小野鎮幸
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柳川古文書館蔵 小野鎮幸の肖像が描かれた木製ついたて | |
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
| 生誕 | 天文15年3月15日(1546年4月15日)[1] |
| 死没 | 慶長14年6月23日[注釈 1](1609年7月24日)[2] |
| 改名 | 乙寿丸[3]→孫十郎→定幸[注釈 2]→弾介→鎮幸(行)→和泉守→宗珊(号) |
| 別名 | 小野弾介→小野和泉守[4] |
| 戒名 | 華徳院殿真月浄蓮大居士 |
| 墓所 | 熊本県熊本市西区花園本妙寺東光院 |
| 官位 | 和泉守 |
| 主君 | 大友宗麟→立花道雪→宗茂→加藤清正 |
| 藩 | 肥後熊本藩 |
| 氏族 | 藤原姓小野氏 |
| 父母 |
父:小野鑑幸[注釈 3]、母:大友義鎮妹[5] 養父:小野信幸[注釈 4] |
| 兄弟 | 三郎[注釈 5]、 鎮幸 |
| 妻 | 戸次親延の娘(立花道雪の養女)[注釈 6] |
| 子 |
質幸(ただゆき)、小野五郎、 原尻鎮清室、小野鎮矩室、安東連直室 養子:和仁統実[注釈 7]、鎮矩[注釈 8]、茂高[注釈 9] |
小野 鎮幸(おの しげゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。大友氏、立花氏、加藤氏の家臣。日本槍柱七本・立花四天王の一人に数えられる。また和泉守であることから小野 和泉(おの いずみ)とも呼ばれる。旗印は日の丸[8]。家紋は杏葉紋(追い掛け二つ銀杏)[9]、井裄菊御紋[10]。
出自
小野氏の起源は、藤原道長の六男・藤原家長の子である祐家を初代とすることに始まり、2代忠能、3代政則を経て、正治2年(1200年)2月、4代佐賀は九州豊後へ移り、大友能直の寄客となって以降、九州との関係が本格化するが、5代隆村の子の6代隆順は正嘉3年正月より大友頼泰に仕えた。さらに7代隆鑑・8代隆辰・9代隆質とつづき、10代隆栄の時には菊紋の勅許をうけたというが、朝廷との関係を具体的に示す史料はない。その後、11代隆陳・12代隆定・13代隆信を経て、戦国時代には大友氏から豊後野津院一帯の知行地を与えられたとされる[11]。
戦国期の豊後小野氏は、14代長幸[注釈 10][注釈 11]、15代安幸[注釈 12][注釈 13]、16代鑑幸[注釈 14][注釈 15]、17代信幸[注釈 16]と代を重ね、大友氏のため各地を転戦して数々の功を挙げた。そのうち三代にわたって戦死者を出している。
鎮幸の養父である信幸は、弘治3年(1557年)7月8日、秋月文種討伐のため筑前古所山で行われた合戦において戦死した[12][13]。また、実父の鑑幸は永禄10年(1567年)9月3日、秋月種実を攻めた筑前休松の戦いで戦死した[14][15]。 これを受けて鎮幸が家督を継承し、小野氏第18代当主となった。また、父祖以来、大友氏の重臣である戸次氏の陪臣として、その寄騎・与力衆・目付役・軍監などを務めた[16]。
生涯
元亀2年(1571年)、鎮幸は由布惟信に推挙されて大友宗麟の直臣から同大友氏の重臣・立花道雪に仕えた[17][18]。生涯で22度の大戦、多数の小戦に参加[注釈 17]して敵将を討ち取るや全身刀や槍、矢、鉄砲による67ヶ所の傷を受け、分取高名・一番鑓・一番乗・一番首など数々戦功を立て大友氏・立花両家から合計68枚の感状を受けた[1][92][93][94]。
家中に由布惟信と共に、道雪から孫子兵法の「奇正相生」を引用しての奇と正の両翼として立花双翼と称揚され、鎮幸は奇の将を任じた[92][93][95]。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、道雪は高橋紹運や朽網鑑康と共に筑後の支配を回復すべく戦い、道雪配下の備隊大将の1人として同僚の由布惟信らと共に数々の戦功を挙げる[96][97][98]。
道雪の歿後、立花家の跡を継ぐ立花宗茂に仕え、天正14年(1586年)8月島津軍と抗戦し、立花山城籠城や高鳥居城攻めなどでも、両足が鉄砲に打たれて傷を負いながらも軍功を立てた[92][99][100][101]。
天正15年(1587年)筑後国柳川城の城主となった宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め、蒲池城主となった。 9月、肥後国人一揆討伐にも従軍。深謀遠慮の将とも言われ、作戦直前の道への用心深い偵察や山伏・忍者の手配[102]、第三陣を率いて敵の襲撃を突破するなどでも殊功を立てた[103]。
天正16年(1588年)5月27日、柳川城東南隅の黒門にて、隈部一族の武士名誉を保つように、立花家臣と隈部一族と同じ数の12人(一説は隈部方は精鋭20名)の討手と真剣勝負、放し討ちにした際に、殿として参加した[104][105][106][107][108]。
文禄・慶長の役にも参加、碧蹄館の戦いに奮戦する[109]、対朝鮮軍将官の駆逐追撃[110]や蔚山城の戦い[111]、露梁海戦に明の軍船数隻を捕獲した[112]などの武功を立て、豊臣秀吉から一騎当千・日本槍柱七本の筆頭として讃えられた[2][94][113][114]。
江上・八院の戦い
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると石田三成の西軍への参加を主張し、大津城を攻略した。ところが、西軍が関ヶ原にて敗れると、加藤清正、鍋島直茂、黒田孝高(如水)が柳川を攻める形勢となった。同年10月14日、鍋島勢32,000[注釈 18]は二手に分かれて佐賀を進発すると、立花勢も迎撃のために八院方面へ出陣した。しかし、東軍の徳川家康への恭順を示すため主君・宗茂は城に残り、立花勢13,000のうち出陣したのは家老の鎮幸を総大将とする約3,000[注釈 19]であった。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河して立花方の海津城を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌10月20日に鍋島軍の先鋒軍3~5,000と鎮幸率いる立花軍1,300と激突した(江上・八院の戦い)。
立花勢先鋒の安東範久[注釈 20]、石松政之[注釈 21]らは鎮幸の与力・松隈小源の軍令誤伝のせいで、軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島勢の軍陣の中へ突入した[115]。先鋒第三隊の立花統次[注釈 22]は鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦し、鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田へ撤退したといわれている。 しかし、鍋島方は、立花勢を包み込んで包囲殲滅する作戦を当初から立てており、立花方は一騎駆けで敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東範久、石松政之もたちまち反撃を受けた。救援出陣の第二陣立花鎮実[注釈 23]と鎮実の若い次男立花親雄[注釈 24]や新田鎮実[注釈 25]は横合から果敢に攻めかけたが、これも後を断たれて共に戦死した。後陣の矢島重成[注釈 26]と千手喜雲[注釈 27]は戦を躊躇し接戦していないため[116]、馬廻衆の安東幸貞[注釈 28]、第三陣の若武者十時惟久[注釈 29]、先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した[117]。
