茂に報告したところ、宗茂は二人が互いに戦功を譲り合う姿勢を聞き、さらに当時戦場でその一部始終を目撃していた京都光兼や藤江太郎右衛門の補足説明を受けた。宗茂は、かつて平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて宇佐美実政と天野則景が由利維平の捕縛を巡って争った例や、和田義盛と畠山重忠が藤原国衡の討伐功を争った例を思い起こし、今回の統春と新四郎がそうした過去の例とは異なり、互いに功績を譲り合っていることに感銘を受け、二人双方に戦功を認め感状を与えた[注釈 12]。
源兵衛の戦功
天正14年(1586年)8月24日、源兵衛は亡き主君・戸次鑑連の跡を継いだ若君・立花宗茂に従い、立花山城の包囲を解いて撤退する島津軍を追撃し、数十の首級を挙げた[44]。
天正15年(1587年)9月から12月にかけての肥後国人一揆討伐の際には、養父の惟道とともに主君・宗茂を護衛し、奮戦して敵を撃退した[17][18][19]。
文禄元年(1592年)、立花家が豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に参加すると、十時父子も軍に従い出征した。同年6月から7月頃にかけて、惟道の養子である十時源兵衛は立花軍の使者として小早川隆景配下の陣営に派遣され、金山(または錦山)城の攻略戦に参加して一番乗りを果たした。小早川家臣による証言を得たことで、源兵衛は隆景から戦功に対する感状を授与され、これには養父の惟道も大きな誇りと感じたという[45][46]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、西軍から東軍へと寝返った鍋島直茂が軍を率いて立花宗茂を攻め立てると、両家の軍勢は柳川の江上・八院一帯で激戦を繰り広げた。源兵衛は宗茂の伝令および偵察として戦場を行き来し、前線総大将の小野鎮幸との連絡役を務めた。戦後、源兵衛は小野鎮幸や立花成家とともに戦闘の顛末を詳細に記した覚書を作成し、主君・宗茂に提出した[47][48]。
朝鮮出兵、戦死
文禄2年(1593年)1月26日の碧蹄館の戦いにおいて、立花軍は日本軍の先鋒を務めた。惟道は同僚の内田統続とともに当初は立花軍の中備として配置されていたが、開戦前に先鋒へと転じ、砺石嶺から越川峠の南側へと進軍した際、明軍の査大受率いる約500の兵の急襲を受けた[49]。内田統続の鉄砲隊による攻撃で火蓋が切られると、惟道は天野貞成(安田国継)と一番槍の功を争い、真っ先に槍を投げて明軍の騎兵5・6騎を突き落とした[50]。槍を投げ終えると刀を抜き、馬を駆って500の兵とともに一斉に明軍の陣中へ突入、70から80人の騎兵を斬り落としながら、山谷の望客硯の下まで進出した。この時、明将の李寧が約3,000の兵を率いて救援に駆けつけ、査大受を援護した[注釈 13]。惟道は数倍に及ぶ敵軍を前にしても微塵も恐れることなく、明軍の動向を正確に察知し、まず正面から直線的に敵を破ることで左右から挟撃を図る明軍を一列に誘い込み、そこから反転して力攻めで突破を図り、小野鎮幸や米多比鎮久率いる中備軍との交代を成功させた[25]。
正面突破を図る間、大身槍を手に十数人の敵兵を討ち取った。やがて小野鎮幸が敵の火器の爆風をかいくぐって陣交替に駆けつけたが、惟道がさらに敵の騎兵1人を突き落としたその瞬間に、明将の李如梅によって右胸を毒矢で射抜かれた。惟道は自らに追い討ちをかけようとする敵兵を激しく追い払い、先鋒隊の撤退指揮を同僚の池辺永晟に委ねて、苦戦の末についに本陣へと帰還した[51]。最終的に主君・宗茂へ遺言を言い残した後、翌日に矢の毒が回って死去[10][52][注釈 14](『筑後国史』によれば、2月5日まで持ちこたえた後に没したとされる[1])。
立花軍が一時的に明軍を退けた後[注釈 15]、小早川隆景軍と合流して小丸山上にてしばし休息を取った。その後、戦場の西方にある丘陵へと陣を移し、密かに潜伏して出撃の機を窺った。午の刻(正午頃)に開戦すると、明軍は前進して小早川隆景の先鋒・粟屋景雄を圧倒し、小早川軍は一時敗勢に陥った。この時、重傷を負った惟道に代わって立花軍の先鋒を務めていた新四郎[注釈 16]と家老の小野鎮幸は、主君・宗茂に対し今こそ出撃の時であると進言した。しかし、宗茂はどっかと腰を据えたまま動かず、明軍がさらに深く押し寄せ、完勝を確信した瞬間こそが立花軍による側面からの奇襲の好機であると語った[53]。
継承者及び後裔
文禄5年(1596年)、惟道の戦死が確認できる時期において、その子・新四郎が領した俸禄は600石[注釈 17]、養子の源兵衛は400石を分与されていた[注釈 18]。また、新四郎に代わって板井家を継承していた堀盛は、板井兵部少輔の実子である板井甚内が成長したことに伴い、板井家の家督を返還した。さらに、こうした板井家をめぐる先後継承の縁により、堀盛もまた惟道の死後の俸禄の一部を分け与えられ、十時六右衛門惟盛と改称した[注釈 19][注釈 20][30]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、立花宗茂は西軍に与し、9月7日には東軍に寝返った京極高次が籠もる大津城の攻略に参加した。13日、立花軍は猛攻を仕掛けて三の丸および二の丸を奪取し、天守へ大砲を打ち込むなどして、15日にはついに京極高次を降伏させた。この戦いの最終段階における交渉において、立花宗茂は京極方に対して十時伝右衛門の遺骸の返還を求め、一方の京極方からも山田三右衛門の遺体の返還が要求されたため、両家は互いの将兵の遺骸を穏やかに交換した。この時討死した十時伝右衛門は、惟道の子・新四郎が戦前に「十時伝右衛門」の名を継承し、この戦いに参戦して戦死したものと考えられる[54]。
