原夫次郎

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1929年(昭和4年)頃

原 夫次郎(はら ふじろう、明治8年(1875年)6月14日 - 昭和28年(1953年)11月26日)は、日本の政治家、弁護士。島根県知事(1期)、衆議院議員。位階は従四位。勲二等旭日重光章。

略歴

島根県楯縫郡、のちの簸川郡檜山村(平田町、平田市を経て現出雲市)出身[1]。和仏法律学校(現・法政大学)仏語法科卒。

1896年、文官高等試験司法科に合格し、以後、判事や検事などを歴任。1899年、弁護士試験に合格。

1907年、フランスへ留学(パリ大学、グルノーブル大学)。仏国法学博士を授与される。帰国後、法政大学講師や司法大臣秘書官を務める。

1912年、首相秘書官となり原敬や清浦奎吾らを支える。

1920年、第14回衆議院議員総選挙において立憲政友会から立候補して当選(以後第22回衆議院議員総選挙まで9期連続当選)。1942年、 第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)において非推薦で当選。

1946年4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙に島根県全県区から日本進歩党公認で立候補して当選。同年4月17日、日本政府は、口語体で条文化した「憲法改正草案」[2]を公表し、枢密院に諮詢した。7月23日、芦田均を委員長とする帝国憲法改正案委員会の小委員会の設置が決定された。同月25日、芦田は原ら4人を委員に追加指名した[3]。計14人で構成される小委員会は7月25日から8月20日にかけて13回にわたって開催され、各会派から提出された修正案の調整を行った[4]。小委員会が作成した共同修正案(日本国憲法案)は改正案委員会に報告され[5]、8月24日に衆議院本会議で修正可決された[6]。

1947年4月、 公選の初代島根県知事に就任同年、島根県で行われた昭和天皇の戦後巡幸では先導役を務めた[7]。

1951年、第2回島根県知事選挙に現職として立候補するが新人に敗れて落選し任期満了で島根県知事を退任。弁護士開業。

1953年11月26日、死去。78歳没。墓所は護国寺。死没日付をもって正五位から従四位に進階し、勲二等旭日重光章を追贈された[8]。

親族

脚注

  1. ↑ 『大日本人物史』は15-16頁。
  2. ↑ “日本国憲法の誕生 資料と解説 3-25 口語化憲法草案の発表”. 国立国会図書館 (2004年5月3日). 2026年9月29日閲覧。
  3. ↑ “第90回帝国議会 衆議院 帝国憲法改正案委員小委員会 第1号 昭和21年7月25日”. 帝国議会会議録検索システム. 2026年10月12日閲覧。
  4. ↑ “帝国憲法改正案審議 | 再建日本の出発-1947年5月 日本国憲法の施行-”. 国立公文書館. 2026年10月6日閲覧。
  5. ↑ “第90回帝国議会 衆議院 帝国憲法改正案委員会 第21号 昭和21年8月21日”. 帝国議会会議録検索システム. 2026年10月12日閲覧。
  6. ↑ “年表”. 誕生 日本国憲法. 国立公文書館. 2026年10月12日閲覧。
  7. ↑ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、554頁。ISBN 978-4-487-74410-7。
  8. ↑ 昭和28年 1953年12月9日付 官報 本紙 第8080号 152頁
  9. ↑ 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年、ハ105頁。

参考文献

  • 『大日本人物史 : 銀婚記念 1925年』大日本人物史編纂社、1925年。
  • 山陰新報社編『島根縣人名鑑』1953年、222頁。
  • 伊藤菊之輔『島根県人名事典』1970年、40頁。
  • 山陰中央新報社・島根県歴史人物事典刊行委員会編『島根県歴史人物事典』1997年、463-464頁(内藤正中)。
公職
先代
新設
島根県の旗 島根県知事
公選初代:1947年 - 1951年
次代
恒松安夫
公職
先代
紫安新九郎
日本の旗 衆議院全院委員長 次代
加藤知正