総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが[118]、水田方面の黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊300を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した[119][120][121][122][123][124][125]。
熊本藩士時代
立花家が改易されて宗茂の身が加藤清正預かりになると、家臣達の多くは立花家臣団の勇猛を知る清正に召抱えられ、鎮幸はそのまとめ役として肥後国に残って、4千石の禄高を受けて加藤清正に転仕した。宗茂は僅かな家臣と共に各地を放浪する旅に出たが、鎮幸は少しずつ金を貯めて度々宗茂に送っている[126]。
慶長14年(1609年)6月23日、肥後にて死去。享年64。後に、立花宗茂が柳川城主に返り咲くと、鎮幸の子孫は呼び戻され代々大組組頭兼家老を世襲した。
逸話・人物
- 元亀年間、小野鎮幸が大友家の軍監として戸次道雪(立花道雪)の陣営に赴いた際、道雪の腹心である名将・由布惟信は、鎮幸の並外れた言動や立ち振る舞いに目を見張った。惟信は道雪に対し、主君・大友宗麟に掛け合って鎮幸を立花家の家臣へと転属させるよう進言した。その際、惟信は自らの領地を削って鎮幸に分け与えることすら厭わなかったという。さらに、鎮幸が正式に立花家の家臣となった際には、投票(家中での合議など)を経て鎮幸を立花家老の座に就かせた。道雪もまた、自らの叔母を養女としたうえで鎮幸に嫁がせており、彼らが鎮幸をいかに重用していたかが窺える[127]。
- ある日、道雪は雪下(由布惟信)と和泉(小野鎮幸)の二人を近くに呼び寄せ、次のように語った:「軍を率いて戦う道においては、必ず兵法を先とすべきである。いかに武勇に優れた軍勢であっても、戦場において『正奇の変(正攻法と奇策の使い分け)』を欠くことはできない。それゆえ、私にも正軍と奇軍の双方を担い、補佐してくれる大将が必要なのだ。『孫子』に言う、凡そ戦いは正を以て合い、奇を以て勝つ、と。奇正相生ずること、天地のごとく窮まりなく、江河のごとく竭きず、循環の端なきがごとし、誰か能くこれを窮めんや! 今日、雪下は正軍の将、和泉は奇軍の将となれ。明日はこれを交替せよ。薦野三河(薦野増時)や米多比丹波(米多比鎮久)らもまた勇毅の士であり、副将にふさわしい。汝ら二将が互いに励み競い、奮勇して、疾風迅雷のごとく勝利を収めるならば、我が軍は九州に無敵とならん!」 これ以降、由布雪下と小野和泉は、しばしば手を携えて戦陣の指揮や政務の合議にあたり、共に立花家の存続と発展のために尽力したという[128][129]。
- 文禄の役において、鎮幸は宗茂に従って朝鮮へ出兵し、碧蹄館の戦いにて勇猛果敢に奮戦した。この戦いの開戦前、立花宗茂は本戦の先鋒指揮官であった小早川隆景の推挙により先鋒隊に任じられたが、当時の宗茂はまだあまりにも若かったため、隆景は立花家中で歴戦の老臣・鎮幸に対し、宗茂を補佐し指導するよう特に言い含めていた。宗茂も当然ながら、鎮幸を大いに重用し信頼を寄せていた。立花家の中核となる備えの大将を務めた鎮幸は、宗茂と共に明軍の陣中へと何度も突撃を繰り返した。明軍が退却し日本軍が追撃に移った際、恵陰嶺の地において、鎮幸は単騎で馬を横たえて他の日本軍の将兵にそれ以上の追撃を制止した。時を同じくして、隆景も後方の日本軍に追撃停止の命令を下しており、これによって立花家の部将である鎮幸が、当時他の大名家の将兵からもその器量を認められていたことが窺える[130][131]。
- 鎮幸は戦場で活躍し、「立花家一騎当千の臣・小野和泉守鎮幸」としての名声を広く轟かせた。宗茂と共に上洛して豊臣秀吉に謁見した際、秀吉から「日本七柱槍の筆頭」と褒め称えられ、本多忠勝、島津忠恒、後藤基次、直江兼続、飯田直景、吉川広家らと並び称された。鎮幸は立花家第一の功労者とみなされ、秀吉からはその精妙なる槍術をもって、宗茂と共に西国の守りを固めることを期待されたという[132][133][134][135]。
- 鎮幸は宗茂から非常に重用され、親父のように慕われるほどであった。文禄4年6月3日、宗茂は鎮幸の酒の飲みすぎを心配し、彼の身を思いやるあまり、酒量を控えるよう約束させる誓紙(神文)を鎮幸に提出させている[136][137]。
- かつて、宗茂が上洛して伏見や大坂に滞在していた際、鎮幸に政務を委ね、町人や百姓の問題から家臣間の紛争に至るまで、自らへ逐一報告する必要はなく、すべて鎮幸の裁量で処理するよう命じていたとされる。鎮幸はこの厚い信任を一身に受けていたが、家中には彼を妬む者も少なくなく、立花鑑貞を筆頭に、原尻鎮清、十時惟道、京都光兼らが一味を結成し、鎮幸の暗殺や襲撃を企てたこともあったという。しかし、宗茂の鎮幸に対する信頼は終始揺らぐことがなく、これには周囲の者たちも深く首を傾げるばかりであった。文禄の役が終わった後、鎮幸の勇名は広く知れ渡ったものの、それと同時に彼にとって不利な噂も流れるようになった。当時、鎮幸は守財奴であると見なされ、さらに賄賂などの不正に手を染めているのではないかと疑いを持たれたのである。家中の重臣である由布惟信や安東連直らも鎮幸を詰問したが、慶長元年に再び朝鮮へ出兵する直前、立花家は長期にわたる出兵によって財政難に陥り、軍資金の不足という問題に直面した。その際、鎮幸は自らの家財を惜しみなく差し出して出兵費用に充てた。これにより、連直らはようやく鎮幸のこれまでの行動の真意を悟り、その深謀遠慮に改めて感服したという[138][139]。また、関ヶ原の戦い後、宗茂が浪人生活を送っていた時期、多くの大名家が財政難に直面しており、家臣たちも宗茂の資金不足を深く案じていた。そんな折、鎮幸は宗茂に銀二十貫目を献上した。宗茂は不思議に思い、当時、俸禄を失った浪人の身であった鎮幸が、一体どのようにしてこれほどの巨万の富を蓄えたのか、その由来を尋ねた。これに対し鎮幸は、奉行の職を務めていた数年間、領民や家臣から贈り物を受け取る機会は多かったものの、職務上の立場から返礼はせず、受け取った品々も決して私用には回さなかったと説明した。彼はそれらの品々を売却して銀として蓄え、陣中で生活に困窮した家臣を援助したうえで、残った銀二十貫目を宗茂に献上したのである。 宗茂は鎮幸の廉潔な人格と忠誠心にいたく感銘を受けたと伝えられている。また、この出来事によって、家中の者たちも改めて鎮幸が並外れた人物であることを認識したという。後年、鎮幸が銀二十貫目を献上した由来を知った人々は初めて合点がいき、宗茂の人物鑑識眼の確かさに感服したと伝えられている。ちなみに、当時の銀二十貫目は莫大な財産であった。例えば、大原直盛が打った名刀が銀二十匁という価格で出されても、人々はなお高価すぎるとして買い手がつかないほどであった。また、銀五匁ほどの価値の馬といえば、すでに西国を一円乗り回すのに十分な良馬であった。これだけでも、銀二十貫目が当時どれほど巨額の価値を持っていたかが推し量れよう[140]。