同15日に関ヶ原の本戦で西軍が敗北し、大坂城の西軍主将・毛利輝元も宗茂の提案した大坂城での籠城を受け入れなかったため、立花軍は領国である柳川へ帰国せざるを得なくなった。その後、立花家は改易処分となり大名の身分を失った。
この時、伝右衛門一統の十時氏は、本来であれば惟道の婿であり新四郎の義兄弟にあたる源兵衛が継承することとなり、刀槍や武器、旗印に至るまで源兵衛が引き継いだ。しかし間もなく源兵衛は黒田長政に再仕官し、さらには「黒田」の姓(苗字)を賜るに至った[注釈 21]。これは実質的に立花家の名将である十時伝右衛門の家系を捨てたに等しかったため、宗茂はかつて十時家の俸禄を一部分け与えられていた堀盛に十時伝右衛門家を継承させた。
その後、立花宗茂は大名としての復権を果たし、元和6年(1620年)には柳川の旧領に復帰(再封)した。堀盛も十時六右衛門と名乗り、ともに柳川へ帰還した。しかし、翌年の冬に堀盛の兄・堀秀が後継のないまま病死したため、堀盛は堀家に戻って家督を継ぐよう命じられ、自身の子・主馬介に十時家を継がせて十時惟貞と称させた。
しかし、惟貞の長男・十時半右衛門惟永は後に主家を離脱して長崎へ移住した。惟永の子は通称を「伝右衛門」としたものの苗字を「緒方」に改め、その子・緒方幸太夫惟政(号:池水)の養子である惟式に至って再び「十時伝右衛門」と改称した。しかし、この一系も実質的には十時伝右衛門の家系を正式に継承したとはみなされず、最終的には惟永の弟であり、祖父・堀盛の養子として堀氏本家を継いでいた堀実の三男・惟一(十時玄恕)が十時伝右衛門家を継承した。
惟一の子・伊右衛門惟重は、幸太夫惟政から正式に十時伝右衛門家の継承権を引き継いだ。これ以降、子孫は幕末に至るまで代々十時伝右衛門家を継承し、当主は幼名として「新四郎」を名乗り、明治期には通称「主馬介」、昭和期には再び「新四郎」などを称した。戦国時代の十時伝右衛門父子とは血縁関係がないものの、このように複雑な経緯を経てその名号が引き継がれ流伝したため、後世において先祖の事績や系譜が不鮮明になる要因となった[7]。
同時代における「十時伝右衛門連久」の名を持つその他の人物
十時新四郎(襲名伝右衛門連久)
本項目で主に記述する十時伝右衛門惟道について、十時氏や堀氏の関連家譜には惟道が「連久」とも名乗ったと記されているが、その継承者の一人である新四郎についても、史料の解釈や、血縁関係のない後世(堀氏や源兵衛の子孫)によって編纂された家譜・伝記の誤記・転写ミス、さらには軍記物や小説による通説の広まりなどの影響により、「十時伝右衛門連久」と称された可能性や、父の惟道、あるいは後述の十時甚右衛門と同一人物として扱われた可能性がある。これに伴い、板井氏を継承したことなども統合・混同され、結果として系図上にその名が掲載されない要因となったと考えられる[7]。
文禄5年(1596年)、立花家と宇喜多家の間で伏見城において対立が生じた際、十時新四郎は多くの立花家臣とともに護衛として主君・宗茂の身近に固く付き従った。宇喜多方による襲撃を防ぎ、宗茂の身の安全を守るため、各所への警護行動を共にした[55][56]。
伝承によれば、豊臣秀吉は慶長2年(1597年)に京都の楽器の名工・神田治光へ命じ、華麗な装飾を施した三味線を作らせ、これを淀君に与えたという。その後、朝鮮の役において一番槍の軍功を挙げたことを称え、この三味線は筑後柳河藩士・十時伝右衛門へと与えられた[注釈 22]。この名器は十時家において代々伝世し、江戸時代中期に至って一族の曽我家に渡り、今日まで伝えられている[注釈 23]。
立花家三十二槍柱の一人に名を連ね、文禄5年(1596年)、朝鮮出兵においては与力衆1名(十時喜右衛門)が配されていた。
十時源兵衛(襲名伝右衛門連久)
- 永禄7年(1564年)生 - 没年不詳(寛永15年(1638年)、75歳時点で存命が確認できる)。天正16年(1588年)〜文2年(1593年):200石、文禄5年(1596年):400石(うち200石は分与される)。
源兵衛が晩年に口述したものをその末子・十時雪軒が記録した『十時相模物語』には、以下のように記されている。
- 「2度目の朝鮮出兵(慶長の役)の出陣を待機していた際、かつて飛騨守様(立花宗茂)の家中で侍大将であった十時伝右衛門は、(先の文禄の役において)討ち死にを遂げていた。伝右衛門は生前、無事に帰国した暁には1万石の俸禄を与えるとの内諾を豊臣秀吉より受けていた。しかし伝右衛門には名跡を継ぐ男子がなかったため(一説に子は幼少であったとされるが[57]、伝右衛門連久の子・新四郎は当時すでに実戦に参加し得る年齢であり、幼少とは考えがたい)、渡辺清左衛門の子・源助が養子として十時伝右衛門の名跡を継ぎ、その娘・宮寿を妻に迎えて俸禄を拝領し、通称を十時源兵衛と改めた。伝右衛門は幾度も武功を挙げた名誉ある家系であったため、伝来の片刃の槍や団多子の旗、登楷子の旗指物などはすべて源兵衛が引き継いだ。関ヶ原の戦い後に立花家が改易となった際、源兵衛は黒田家に再仕官したため(後に十時相模一近と改名し[58]、晩年には黒田姓を賜る)、黒田家の家老である黒田一成・黒田一任父子から、この片刃の槍を譲り渡してほしいとの書状が二度にわたり届いたという[59]。」
