呉元扆
経歴
呉廷祚の子として生まれた[3]。太平興国8年(983年)、太宗の四女蔡国公主を妻に迎え、左衛将軍・駙馬都尉に任じられた。太平興国9年(984年)1月、愛州刺史を遥領した。冬、愛州団練使を遥領した[1]。
雍熙3年(986年)、北辺が騒がしくなっていたことから、元扆は上表して政務繁忙な州での試用を求め、知鄆州に転じた。雍熙4年(987年)、開封に召還され、ほどなく知河陽となった。開封に入朝し、鄯州観察使に任じられた。特別に朝会での序列は節度使に次ぐものとされ、俸禄を増やされた。元扆は再び知河陽となった[1]。
淳化元年(990年)、蔡国公主が病にかかり、元扆は開封に召還された。公主が死去すると、元扆は再び河陽に派遣された。淳化5年(994年)、秋の長雨で黄河が氾濫し、奔流が農地の溝に注ぎ、城塁が破壊されそうになったため、元扆は自ら泥あくたを浚い、人夫を監督して決壊箇所を塞いだ。民衆の多くが樹木をたよりに水から避難していたため、元扆は舟を渡して食糧を供給するよう命じた。ときに澶州と陝州が水害に遭ったが、元扆の領内は安全を確保した[1]。
至道3年(997年)、真宗が即位すると、元扆は安州観察使に任じられ、まもなく知澶州に転じた。咸平3年(1000年)、転運使の劉錫が元扆の統治の状態を上奏し、元扆は寧国軍留後・知定州となった。王超と王継忠が兵を率いて唐河を渡り、遼軍と戦った。元扆はその敗北を予見して、定州の兵を動員して河橋を守った。王超らがはたして敗北して退却すると、遼軍はこれに乗じて追撃し、河橋にいたったが、元扆の陣営が立派なのを見て、撤退した。元扆が任期を満了すると、定州の官吏や民衆は開封の宮殿を訪れて、元扆の善政十事を上疏し、元扆を留任させ、徳政碑を立てるように請願した[4]。
景徳3年(1006年)、元扆は開封に帰り、武勝軍節度使に任じられた。陵域から水が出たため、溝を掘って塞ぐことになり、元扆は修諸陵都部署をつとめた。知潞州として出向した。沢州・潞州・晋州・絳州・磁州・隰州・威勝州の軍事を総覧した。封禅への扈従を求め、青帝を祀るよう命じられた。儀礼が終わると、元扆は検校太傅・知徐州を加えられた。大中祥符4年(1011年)、山南東道節度使を遥領した。5月、病のため死去した。享年は50。中書令の位を追贈された。諡は忠恵といった[4]。
子女
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻257 列伝第16
参考文献
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。