- 加藤清正が初めて小野鎮幸を召し出して万事をお尋ねになった際、清正は鎮幸の豪胆さと細心謹慎な処世のあり方に、常々驚き感服していた。そして、次のように称賛した:「彼こそは誠に豪勇無敵の士である。樫柄の槍一本を持たせれば、いかなる一方の守りを固めさせても不足のない者だ。戦場において彼に攻め込ませれば、いかに堅固な陣であっても破れぬものはなく、真に本領のある武士である。若き者どもは、彼を見習うべきだ」[141][142][143]。
- ある日、清正が鎮幸と談話した際、清正は、鎮幸は幼少の頃から各地を転戦していたため、十分に学問を修める機会がなかったのではないかと推測した。清正自身も、幼少の頃から公務に追われて暇がなく、今になって学問を始めようとしても困っていると語った。これを聞いた鎮幸は、率直に次のように語ったという。「私は六十一歳になるまで、『いろは』の『い』という字さえ知りませんでした。朝鮮にいた頃、毛利輝元公から書状が送られてきたことがありました。その時、私は首実検を行っており、使者は陣中まで直接書状を届けてきました。私は立花宗茂公の家老であり、しかも相当の年齢になっていたため、面と向かって字が読めないと言うこともできず、どうすればよいのか分からず大いに困りました。ちょうどその時、内田鎮家が通りかかったので、書状を読んでもらい、『どうか適切な返書を書いてくれ』と頼み、何とかその場を切り抜けました。この出来事を経験して、このままではいけないと思い、帰国して陣中に戻った後、妻に『いろは』を書いてもらって学び始めました。今ではようやく、どうにか学び覚え、少しばかり歪んだ字を書くことができるようになりました。」清正は当初、鎮幸の話を談笑の中での謙遜と受け取っていた。しかし、後に内田鎮家や立花家から来た他の者たちにその真偽を尋ねたところ、鎮幸の話には偽りがないことが分かった。これを知った清正は、「このような取るに足らない小さなことにさえ、少しの偽りもない。これこそ本当の武士というものだ。まことに見習うべきことである。」と感嘆したという。これ以後、清正と鎮幸の親交はさらに深まり、清正はしばしば鎮幸を訪ねて談話したほか、将棋の相手を務めさせることもあった[144][145][146][147]。
- またある日、鎮幸が清正と将棋を指していたところ、隣室にいた近習たちが突然口論を始め、ついには抜刀して斬り合い、一人がその場で負傷する事態となった。清正が立ち上がって自ら隣室の様子を見に行こうとしたところ、鎮幸は清正の袖をつかんで引き止め、次のように諫めたという:「一軍の大将たる者が、どうしてそのように軽々しく危険な場所へ赴こうとなさるのですか。決してなさるべきことではありません。もし本当にここまで斬り込んでくるのであれば、まずはこの老いぼれの私が防ぎましょう。私が討たれた後で、殿が自らお出になるのでも遅くはありません。それに、外にいる番衆はいったい何のためにいるのでしょうか。すぐに騒ぎを鎮めるはずです。」これを聞いた清正は、恥じ入って顔を真っ赤にし、その場に座り直したという。ほどなくして番衆が騒動を鎮めた。この一件は清正にとって生涯忘れられないほど恥ずべき出来事であったとされ、臨終の際の遺言にも、「私の心の内は、すっかり鎮幸に見透かされてしまった。まったく、どうしようもないことだ。」といった趣旨の言葉を残したという[148][149]。
- ある時、清正は関東地方から「嵐鹿毛」と呼ばれる秘蔵の愛馬を手に入れた。清正が人を遣わしてこの馬を馴らし、試し乗りをさせていたところ、ちょうど鎮幸が通りかかり、「これはまことに天下無双の名馬ですな。もし私がもう少し若ければ、殿にお願いして一度乗せていただきたいところです」と称賛した。これを聞いた清正が、「そなたは右手が昔の負傷のため不自由であろう。それでも馬に乗れるのか」と尋ねると、鎮幸は、「荒々しい荒馬を馴らすことは難しいかもしれません。しかし、この腕を斬られて骨折する以前から、私は長年馬に乗り慣れておりました。このように大人しい良馬であれば、十分に乗りこなせます」と答えた。そこで清正が「それならば、試しに乗ってみよ」と言ったため、鎮幸は馬に乗り、しばらく安定した様子で乗り回した。その後、清正のもとへ戻ると、わざと礼を述べるように、「殿、このような素晴らしい馬を賜り、ありがとうございます」と言って礼を済ませると、そのまま馬に乗って自分の寓居へ帰ってしまった。これを見た周囲の者たちは、ようやく事態を理解し、「あの老いぼれ(鎮幸)は、殿をうまく出し抜かれた!」と驚いたという。しかし、清正は一度「乗ってみよ」と許可していたため、結局その馬を鎮幸に与えたとされる[150]。
- 加藤清正による鎮幸への優遇は、加藤家の家臣たちに立花家臣への不快感を抱かせることとなった。ある日の酒席でのこと、加藤家の中でも武名の高い飯田直景(角兵衛)、荘林一心(隼人)、森本一久(儀太夫)、加藤清兵衛直正らが鎮幸に向かって、「我らは立花家の数々の軍功を耳にしているが、宗茂公ご自身が自ら奮戦し、最も大きな軍功を挙げられた戦場は一体どこであるか」と問いかけた。鎮幸は沈黙したまま答えなかった。彼らは続けて、「では、鎮幸公ご自身の武功について語られよ」と問うたが、鎮幸はなおも沈黙を貫き、酒席が終わると退出してしまった。これを見た加藤家臣たちは、「世間は彼のことを英雄豪傑と称すが、柳川におった頃はそうだったのかもしれぬな。だが、ここ肥後においては大したことはないわ」と鎮幸を嘲笑した。この一件以降、加藤家臣と立花家臣の不和はますます深まり、鎮幸はある計策を巡らせることとなる。 後日、再び夜に催された酒宴の席で、鎮幸はまたしても自身の武勇について問われた。当初は答えなかった鎮幸であったが、今度はついに説明することを承諾した。すると、突如一同の前で上着を脱ぎ捨て、上半身にある四十四箇所の傷痕を露わにしたのである。一座の者たちが思わず唖然とする中、鎮幸は淡々と「私は多くの合戦に身を投じて参り、今日はその説明のために、わざわざ感状を持参いたしました」と言い、感状と傷痕を一つずつ照らし合わせながら語り始めた。その感状の中には、分取高名(敵将の討ち取り)、一番鑓、一番乗、一番首といった最高の名誉が記されており、そのような感状だけでも実に二十六枚にのぼった。鎮幸の壮絶な傷痕と凄まじい軍功の数々を聴いた加藤家臣たちは、次々と鎮幸に謝罪した。 そこで今度は鎮幸が加藤家の家臣たちに問いかけた:「聞き及ぶところによると、かつて清正公が仏木坂の戦いにてて木山弾正と激闘を繰り広げられた際、槍の片鎌を折り取られながらも、最終的に木山弾正を討ち取られたとのこと。しかし、その時、貴殿らは一体どこにおられたのか?主君がその身を危険に晒しているのを目にしながら、自らの武功をもってそれをお護りし、事績を残すこともできなかったとは、貴殿らは一体何をしていたのだ? 我が主君・宗茂公にしても、それほどまでに幾多の修羅場を踏んでこられたが、我々部下たる者が一歩も引かずに敵を切り崩し、粉砕してきた。それゆえ、ついに宗茂公ご自身に、そこまでの窮地を陥らせたことは一度としてないわ!」これを聞いた加藤家臣たちは顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。以降、再び酒席が設けられても、二度と鎮幸の前で自らの武勇伝を口にすることはなくなったという[151][152][153][154]。