なお、源兵衛は上述の十時新四郎が大津城で戦死した後、家名や俸禄、武具類をすべて継承したとも考えられている[60]。
立花家三十二槍柱の一人に名を連ね、文禄5年(1596年)、朝鮮出兵においては与力衆15〜17名(吉川内蔵介・濱路河内入道・臼井三郎兵衛・中嶌九兵衛・中嶌九郎兵衛・小山六右衛門・飯田十右衛門・佐藤主殿・鍋嶌四郎右衛門・松尾清左衛門・那須九介・鬼塚清兵衛・谷川清兵衛・弘生平左衛門・尾坊彦兵衛・安川内新右衛門)が配されていた。
長男は十時才蔵安信、次男は十時正左衛門である。
十時甚右衛門連久
- 生没年不詳(文禄5年(1596年)に俸禄400石の記録がみられ、慶長5年(1600年)の柳川城開城[61]、および元和3年(1617年)の高橋統増(立花直次)の死去に際する立花家の哀悼文書にその名が確認できる[62])。
『十時略系図』[63]によれば、十時甚兵衛惟之の子に十時甚右衛門連久が確認でき、また十時惟長の次男・伝右衛門惟道は高麗(朝鮮)にて戦死しているが、両者は従兄弟同士にあたる。
また、『柳川史話』第二巻 人物篇(その二)「八八 十時伝右衛門について」(p.178)、「八九 十時伝右衛門の後裔」(p.183)に収禄された十時家譜によれば、惟道は「連久」とも名乗ったとされる。さらに『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊「堀」(p.55)には、堀盛が文禄の役に際して戦死した十時伝右衛門連久の名跡を継承した旨が記されており、これらにより十時甚右衛門連久とはそれぞれ別人物であることが判別できる。
十時甚右衛門連久の武功の一つとして、天正15年(1587年)9月下旬、主君・宗茂に従い肥後国人一揆の討伐に参加した際の実績が挙げられる。当初、敵に包囲されて兵糧不足に陥っていた佐々成政軍を救出するための行軍の途上、立花軍は南関城(藟嶽城)を攻略し、その際、十時甚右衛門連久は高橋統増の家臣・中島六郎兵衛と共に城将の大津山出羽守を討ち取った[17]。
立花家三十二槍柱の一人に名を連ね、文禄5年(1596年)、朝鮮出兵においては与力衆11名〜12名が配されていた(上妻市右衛門・白仁平左衛門・木原兵部・森田専吉・入田図書・岩屋勘解由・合志六郎次郎・藤村勘之允・白仁長右衛門・中屋九兵衛・留木六右衛門・都地四郎)[64]。
人物・逸話
- 惟道は立花家の侍大将を務め、主君・道雪から「人と為り勇猛果敢にして臂力衆に超ゆ」と称賛された。生涯で得た感状は数拾通に及び、戦場における豪勇ぶりから、戦神・摩利支天のようだと評され、「生摩利支天」の異名で大いに名を馳せた[65][66]。
- 惟道は12歳の時、十時氏総領宗家の十時惟直[注釈 24]の配下に配属された。ある時、惟直が罪のある家臣を処刑し、とどめを刺そうとした際、惟道は躍り出てその首級を切り落とした。また18歳の時には、兄の惟元と共に再び罪のある家臣を成敗しようとしたところ、相手が長刀を振るって斬りかかり、混戦の末に一進一退の展開となったが、最終的に惟元が単独でこれを討ち取った。後年、惟道が男子の武勇談を語る際には、常にこの18歳の時に不覚を取った経験を挙げたという。このことから、彼は真の武士の気質を備えた人物であったと評されている[67]。
- 天正13年(1585年)6月、十時伝右衛門が立花道雪に従い筑後遠征に参加していた際、敵情を視察する物見隊に任命された。山中で捜索を行っていたところ、酷暑のため同僚の池辺永晟や安東幸貞と共に一時任務を離れ、近くの池で水浴びをしていた。しかしその最中、草野方の敵兵が接近してくるのを発見したため、焦った伝右衛門らは全裸のまま水中から飛び出し、敵兵を次々と撃退した。その後、伝右衛門は陣に戻って道雪に報告したが、普段は軍規に厳格な道雪も、このあまりにも不格好な武功には呆れつつ苦笑するしかなかったという。こうした奇妙な出来事を引き起こす点もまた、十時伝右衛門という人物の大きな魅力とされている[68][69][70][9][71]。(ただし、史料上の記述に「伝右衛門はまだ若気であった」との旨があることから、この逸話は当時17歳ほどであった子の新四郎のものである可能性もある。惟道の出来事とすると、この時すでに30〜40歳以上となっており、「若い」とは言いがたいとされる。)
- 九州征伐に際する天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉は豊前国小倉の入鹿原に大規模な相撲場を建築させ、日本全国の諸大名に対し、家中の勇士1名を提出して上覧相撲に参加させるよう命じた。これに対し、立花家からは惟道が真打として推薦された。惟道は腕力が並外れていただけでなく、肥後国の吉田家にて行司故実の儀礼を伝授されていたため相撲の造詣が極めて深く、周囲からの推挙を受けて行司(大会の進行・判定役)を務めることとなり、その名はさらに広く知られることとなった[72]。しかし競技の開始前、豊前国の豪傑・毛谷村六助(貴田孫兵衛統治)からの懇願を受けた惟道は、最終的に出場枠を譲り、自らの代わりに六助を出場させたという。
- 十時家の系譜によれば、出場した諸大名33名および力士36名の組み合わせは以下の通りである。
- 一番:田中兵部大輔吉政家臣 ─ 宮川土佐 殿
- 二番:京極若狹守高次家臣 ─ 佐々九郎兵衛 殿
- 三番:堀尾帯刀吉晴家臣 ─ 別所定之進 殿
