古城弥二郎
古城 弥二郎(こじょう やじろう、安政4年1月26日〈1857年〉 - 1912年〈明治45年〉1月22日)は、明治時代の日本の行政官。警察官を経て熊本県内の郡長を務め、八代郡長として郡営の八代海干拓事業を進めた[1]。また、干拓地に移り住んだ人々の子どもが学ぶ学校の設立に携わった。現在の八代市立郡築小学校は、1907年に古城を設立者として開校した私立尋常小学校に始まる[2]。
経歴
郡長就任まで
現在の熊本市の出身[3]。警察官として各県で勤務したのち、熊本県各地の郡長を務めた[1]。
玉名郡長時代の活動を示す資料として、1899年7月24日付の「南関素麺送付につき上申書」がある。熊本県立図書館の所蔵資料で、同館などの展示資料一覧には、玉名郡長の古城から熊本県知事官房に宛てた文書として掲載されている[4]。
郡築干拓事業
八代郡長となった古城は、1900年(明治33年)、郡が直接経営する八代海の干拓工事に着手した[1]。郡築小学校の沿革によると、事業は八代郡の財産を造成する目的で行われ、「郡築」という地名も郡によって築かれた土地であることに由来する。同年12月に工事が始まり、1904年(明治37年)2月9日に竣工したとされ、造成面積は1,063町歩と記されている。その後、近隣から移り住んだ人々による開拓が進んだ[2]。
干拓地の海側には潮の侵入を防ぐ堤防が築かれ、甲号・乙号・丙号の3基の樋門が設けられた。このうち現在も残る旧郡築新地甲号樋門は、熊本県技師の川口虎雄が設計した石造アーチ式の10連樋門である[5]。
学校の設立
1907年(明治40年)、古城は干拓地の児童の教育のため、自ら設立者として学校設立の認可を受けた。同年7月10日、瓢箪廻しにあった海面埋立事務所の旧建物を校舎として、私立尋常小学校が開校した。創立時の児童は101人で、教育費は住民の寄付によって賄われた。この学校が、のちの郡築小学校となった[2]。
1912年(明治45年)1月22日に56歳で死去した[1]。
顕彰と地域での継承
熊本県の「近代文化功労者一覧」には産業分野の顕彰者として掲載され、八代郡長として郡築干拓を成功に導いたことが功績に挙げられている[3]。
郡築地域では、干拓事業に尽くした古城をしのぶ墓前祭が行われている。2025年2月9日には八代市郡築六番町で開催され、住民や行政関係者ら約60人が参列した[6]。
道徳教材「さよならの写真」
古城の干拓事業への取り組みは、熊本県教育委員会の中学校向け郷土資料『熊本の心』に収められた「さよならの写真」で取り上げられている。熊本県が公開する学習構想案では、事業への反対、財政上の困難、台風による被害に直面しながら事業の実現を目指す古城の姿が教材の内容として紹介されている。また、古城が後ろ姿の写真を撮るよう求める場面を通して、困難を乗り越え目標に向かう意志を考える授業が例示されている[7]。
脚注
- 1 2 3 4 “古城弥二郎”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク). 講談社. 2026年10月1日閲覧。
- 1 2 3 “学校の概要”. 八代市立郡築小学校. 2026年10月1日閲覧。
- 1 2 “熊本県近代文化功労者一覧” (PDF). 熊本県. p. 1. 2026年10月1日閲覧。
- ↑ “「つるっと南関素麺と江戸時代の人びと/近代文学収蔵資料」展示資料一覧” (PDF). 熊本県立図書館・くまもと文学・歴史館. 2026年10月1日閲覧。
- ↑ “旧郡築新地甲号樋門 附・潮受堤防(国指定)”. 八代市 (2025年9月2日). 2026年10月1日閲覧。
- ↑ “〝郡築干拓の父〟に子孫と感謝 八代市で古城弥二郎墓前祭”. 熊本日日新聞. 2025年2月10日. 2026年10月1日閲覧.
- ↑ “中学校第2学年 道徳科 学習構想案(例) 主題名「強い意志」” (PDF). 熊本県. pp. 1–3. 2026年10月1日閲覧。