- 後に清正は鎮幸に武道について尋ね、「戦場において、また武士の道において、最も難しいことは何であろうか」と問うた。これに対し鎮幸は、「特別に難しい道理があるわけではありません。ただ、よく死ぬことこそ、この世で最も難しいことです」と答えたという。この言葉を聞いた清正は、鎮幸の境地に深く感服したとされる[155]。
- 立花宗茂(立斎)の回想によると、多くの者は戦場での自功を誇大に語りたがるが、小野鎮幸(和泉)は異なり、戦場から退くたびに「あの時の下知(指揮)は不十分であった」と常に反省していたという。鎮幸自身が納得のいく指揮ができたと語ったのは、筑前国高鳥居城の戦いのみであった。この戦いで鎮幸は、石垣の上から落石を受けて倒れた際、家臣らが退避させようとするのを拒み、「我に構わず、我が身を踏み散らして敵陣へ乗り入れ」と下知した。宗茂は、これこそが真の武士のあり方であると称賛している。また宗茂は、鎮幸の真の功績は単なる個人の武勇ではなく、一度崩れかかった軍勢を立て直して勝利に導いた点にあり、自身が覚えているだけでも同様の戦功が4度あったと高く評価している[156]。
- 臨終の際、子孫に対し「我が小野家は代々立花家の家臣たるべし。もし立花家が大名として復帰(再興)したならば、必ずや再び仕官せよ」との遺言を遺した。
家臣
小野四天王[123]
- 丹波左馬
- 帆足日向
- 中野大膳
- 大庭太郎右衛門
- 大原市内(鎮幸の影武者)
脚注
注釈
- ↑ 一説は5月23日『福岡県史資料 第1輯』P.268
- ↑
- 「藤原姓小野氏系図」では、長幸の長男を定幸(乙寿・次郎九郎・和泉守)としているが、「小野文書」によれば、長幸の長男は安幸、次男は鑑幸とされており、定幸については詳細が明らかでない。
- 一方、安幸の子である信幸(宮菊丸、大蔵丞)が弘治3年(1557年)に筑前秋月で戦死した後、翌年には戸次鑑連(道雪)から、翌々年には大友宗麟から、それぞれ養子の乙寿丸宛てに知行預ヶ状が発給されている。幼名を乙寿丸とした長幸が、この時点においてなお乙寿丸と称されていたとは考えにくいため、これらの書状に記された乙寿丸は、定幸を指す可能性がある。
- さらに、出生年から考えると、1546年生まれとされる鎮幸は、1558-1559年の時点で13-14歳であり、まだ元服前であった。また、「和泉守」という通称も共通していることから、これらの史料に見える乙寿丸(定幸)に該当する人物としては、鎮幸が最も有力であると考えられる。
- なお、中野等・穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』14頁では、これらの知行預ヶ状について「小野鎮幸(乙寿丸)」と記されている。
- ↑ 小野次郎三郎幸俊、弾正忠。小野長幸(小野乙寿丸、藤左衛門、刑部少輔、左衛門、和泉守)の次男。小野安幸(小野十郎)の弟。
- 『柳川市史 史料篇V 近世文書(前篇)21 小野文書』P.79-99、P.102、P.135-140
- 「藤原姓小野氏系図」によれば、永禄10年(1567年)9月3日、筑前休松の戦いで戦死、69歳(1499年生-1567年沒)。
- ↑ 小野宮菊丸、大蔵丞、大蔵少輔。小野安幸(小野長幸嫡男)の子。
- 『柳川市史 史料篇V 近世文書(前篇)21 小野文書』P.86、87、89、90
- 「藤原姓小野氏系図」によれば、弘治3年(1557年)7月8日、筑前秋月文種討伐で戦死、36歳(1522年生-1557年沒)。
- ↑ 小野萬若、三郎、治部少輔、連康。小野鑑幸の庶長子。鎮幸の庶兄。
- 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』小野氏系図 P.435
- 『柳河藩享保八年藩士系図・下』小野氏系図 P.356-362
- ↑ 寶林院殿月桂清香大姉[6]
- ↑ 和仁十郎三郎、式部少輔、小野久右衛門、号は自休。肥後国人・和仁親続の次男、和仁親実の弟。立花道雪、立花宗茂父子に召し抱え立花家臣となった。肥後国人一揆によって和仁兄弟の一族がことごとく討伐されたため、「和仁」姓は憚られるようになった。そこで、宗茂の提案により、統実を小野鎮幸の養子(異説では養弟)とし、小野久右衛門と改名させた。
- 『柳河藩享保八年藩士系図・下』P.42-51
- ↑ 森下釣雲(三代目森下備中守)の次男・森下作兵衛(佐兵衛、三池左京とも)。森下備中守(四代目)の弟、立花統次の実兄[7]。
- ↑ 小野弥太郎、弥太兵衛、若狹守、正幸。小野鎮矩の次男。兄・喜平次辰幸は早世、また父・鎮矩の出奔後、鎮幸は孫の茂高を嫡子として十九代小野家督を継がせた。
- 中野等、穴井綾香 著、柳川市史編集委員会 編『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.436
- ↑ 小野乙壽丸、藤左衛門、刑部丞、形(刑)部少輔、左衛門、和泉守。
- 『柳川市史 史料篇V 近世文書(前篇)21 小野文書』P.79-86、P.96-97、P.102、P.135-137、P.140
- ↑
- 「藤原姓小野氏系図」では長幸を第16代当主とし、15代信幸の養子とする一方、14代を安幸としているが、「小野文書」とは多くの点で齟齬がある。
- 『小野和泉と後裔』では、14代について安幸と長幸を取り違えた可能性が指摘されており、実際には14代が長幸、15代が安幸であったと考えられる。
- また、信幸の養子を長幸とする記載については、幼名がともに乙寿丸であった鎮幸を長幸と誤認したものと考えられる。信幸が弘治3年(1557年)に戦死した後、翌年には戸次鑑連(道雪)から、翌々年には大友宗麟から、それぞれ養子の乙寿丸宛てに知行預ヶ状が発給されている。「小野文書」を参照すると、長幸はこの時期にはすでに元服して長年が経過しており、80歳近い年齢に達していたとみられることから、これらの知行預ヶ状の宛所である乙寿丸は、元服前の鎮幸を指すものと考えられる。
- 中野等・穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』14頁の記述においても、この時期の知行預ヶ状に記された「乙寿丸」は鎮幸に比定されている。
- ↑ 小野長幸の長男、小野十郎。
『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書
- 二三 大友親安(義鑑)安堵状 親父長幸一跡之事、任相續之旨領掌不可有相違候、恐々謹言、十二月廿一日 小野十郎殿 84頁
- 三一 大友義鑑感状 去(閏一月)十六於筑後國生葉郡合戦之刻、親父十郎(安幸)遂粉骨討死、高名之儀忠貞無比類候、必至其方一段可賀身候、恐々謹言、二月三日、小野宮菊(信幸)殿 86頁
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- 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書 解題 P.9、『福岡県史』 近世史料編 [7] (柳川藩初期 下)によれば、安幸は大友政親から豊後野津院の内に二〇貫文の地を下賜され、大友義長より大友の称号を許される。