- 四番:蒲生飛騨守氏郷家臣 ─ 三宅喜内 殿
- 五番:大和大納言秀長家臣 ─ 天野源右衛門 殿
- 六番:毛利右馬頭輝元家臣 ─ 杉森伯耆 殿
- 七番:吉川駿河守元春家臣 ─ 生石中務 殿
- 八番:近江中納言秀次家臣 ─ 中島三太夫 殿
- 九番:丹羽加賀守長重家臣 ─ 上田弥左衛門 殿
- 十番:片桐東市正且元家臣 ─ 多良尾平兵衛 殿
- 十一番:山内対馬一豊家臣 ─ 中野源太夫 殿
- 十二番:一柳監物直政家臣 ─ 吉川勘兵衛 殿
- 十三番:石田治部少輔三成家臣 ─ 大山伯耆 殿
- 十四番:中村式部少輔一氏家臣 ─ 渡辺勘兵衛 殿
- 十五番:加藤左馬助嘉明家臣 ─ 塙 団右衛門 殿
- 十六番:蜂須賀阿波守家政家臣 ─ 樋口内蔵助 殿
- 十七番:前田肥前守利長家臣 ─ 山崎孫兵衛 殿
- 十八番:高山大蔵少輔友房家臣 ─ 餘理八郎太夫 殿
- 十九番:長曾我部弥三郎信親家臣 ─ 中の内源兵衛 殿
- 二十番:筒井藤四郎貞次家臣 ─ 松井右近 殿
- 廿一番:黒田甲斐守長政家臣 ─ 母里太兵衛 殿
- 廿二番:福島左衛太夫正則家臣 ─ 桂市兵衛 殿
- 廿三番:結城三河守秀康家臣 ─ 梶尾助蔵 殿
- 廿四番:中村式部少輔一氏家臣 ─ 松倉隼人 殿
- 廿五番:福島左衛太夫正則家臣 ─ 可児才蔵 殿
- 廿六番:浅野弾正大弼長政家臣 ─ 亀田大隅 殿
- 廿七番:小早川左衛門尉隆景家臣 ─ 井上五郎兵衛 殿
- 廿八番:池田三左衛門輝政家臣 ─ 片桐半左衛門 殿
- 廿九番:浮田中納言秀家家臣 ─ 花房助兵衛 殿
- 三十番:増田右衛門尉長盛家臣 ─ 浮島典膳 殿
- 卅一番:生駒雅楽頭正俊家臣 ─ 大島大助 殿
- 卅二番:大谷刑部少輔吉隆家臣 ─ 湯浅五助 殿
- 卅三番:細川越中守忠興家臣 ─ 沢村才八 殿
- 卅四番:立花三河守増時家臣 ─ 上原郷右衛門 殿
- 卅五番:加藤主計頭清正家臣 ─ 木村又蔵 殿
- 卅六番:立花左近将監宗茂家臣 ─ 十時傳右衛門 殿
- 一番:田中兵部大輔吉政家臣 ─ 宮川土佐 殿
- 十時家の系譜によれば、出場した諸大名33名および力士36名の組み合わせは以下の通りである。
- 九州征伐の後、立花家が九州筑後柳川に領地を与えられると、浪人であった天野源右衛門貞成(安田国継)が立花宗茂の器量に惚れ込み、立花家への仕官を買い出でた。天野はかつて明智光秀の重臣として「明智三羽烏」の一人に数えられた実績や、織田信長に槍をつけた(手傷を負わせた)経歴を誇り、「戦陣に臨めば必ずや一番槍を挙げてみせる」と豪語して2000石の俸禄を要求した。当時、家中で度々一番槍の武功を立てていた惟道でさえ1千石であったため、宗茂は二人の俸禄の均衡について熟慮した。これに対し、惟道は天野に対し「公言通りの武功を立てねば2000石の俸禄には値しない」と釘を刺しつつも、主君・宗茂に対しては「この者は傑物であり、必ずや力を尽くすでしょう。私自身は自身の俸禄が彼より少ないことを恨みには思いませぬゆえ、どうか安心してご召し抱えくださりませ」と進言した。こうして天野貞成は立花家に召し抱えられ、その後の肥後国人一揆の討伐において目覚ましい活躍を見せた。しかし、朝鮮の役ににおける碧蹄館の戦いにおいて、惟道が一番槍の功を挙げたうえに凄絶な戦死を遂げたことで、己の不覚を恥じた天野は、後に立花家を去ることとなった[25][73]。
- 豊臣秀吉による朝鮮出兵において、立花軍は文禄の役最大の合戦である碧蹄館の戦いに参加し、先鋒に任命された。立花宗茂は漢城(京城)北方の砺石嶺(りせきれい)において、自軍を小野鎮幸・米多比鎮久の先陣700人、十時惟道・内田統続の中備500人、そして宗茂およびその弟・高橋統増率いる本隊2,000人に配置した。開戦直前、惟道は統続と共に先陣の小野鎮幸のもとを訪れ、自身を先鋒に譲るよう申し出た。その際、惟道は「小野殿は中備までお引きいただき、何卒私どもを先鋒にお立てくだされ」と請うた。これを聞いた鎮幸は激怒し、「無礼者め!貴殿はそのように軍法を破り、この小野を侮辱するおつもりか!」と一喝した。惟道は深く陳謝しつつ、「滅相もございません!小野殿や米多比殿は誠に我が家の柱石たる重臣であり、お二方の武勇と智略は決して欠かすことができません。もし私と統続が先陣となり、明の大軍と交戦して討ち死にしたとて惜しくはなく、むしろ敵軍を疲弊させることができましょう。その機に乗じ、小野殿・米多比殿が中備として攻め寄せ、主君・宗茂様の軍勢と連携すれば必勝は疑いありません!ゆえに何卒先鋒をお譲りくだされ!」と切々と説明した。鎮幸はその意図を理解し、主君・宗茂の許可を得て陣列の順番を入れ替えた。鎮幸は惟道の真意と深謀遠慮に大いに感服したという[10][74]。
- 碧蹄館の戦いにおいて、惟道は獅子奮迅の働きを見せて奮戦したものの、毒矢を受けて負傷した。苦戦の末にどうにか本陣へと引き揚げたが、主君・宗茂に対し「次の家老兼武者奉行には内田統続をお付けくださりませ……」との遺言を遺し、翌日、矢毒が回って息を引き取った[75]。
脚注
注釈
- ↑ 十時惟信三男、十時河內守惟玄の子。十時和泉守。
- ↑ 十時勘解由兵衛
- ↑ 十時太兵衛
- ↑ 渡辺三吉(清左衛門)の子。のちに黒田長政に仕え、十時相模守一近と改めた。また、黒田姓を賜った。
- ↑ 入倉四郎左衛門惟定の子
- ↑ 十時六彌太。十時惟信五男・十時基久(十時勘解由)四男。