- 「藤原姓小野氏系図」では、筑後国生葉郡の戦いで戦死し、享年29歳(1506年生-1534年没)と記されている。しかし、長幸の次男である弟・鑑幸は、1567年に69歳で戦死したとされており、これを逆算すると1499年頃の生まれとなる。また、「小野文書」には、1496年まで存命であった大友政親から十郎(安幸)に宛てた知行預ヶ状が残されている。このことから、安幸が1534年に筑後国生葉郡で戦死した時点で、少なくとも39歳(1496年頃生-1534年没)であった可能性がある。
- ↑ 小野長幸の次男、小野次郎三郎幸俊、弾正忠。
『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書
- 三四 大友義鑑安堵状 親父和泉守長幸一跡之事、任相續之旨領掌不可有相違候、恐々謹言、二月廿六日 義鑑 小野次郎三郎(鑑幸)殿 86頁
- 七二 山下長就書状 至御息次郎三郎(鑑幸)續目御判之儀、従清田鑑綱度々承候条、今明日之間申調、如小國陣可遣之候、定 而 其方 江 可有御屆候、其以後不遂面上候、不断御床敷存計候、何様重々可申承候、恐々謹言、二月廿五日 長就 小野和泉守(長幸)殿 97頁
- 七三 山下長就書状 就小野和泉守(長幸)次男次郎三郎(鑑幸)續目(平出)御判之儀、前日両度示給候条、遂披露申調令進覽候、将又其以後其表立柄如何御座候哉、蒙仰度候、親廉・長増近々可有御着陣候条、每事可被仰談条、尤珍重候、諸慶重疊可申承候間、令省略候、恐々謹言、 「天文四年(1535年)乙未」二月廿八日 長就 清田殿 97頁
- 七四 大友氏奉行人連署奉書 親父和泉守長幸一跡之内宇田枝名之内拾貫分并四ヶ村、下村領之内下地職、文手屋敷事、任相續之旨可有存知之由、依仰執達如件、 「天文五年(1536年)丙申」三月五日 和泉守 大和守 丹後守 小野次郎三郎(鑑幸)殿 97頁
- ↑ 「藤原姓小野氏系図」では鑑幸を第17代当主としているが、「小野文書」によれば、兄の安幸が戦死した際、その子・宮菊丸(信幸)はまだ元服前であった。そのため、翌年の天文4年(1535年)、鑑幸は長幸の次男として、兄・安幸の後を継いで小野家の家督を相続したものと考えられる。したがって、鑑幸は第16代とするのが妥当である。
- ↑ 「藤原姓小野氏系図」では信幸を第15代当主としているが、その父・安幸は14代長幸の後を継いだ第15代当主であったと考えられる。安幸が天文3年(1534年)筑後生葉郡で戦死した際、信幸はまだ幼少であったため、叔父の鑑幸が家督を継承して第16代当主となった。その後、信幸は鑑幸の嫡男である第18代鎮幸を養子に迎えている。したがって、信幸は第17代当主とするのが妥当である。
- ↑
- ↑ 『葉隠』聞書第六によると12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10,000余としている。
- ↑ 一説2,000、うち鎮幸の直卒する中軍は1,000余騎
- ↑ 安東五郎右衛門。安東家忠の三弟・安東家久の次男。
- ↑ 石松安兵衛。石松源五郎(高橋越前)の子。
- ↑ 三太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子
- ↑ 戸次右衛門大夫、但馬入道了均。藤北戸次氏の一族・戸次親繁の次男。戸次鑑貞の次兄。
- ↑ 戸次善次郎・17歳。
- ↑ 新田平右衛門、掃部助。
- ↑ 矢島勘兵衛、石見守、剛庵。宗茂の側室・八千子の弟。
- ↑ 千手六之允。筑紫広門の与力。
- ↑ 安東津之助。安東家忠の三弟・安東家久の四男。次兄・安東範久の養子。
- ↑ 十時新五郎・16歳。十時惟直の三男。
出典
- 1 2 『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.198。
- 1 2 『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.200。
- ↑ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.14
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・五四 戸次雪名字状 (小野文書中世54) P.93。
- ↑ 姓氏家系大辞典 第1巻p.1016
- ↑ 旧柳河藩主立花家文書-内実系譜〕00001625
- ↑
- 『大日本史料 第12編之37』P.61、
- 『立花遺香』P.169、
- 中野等、穴井綾香 著、柳川市史編集委員会 編『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.436、
- 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十九) 森下釣雲小傳 P.251
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 江上合戦之事 P.612
- ↑ 原 達郎『柳川藩 立花家中列伝』37頁
- ↑ 『柳川史話』第四卷 文献篇 二三二 維新前の菊桐の紋 P.466
- ↑ 『福岡県史』 近世史料編 [7] (柳川藩初期 下)、『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書 解題 P.9。
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(六)筑前古所山 弘治三年七月八日 P.3~4頁
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書
- 四〇 大友義鎮知行預ヶ状 去々年秋月退治之刻、養父大蔵丞(信幸)事、従最前鑑連(道雪)以同陣至(秋月)文種居屋敷諸勢取懸候之砌、戦死忠貞無比類候、為其賞、於筑前國拾五町分之事預置候、可有知行候、恐々謹言、卯月廿三日 義鎮 小野乙寿(鎮幸)殿 87頁
- 五〇 戸次鑑連知行預ヶ状 養父大蔵丞(信幸)於秋月宅所戦死、忠貞之次第無比類候、度々遂言上候条、定而被成御直恩可有御感候、取合之段弥緩有間敷候、先以新地野津手村之内三町分之事、預進之候、誠顕志計候、必闕所次第重疊可申談候、恐々謹言 三月十六日 小野乙寿丸(鎮幸)殿 鑑連 89-90頁
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(九)筑前休松 永祿十年九月三日 P.5頁
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 四五 大友宗麟安堵状 今度於休松父弾正忠(鑑幸)戦死、忠儀感悦候、仍彼跡目之事可為連續之由、領掌不可有相違候、恐々謹言、十二月十七日、小野弾介(鎮幸)殿 88頁
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書 解題 P.9。
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・五三 戸次鑑連(道雪)書状 (小野文書中世53) P.92。
- ↑ 『立花遺香』 P.122~123
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61立花文書『戸次道雪譲状』358頁
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.30~34
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(七)筑前寶滿山 永禄十年七月七日 P.4
- ↑ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.22~23
- 1 2 『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.198。
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 四五 大友宗麟安堵状 今度於休松父弾正忠(鑑幸)戦死、忠儀感悅候、仍被跡目之事可為連續之由、領掌不可有相違候、恐々謹言、十二月十七日、小野弾介殿 鎮幸 88頁
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.35~38
- ↑ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.23~24
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(九)筑前休松 永禄十年九月三日 P.5~7
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・四四 大友宗麟感状 今度立花鑑載退治之刻、別而被碎手、分捕高名之由候、忠貞之次第感悅無比類候、弥可勵軍忠事、可為喜悅候、必追而可賀之趣、猶戸次伯耆守可申候、恐々謹言、七月廿三日 小野弾介殿 (小野文書中世44) P.88。
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.42~44
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一〇)筑前立花山 永禄十一年七月四日 P.7
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.45~47
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一一)筑前生の松原 永禄十一年八月二日 P.7~8
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.94
- ↑ 紹運の智略「柴田川の戦い」
- ↑ 吉永正春『筑前戦国史』柴田川の戦い p.103~106
- ↑ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.45
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六九 御感状控 (12) 戸次道雪感状写 天正六年十二月十三日、宇美表打廻砌、被官新五郎頭一ツ討捕候、感悅候、必追而一稜可賀之候、恐々謹言、十二月十三日 小野和泉守殿 P.135。
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85~86
- 1 2 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.47
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.86~87
- ↑ 『小田部軍物語 関ヶ原への道』P.55-56
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六九 御感状控 (13) 戸次道雪感状写 前々十四日於生松原合戦之刻、別而被碎手、鑓疵・刀疵被数ヶ所候、高名無比類候、殊僕従帯刀・同六介分捕、同与四郎被鑓疵候、忠貞感悅無極候、必於配当砌者、最前顕其志可申候、仍可遂言上候条、御感文不可有余儀候、恐々謹言、八月廿六日 小野和泉守殿 P.135。
- ↑ 吉永正春『筑前戦国史』荒平城主小田部氏の最期 p.120~127
- ↑ 安楽平落城 筑前大友五城
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.103~104
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 大鶴小田部戦死之事 P.322
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.89~92
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(一八)筑前高祖 天正九年 九月十五日 P.11
- ↑ 大友興廃記、戸次軍談の伝える「生の松原合戦」
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324~325
- ↑ 『史料綜覧 巻11』 p.186
- ↑ 吉永正春『筑前戦国史』血風奈須美の陣 p.137~138
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324
- ↑ 「大友興廃記」巻第十七 宗像合戦之事
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.121
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・五九 戸次道雪・統虎連署感状 前之六日、穗波郡潤野原合戦之刻、最前依被碎手、郎従染甚五兵衛尉被疵之由候、感悅無極候、必以時分可賀之候、恐々謹言、十二月十一日 小野和泉守殿 (小野文書中世59) P.94。
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.104~105
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.126~128
- ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.88~89
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二〇)筑前潤野原 天正九年 十一月六日 P.12
- ↑ 吉永正春『筑前戦国史』潤野原・石坂・八木山(穂波合戦) p.138~139
- ↑ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.58~59
- ↑ 石坂の戦い 八木山峠(福岡県飯塚市)
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 穂波合戦之事 P.353~354
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六九 御感状控 (4) 戸次道雪・統虎連署感状写 前之十三、於清水原合戦之刻、別而被碎手、石松兵部(貞増)被討捕、高名感悅候、殊到官歴々、或分捕、或被疵、尽粉骨候条、是又銘々遣状候、為存知候、同僕従市丞・喜介・九郎兵衛・甚九郎、高名之段、令存知候、何樣配當砌最前賀之可申候、恐々謹言、十一月廿四日 小野和泉守殿 P.135。
- ↑ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.164~465