- ↑ 筑紫広門軍が志免町吉原口より出撃すると、道雪は小野鎮幸を大将として2,000余騎を率いさせ、当初は薦野増時の与力・被官を前に出して迎撃にあたらせた。十時連貞および佐野統幸の手勢が合わせて進撃したものの、筑紫軍の優勢な兵力の前に包囲された。これに対し、鎮幸は大声をあげて突撃を命じ包囲を打開した。十時惟道・池辺永晟・森下釣雲らが奮戦して敵を駆逐すると、筑紫軍は耐え切れず敗走し、両軍ともに死傷者を出した[14] [15][16]。
- ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十四節 柳河偉人小伝(四)十時伝右衛門 901頁
- ↑
- 通説では惟元は天正12年(1584年)10月28日の筑後・発心城攻略戦、あるいは12月8日の善導寺の戦いで戦死したとされる(実際の善導寺での戦闘過程および戦死者名簿に十時姓の武将は見られず、正しくは発心城の戦いとされる。ともに同年年末の戦闘であったため、後世の記録において併記・混同されたとみられる)。
- しかし、この時の戦死者は惟元の叔父である十時甚兵衛惟之を指すと推測される。これは両者の通称である「甚」兵衛と「勘」解由、および諱(実名)の惟「之」と惟「元」の字体が類似していたため生じた混同と考えられている(当時のくずし字・草書体文書は漢字の判別が困難であり、例として『大分県大野町史』でも十時伝右衛門連久の兄が「惟之」と誤記されている)。
- 惟元に関しては、天正16年(1588年)の黒門の戦いにおいて12名の討手の一人として参戦した明確な文書記録が存在するため、1584年に筑後で戦死したとする記述は誤記とみられる。
- なお、文禄元年(1592年)の文禄の役(朝鮮出兵)における参陣記録に惟元の名が確認できないため、天正16年(1588年)から文禄元年(1592年)の期間内に没したと考えられている。
- 『十時略系図』[27]では惟元が九峰の戦いにて戦死したと記載されているが、この合戦はそれより遡る永禄10年(1567年)7月7日の出来事であるため、誤記と考えられる。
- ↑ 兄の惟元に男子がなかったため、惟道が父兄の跡を継ぎ、与力および知行700石を継承した。『筑後將士軍談』 P.29
- ↑ 宗像氏貞の妹・色姫は、道雪の側室となった。
- ↑
- 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)91 十時傳右衛門と立花次郎兵衛 P.187~188、
- 『立花遺香』 P.101~106、
- 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十四節 柳河偉人小伝(四)十時伝右衛門 901頁、
- 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十一節 柳河偉人小伝(一)立花統春 778~779頁、
- 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)88 十時傳右衛門について P.179~180、
- 吉永正春『筑前戦国史』高鳥居の落城と吉塚地名の起こり P.286~290、
- 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十七 立花次郎兵衛の礼節 P.131~132、
- 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』星野兄弟を攻めるP.80~82、
- 『橘山遺事』P.179~182[43]、
- 『帆足万里全集 上巻・嚴屋完節志』 P.436~437
- 本項は数十年後の江戸時代において、立花家の家臣らが当時の武功を回想した逸話が記録されたものであり、記述された人物の呼称は生前最後の通称や諱(実名)を用いて語られる傾向がある。初代・十時伝右衛門(惟道/連久)は早くも永禄11年(1568年)に元服し、立花鑑載の討伐戦に参加している。これに対し、高鳥居城の戦いが勃発したのは天正14年(1586年)であり、立花統春は永禄7年(1564年)生まれである。原文中では「十時伝右衛門(連久)はまだ若く、統春が取っていた作法(作戦上の礼節)を解していなかった」との旨が記述されているが、時期的に見てもこれは初代伝右衛門(惟道/連久)を指すとは考えにくい。当時まだ「新四郎」と名乗っており、統春よりも年少であった二代目・十時伝右衛門(連久)の出来事と解釈するのが妥当である。
- ↑ 明軍祖承訓・孫守廉・李寧・張應種・高昇・胡鸞ら3千人。
- ↑ 『西国太平記 毛利秀元記 (国史叢書)』巻之二P.366によると、「十時伝右衛門(惟道)とて数度勇の誉れある者。真っ先に進み戦しに、大勢に押しつつまれて討たれ、其外究竟の者73人、枕を双べて討たれ、手負も数十人也。敵をも六百余討ち捕し。然れば先手に有りし唐人ども、同勢の中に引取りし」と記している。
- ↑
- 朝鮮側の『宣祖実禄』では「前進して望客峴下に襲撃して克たず。已にして先鋒参将李寧等の軍来たりて之を援く」とあり、明軍の先鋒隊が負けたと考えられる。
- 『朝鮮王朝實錄・宣祖實錄・二十六年2月6日』「本月二十七日,李(如松)提督領兵發行,聞査(大受)副揔、高彦伯,同往體探,適逢賊六七百名(立花勢先鋒十時伝右衛門惟道部隊),斬獲四百餘級,則賊衆無數出來(立花勢中備小野鎮幸・米多比鎮久、立花宗茂・高橋統増本隊),副摠兵到退碧蹄,賊徒追至(立花宗茂本隊)云。