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 小金原合戦之事 P.351~353
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.117~122
- ↑ 『筑前國續風土記』 卷之第二十六 古城古戦場 三 鞍手郡 小金原 P.6~18
- ↑ 『立花遺香』 P.13~15
- ↑ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事 P.622~626
- ↑ 小金原の戦い「立花道雪激怒」「宗像氏貞苦悩」
- ↑ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.90~92
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二一)筑前清水原 天正九年 十一月十三日 P.12
- ↑ 吉永正春『筑前戦国史』小金原の戦い p.155~163
- ↑ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.59~60、P.63
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三四 大友義統軍忠一見状 天正九年十一月十三日、於山東宗像表合戦之砌、戸次伯耆入道道雪家中之衆、或分捕高名、或被疵戦死之着到、令披見訖、P.351~357。
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.122~123
- ↑ 吉永正春『筑前戦国史』吉原・八並の戦い p.163
- ↑ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事 P.628~629
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.124
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二二)筑前岩門庄久邊野 天正十年 四月十六日 P.12
- ↑ 吉永正春『筑前戦国史』岩戸合戦 p.165~167~
- ↑ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.64
- ↑ 『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.13-16
- ↑ 『旧柳河藩主立花家文書-(鑑連公系譜之事など合冊)』 00000831
- ↑ 『大日本史料 第11編之4』P.327~328、『大日本史料 第11編之4』天正11年4月P.327-328
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十五 道雪紹運筑後出張之事 P.398~403
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十五 黒木落城付所々軍之事P.404~412
- ↑ 『大日本史料 第11編之15』天正13年4月P.1-33
- ↑ 舊柳河藩主立花家-系譜附錄00001780
- 1 2 3 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳河偉人小伝(三)小野和泉 863・864頁
- 1 2 『柳川藩叢書』第一集 (九五)略伝小伝(六)小野鎮幸小伝 237・238頁
- 1 2 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』百八十 小野和泉の剛勇 P.322頁
- ↑ 『由布安芸家系図』由布惟信戦功註伝
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十六 立花高橋與波多筑紫挑戰之事 P.423~428
- ↑ 久留米高良山合戦
- ↑ 吉永正春『筑前戦国史』道雪、紹運、筑後出陣 p.198~200
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 統虎屠高鳥居城討取星野兄弟拔岩屋城事 P.478~483
- ↑ 『立花遺香』 P.103~106
- ↑ 『橘山遺事』 P.182
- ↑ 『立花遺香』 P.83~84
- ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十 統虎 有動氏を破る P.114~118
- ↑ 中野等 『立花宗茂』P.55~56
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 八二 軍勢注文写 天正十五年五月廿七日肥後國住人隈部筑後守親永、柳川黒御門前にて御成敗之節出合申候御人数之覚 P.99~100頁
御人数引廻 由布壱岐守惟次
十時摂津守連貞、十時勘解由惟元、十時傳右衛門惟道、池邊龍右衛門永晟、池邊彦左衛門貞政、安東五郎右衛門範久、安東善右衛門常久、石松安兵衛政之、原尻宮内鎮清、新田掃部助鎮実、内田忠右衛門統続、森下内匠規寬
十貳人外ニ掛通り 森又右衛門信清
跡押 小野和泉守鎮幸 - ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十四 黒門の戦い P.126~128頁
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(三四)筑後柳河黑門前 天正十六年五月廿七日 P.18頁
- ↑ 『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.102~105頁。
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一七〇 御感状写 (3) 立花宗茂感状写 正月二十六日大明日本決勝負一戦之刻、遂粉骨無比類働、分捕高名感悅申候、必逐而可申述候、重畳油断有間敷候、恐々謹言、正月廿九日 小野和泉守殿 P.140。
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一七〇 御感状写 (4) 立花宗茂感状写 今度牧司追討之砌、分捕高名無比類、令感悅候、可被勵忠貞事肝要候、必逐而一段可賀申候、恐々謹言、五月五日 小野和泉守殿 P.140。
- ↑ 『立花遺香』
- 一、立花丹波(米多比鎮久)のお話によれば、蔚山城の最初の後詰の際、諸家の軍勢は敵の先鋒に押し寄せた。殿様(宗茂)は敵の諸軍勢何万騎とも知れず、備えを固めていて槍を突き入れられました。
- 立花吉右衛門(成家)と由布五兵衛(壱岐のこと、惟次)という二組が先陣を務めた。敵の備えは堅固で、しかも敵は迎え撃つ構えで、丘の下に控えていましたが、(我々が)退くことなく攻めかかったため、先陣の二部隊はほとんどの敵を追い払いました。吉右衛門は半弓の矢を四本も射かけられたが、崩れかけた味方の勢いを持ち直し、采配を取り指揮を執った。
- 和泉(小野鎮幸)隊および我々の隊は備場の下手にいて、先陣の戦いの様子は詳細には見えなかったが、本陣は高地にあり、状況がよく見えたため、和泉も我々も兵を出して攻めかかると、先鋒はほぼ敵を追い払いました。吉右衛門は二、三十人の部下とともに反転攻勢を繰り返しながら戦いました。十時但馬守(惟種)は崩れた敵勢に押され、踏みとどまるのが困難になったため、槍の石突を地に突き立て、敵に背を向けず、槍の柄につかまって一人踏みとどまりました。
- 備えが乱れても攻めかかる敵兵に、和泉隊と我々の二手が槍を合わせて攻撃したため、抵抗もなく敵は総崩れとなりました。総じて朝鮮兵は一度崩れると、その後はほぼ全てが総崩れとなり、反撃に出ることは稀です。敵は無数の大軍でありましたが、殿様の一手によって敵を追い払う様子を見て、各方面の軍勢が一斉に敗走した。
- 和泉隊と我々の二隊が敵と交戦する前に、奮戦中の但馬を討ち取られてしまうのではないかと殿様が懸念され、「自ら馬で突入せねばならぬ」と仰せになった。殿は御馬を進めようとされましたが、御馬引きの者がよく馬を制止したため、殿はお怒りになり、その馬引き者の兜を打ち割られたという話である。
- ↑ 朝鮮役録P.20
- ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(二七)小野和泉守覚書 139~140頁
- ↑ 『立花遺香』 P.37
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.618、『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.282
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.618、『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.284
- ↑ 『国恩録』第七冊P.17-19
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・六八 立花尚政(宗茂)感状 今度江上表一戦之刻、依被励粉骨、二ヶ所被被疵候忠儀誠無比類候、殊其方与力・被官・中間数十人、或手負、或戦死之衆、着到銘々令披見、感入候、必取静至和泉守一稜可賀申候、恐々謹言、 十二月二日 小野和泉守殿 P.96。
- ↑ 『国恩録』第七冊P.7-11
- ↑ 『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第十七章 柳河)
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 江上合戦之事 P.595~614
- ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.615~620
- 1 2 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21「小野文書」・一六六 「小野和泉・立花吉左衛門・十時源兵衛申分覺」(小野文書312)P.132~133。
- ↑ 八院の戦い史跡
- ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(三七)筑後江上八院 慶長五年十月廿日 P.22~25
- ↑ 『立花遺香』 P.163~164
- ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳河偉人小伝(三)小野和泉 P.863・864頁
- ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳河偉人小伝(三)由布雪下 P.863頁
- ↑ 『由布安芸家系図』由布惟信戦功註伝
- ↑ 『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.199~200
- ↑ 『日本戦史・朝鮮役』第七章 明軍の赴援 其二 碧蹄館の戦闘 P.244
- ↑ 『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.200。
- ↑ 『長編歴史物語戦國武將シリーズ(1)立花宗茂』百八十 小野和泉の剛勇 P.322頁
- ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(二七)小野和泉守覚書 139~140頁
- ↑ 『立花遺香』 P.37
- ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書 五八 小野鎮幸起請文 P.101、『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.199
- 今度以益加衛殿於御同座左近(宗茂)被仰合是不可相違候。和泉事左近親と存候事申合候。さて酒過候間小さかつきの上無用候。其も難去外人難法の客人の時はいかやうにもくるしからず候。我等閑衆の前にては小さかつき申候外たべましき事、右之旨於相背者、(平出)樊天・大尺・四大天王・惣而日本國中六十餘州之大小神祇、殊氏神浅草八幡大菩薩・筑後鎮主高良大菩薩・天満大自在天神御罰可罷蒙候也、仍起請如件、文祿四年 六月三日 小野和泉守鎮幸 立花左近樣 進上
- ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳河偉人小伝(三)小野和泉 P.863・864頁
- ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』七十五 安東彥右衛門の廉直と小野和泉の遠謀 P.210~212頁
- ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』百八十 小野和泉の剛勇 P.322~323頁
- ↑ 『立花遺香』(小野和泉の献金)P.163-164
- ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳河偉人小伝(三)小野和泉 P.863・864頁
- ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』百八十 小野和泉の剛勇 P.323頁
- ↑ 『立花遺香』 P.8-9
- ↑ 『柳川史話』九八 小野和泉鎮幸 P.198。
- ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳河偉人小伝(三)小野和泉 P.863・864頁
- ↑ 『長編歴史物語戦國武將シリーズ(1)立花宗茂』百八十 小野和泉の剛勇 P.323頁
- ↑ 『立花遺香』 P.8-9
- ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』百八十 小野和泉の剛勇 P.324頁
- ↑ 『立花遺香』 P.9-10
- ↑ 『立花遺香』 P.10-11
- ↑ 『柳川藩叢書』第一集 (九五)略伝小伝(六)小野鎮幸小伝 237・238頁
- ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳河偉人小伝(三)小野和泉 P.863・864頁
- ↑ 『長編歴史物語戦國武將シリーズ(1)立花宗茂』百八十 小野和泉の剛勇 P.324~326頁
- ↑ 『立花遺香』 P.8-9
- ↑ 『立花遺香』 P.11
- ↑ 『立花遺香』 P.11-12