- 『朝鮮王朝實錄・宣祖實錄・二十六年2月10日』、『懲毖錄/卷九 馳報李提督進軍碧蹄不利還駐東坡及請輸運唐糧以濟大事狀正月二十九日』「二十六日,提督由開城府,渡臨津淺灘,駐兵于坡州。二十七日後,提督與李都督率家丁百餘,馳向碧蹄,將欲親自體探于京城,諸軍不動。是日曉,査(大受)緫兵與防禦使高彦伯,馳到昌陵近處,賊多設伏于山谷間,先出數百餘人誘引(立花勢先鋒十時伝右衛門惟道部隊)。總兵揮軍掩擊,賊坡靡散走,斬獲殆盡,彦伯軍,亦多射殺。欲引退之際,賊後隊大兵繼至(立花勢中備小野鎮幸・米多比鎮久、立花宗茂・高橋統増本隊)。
- 『朝鮮王朝實錄・宣祖實錄・二十六年2月19日』德馨曰:「南兵不顧生死,一向直前,吳惟忠之功最高,査大受浮誕愚人也。今此碧蹄之敗,大受輕進。
- ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十宗茂碧蹄の殊功)附「天野源右衛門覚書」の記述では、この時進言を行った人物を「十時伝右衛門」としている。しかし、この時点で惟道はすでに重傷を負っており、引き続き先鋒を務めたとするには矛盾が生じる。したがって、ここでの「十時伝右衛門」は、後に同名を襲名した新四郎を指していると解釈するのが妥当である。
- ↑ 主に伯父・十時惟元の俸禄(知行)を継承したことと推測され、与力衆1名が配属されていた。
- ↑ 源兵衛の俸禄(知行)は新四郎の俸禄に比べれば少ないものの、配属された与力衆は15人から17人にも及んでいた。
- ↑ 天正16年(1588年)に板井兵部の跡を継承したが、文禄2年(1593年)に家督を板井兵部の子・板井甚内に返還し、無給(無俸禄)となった。その後、文禄2年(1593年)から慶長元年(1596年)の間に十時惟道が戦死すると、かつてともに板井氏の家督を継承した縁により、十時新四郎とともに300石(さらにおまけに100石)を分け与えられ、十時姓を名乗ることが許された。
- ↑
- 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八八 十時傳右衛門について、八九 十時傳右衛門の後裔、九〇 十時傳右衛門後裔の補遺 P.181~187
- 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)補1立花文書 六四 御家中鉄砲付之事「文禄五年(1596年)十月十六日」P.634~639
- 十時摂津守連貞 千三百石 但百石餘 鉄砲六挺、十時太左衛門連秀 千石 鉄砲五挺、十時新四郎(二代目傳右衛門) 六百石 鉄砲三挺、十時源兵衛 四百石 鉄砲二挺、十時甚右衛門連久 四百石 鉄砲二挺、十時六右衛門盛 三百石 但百石餘 鉄砲壱挺。
- 「文禄5年(1596年)十時新四郎 600石」という記録から、十時氏本家の太左衛門連秀(1564年生)の1000石、嫡庶流の摂津守連貞(1556年生)の1300石に次いで、一族の中で第3位の俸禄を得ていたことが確認できる。このことから地位上、十時新四郎は惟道の戦死後における同十時氏分流の主要な後継者・代表者とみなすのが妥当である。
また、十時甚右衛門連久は新四郎の従叔父(父の従兄弟)にあたる人物である。その通称が「伝右衛門」と類似していること(当時の書状はくずし字が多く判別が困難であったこと)、さらに諱(実名)が同じであることに加え、初代伝右衛門(惟道/連久)・二代伝右衛門(新四郎)・甚右衛門連久の3名がいずれも同族の分流であり、活躍時期も重なっていたため、十時氏の先祖に関する記憶が曖昧となっていた後世の家譜の筆写(十時氏と直接の血縁がない堀盛の後代や、関ヶ原の戦い後に立花家を去り黒田家に改仕した源兵衛の後裔による記録)や軍記物において、彼らの事績や諱が混同され同一人物として扱われることとなったと考えられる。
- ↑ 関ヶ原の戦いの後、源兵衛は他の立花家臣らとともに加藤清正の庇護を受け、肥後熊本に滞在した。のちに元立花家老・薦野増時の紹介によって黒田家に改仕し、500石を領した。その子・才蔵安信は300石、次男・正左衛門は200石の俸禄を与えられた。晩年には黒田忠之の意を得て黒田姓を賜り、十時相模一近とも称した。75歳の時に島原の乱の鎮圧戦に参陣し、その功によってさらに100石が加増された。
- ↑ 碧蹄館の戦いにおいて一番槍の功を挙げた初代十時伝右衛門惟道の軍功に対し、その名跡を襲名した二代目十時伝右衛門(新四郎)がこの三味線を拝領したものと推測される。
- ↑ 田辺尚雄著『三味線音楽史』創思社、1963年
- この三味線は現在、東京の曽我綾子氏によって所蔵されている。胴の四面には日の出と鶴、松と波を題材とした蒔絵が施されている。棹は後世の手により継ぎ棹として修復されたものであり、上部の海老尾には「二世」の二文字が銀象嵌で表されている。胴の内側には「伏見御殿の御下命に応じ、大法橋治光作(花押)、慶長二年春三月」と墨書されている。蒔絵および書体については、各分野の専門家による鑑定を経て、桃山時代の作であることが確認されている。
- ↑ 十時新右衛門。十時右近太夫惟忠の弟であり、同時に惟忠の養子として十時氏総領の家督を継承した。
出典
- 1 2 『筑後国史』(十時氏系図)P.29
- ↑ 『筑後國史・筑後将士軍談』卷之第三十 系譜小傳 第二 立花家臣系譜 P.29
- ↑ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』 附錄 8 十時氏系図(惟信系)(十時(吉)家文書B6「太神姓十時氏略系」)P.440~441
- ↑ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第三分冊 十時 P.174~175
- ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳河偉人小伝(三)十時攝津 864頁
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一)豊前馬ヶ嶽 大永六年三月二十日 P.1頁
- 1 2 3 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八八 十時傳右衛門について、八九 十時傳右衛門の後裔、九〇 十時傳右衛門後裔の補遺 P.181~187
- ↑ 『柳河藩享保八年藩士系図・上』第二分冊 渡辺 P.349
- 1 2 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八八 十時傳右衛門について P.179
- 1 2 3 4 5 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十四節 柳河偉人小伝(四)十時伝右衛門 901頁
- ↑ 『戸次軍談』
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十 筑前多々良浜接戦之事 P.257~261
- ↑ 筑後国史 : 原名・筑後将士軍談 上巻P.352
- ↑ 『旧柳河藩主立花家文書-(鑑連公系譜之事など合冊)』 00000831
- ↑ 大日本史料 第11編之4P.327~328
- ↑ 『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.327-328
- 1 2 3 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』三十八 肥後一揆 起る P.108~110頁、三十九 統虎 平山城を救援す P.110~113
- 1 2 『立花遺香』 P.83~87
- 1 2 『筑後将士軍談』 卷之第十九 肥後國所々合戦之事 P.515~519
- ↑ 中野等 『立花宗茂』P.55~56
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 八二 軍勢注文写 天正十五年五月廿七日肥後國住人隈部筑後守親永、柳川黒御門前にて御成敗之節出合申候御人数之覚 P.99~100頁
- 御人数引廻 由布壱岐守惟次
十時摂津守連貞、十時勘解由惟元、十時傳右衛門惟道(連久)、池邊龍右衛門永晟、池邊彦左衛門貞政、安東五郎右衛門範久、安東善右衛門常久、石松安兵衛政之、原尻宮内鎮清、新田掃部助鎮実、内田忠右衛門統続、森下内匠規寬
十貳人外ニ掛通り 森又右衛門信清
跡押 小野和泉守鎮幸
- 御人数引廻 由布壱岐守惟次
- ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十四 黒門の戦い P.126~128頁
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(三四)筑後柳河黑門前 天正十六年五月廿七日 P.18頁
- ↑ 『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.102~105頁。
- 1 2 3 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(二) 十時連久小傳 P.232頁
- ↑ 『福岡県史資料』 第2輯P.441~442
- ↑ 『十時略系図』
- ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(二) 十時連久小傳 P.231頁
- ↑ 1592年『文祿役御軍役次第』1千2百石 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八九 十時傳右衛門の後裔P.183
- 1 2 『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 堀 P.55~57
- ↑ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.164~465
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 小金原合戦之事P.351~353
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』P.117~122
- ↑ 『筑前國續風土記』 卷之第二十六 古城古戦場 三 鞍手郡 小金原P.6~18
- ↑ 『立花遺香』 P.13~15
- ↑ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事P.622~626
- ↑ 小金原の戦い「立花道雪激怒」「宗像氏貞苦悩」
- ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.90~92
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二一)筑前清水原 天正九年 十一月十三日 P.12
- ↑ 吉永正春『筑前戦国史』小金原の戦い p.155~163
- ↑ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.59~60、P.63
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三四 大友義統軍忠一見状 天正九年十一月十三日、於山東宗像表合戦之砌、戸次伯耆入道道雪家中之衆、或分捕高名、或被疵戦死之着到、令披見訖、 頸一 鑓疵 板井新四郎 討之 P.352。
- ↑ 『橘山遺事』P.179~182
- ↑ 『帆足万里全集 上巻・嚴屋完節志』P.436
- ↑ 『立花遺香』 P.89
- ↑ 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八九 十時傳右衛門の後裔、九〇 十時傳右衛門後裔の補遺 P.181~185
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21「小野文書」・一六六 「小野和泉・立花吉左衛門・十時源兵衛申分覺」(小野文書312)P.132~133。
- ↑ 『国恩録』第七冊P.11
- ↑
- ↑ 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八八 十時傳右衛門について P.181
- ↑
- ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十九十時傳右の戦死)
- ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十宗茂碧蹄の殊功)
- ↑ 常山紀談 十時傳右衛門 山田三右衛門 死駭返しの事
- ↑ 『立花遺香』P.34~37
- ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』七十二 立花と宇喜多の騒動 P.198~202頁
- ↑ 『橘山遺事』附「十時相模物語」
- ↑ 「播州豊前筑前筮仕諸臣名簿」
- ↑ 『帆足万里全集 上巻』P.420
- ↑ 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八八 十時傳右衛門についてP.177~182、八九 十時傳右衛門の後裔P.182~186、九〇 十時傳右衛門後裔の補遺P.186~187
- ↑ 『立花遺香』宗茂清正に開城を約す
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)70 東京太田文書 P.649
- ↑ 『十時略系図』
- ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七一)與力頭并與力の面々 201頁
- ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(二)十時連久小傳 P.231~233頁
- ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(九)玉峰記 122頁
- ↑ 『立花遺香』P.12
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十六 戸次治部大輔以一矢拉寇、十時傳右衛門赤裸而撥敵事P.430~431
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』P.144
- ↑ 『国恩録』第三冊P.34
- ↑ 『大日本史料 第11編之15』天正13年4月P.22
- ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十四節 柳河偉人小伝(四)十時伝右衛門 901~902頁
- ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(五) 天野源右衛門小傳 P.235~236頁
- ↑ 菊池寛 碧蹄館の戦 「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
- ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(三) 内田統続小傳 P.233~234頁
参考文献
- 渡辺村男,《旧柳川藩志·下巻》,柳川山門三池教育会,1957年:193頁
- 渡辺村男 『柳川藩叢書 第一集』(青潮社、1922年)
- 浅川安和 『柳川藩叢書 第二集』(青潮社、1991年)(又名:浅川傳右衛門聞書、立花遺香、立花家聞文、公程閑暇雑書)
- 岡茂政 著、柳川郷土研究会 編 『柳川史話』青潮社、1984年。
- 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』 柳川市史編集委員会/編 福岡県柳川市 1996年(平成8年1月)発行
- 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・下』 柳川市史編集委員会/編 福岡県柳川市 1997年(平成9年3月)発行
- 『柳川市史 史料篇V 近世文書(前篇)』(柳川市史編集委員会、2011年)
- 『柳川市史 史料篇V 近世文書(後篇)』(柳川市史編集委員会、2012年)