四万十川の戦い
| 四万十川の戦い | |
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四万十川古戦場碑 (四万十市渡川の具同公園) | |
| 戦争:戦国時代 | |
| 年月日:天正3年(1575年)9月中旬[1] | |
| 場所:土佐国幡多郡(高知県四万十市) | |
| 結果:長宗我部軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 長宗我部元親 | 一条兼定 |
| 戦力 | |
| 7,300 | 3,500 |
| 損害 | |
| ほぼ無し | 200余 |
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四万十川の戦い(しまんとがわのたたかい)は、天正3年(1575年)9月中旬に土佐国(高知県)行われた長宗我部氏と土佐一条氏の戦い。渡川の戦いとも呼ばれる[1][2]。
この合戦によって、長宗我部元親の土佐統一が決定的となった。
背景
戦国時代、土佐西部の幡多地方(現四万十市一帯)には藤原北家五摂家の流れを汲む名門・土佐一条氏が下向し、その高貴な家筋によって周囲の豪族を従え、和をもって勢力を誇っていた。
しかし、天文・永禄年間に入り、一条兼定の代になる頃には、毛利氏の干渉による河野通直との戦いや長宗我部氏の台頭によって、その領域を脅かされるようになり、国内における一条氏の影響力は失われつつあった。
兼定は土佐東部の安芸国虎と結んで、台頭する長宗我部元親に対抗したが、逆に国虎が八流の戦いで元親に滅ぼされた。そのため、四万十川以東の豪族は次々と長宗我部に降り、一条氏の影響地域は四万十川下流域以西に押し込められた。
やがて、兼定は遊興に耽って国政を省みなくなり、主君を諌めようとした重臣の土居宗珊を無実の罪で手討ちにするなどして、家臣らの信望も失った。その結果、天正2年(1574年)2月に兼定は家臣団によって土佐を追放され、妻の実家である大友氏を頼り、豊後へと逃れた[3][4]。
これら一連の経過には、元親による土佐一条氏への流言、調略も成果を挙げている。結果として、幡多地方はほとんど戦闘によらず長宗我部氏の統治するところとなった。
天正3年(1575年)7月下旬、復権を目指す兼定は豊後から伊予に入ると、法華津前延や御荘越前守ら伊予南部の諸将の支援を得て、本拠地の土佐中村に向けて進軍した[5][6]。兼定の軍勢には、大友氏や南予諸将の援軍が加わっていた[5]。
すると、一条氏への義を感じる土豪らが兼定に帰参し、その兵力は3500に達した。これによって、一条氏と長宗我部氏との軍事的衝突は避けられぬ情勢となった。
8月29日、一条勢と吉良親貞(元親の弟)が中村城下で小競り合いをしていることから、兼定が幡多郡の大部分を回復していることがうかがえる[5]。
合戦の経過

9月中旬、一条兼定は四万十川河口部の西岸、具同村の栗本城に入った[1]。そして、四万十川に杭を打ち込ませ、地形を利用した迎撃の構えを取った[1]。
だが、長宗我部元親はすぐさま7300の軍勢を率いて、四万十川東岸に現れた。当時は常備軍の制度が一般化していなかったため、短期間で多勢を揃えて進軍してきた様子を見た一条方は驚いたとされる。半農半兵から一歩進んだ一領具足制度の有効性を物語る一幕である。
両軍は四万十川を挟んで東西に対陣する。まず長宗我部方の第一陣が正面から渡河を試み、数に劣る一条方は後退しつつ弓矢や鉄砲を浴びせて応戦した。ここですかさず、長宗我部方の第二陣に控えていた吉良親貞率いる手勢が北へ向かい、障壁となる杭がない上流から迂回する動きを見せる[1]。二方面からの挟撃を恐れた一条方は隊を分け、上流に向かった親貞らの別動隊を追った。だが、元親はこの隙を逃さず、残った全軍に一斉渡河を命じた。
少ない兵力をさらに分散させ、寄せ集めで指揮系統も乱れていた一条方に、正面から倍以上の兵力で迫る長宗我部軍を迎え撃つだけの力はなく、たちまち総崩れとなった。なおも追撃を受けた一条方は200余名の死者を出して敗走したのに対し、長宗我部方に被害は少なく、土佐の覇権がかかった四万十川の戦いは、数刻で決着した。夕方になる前には首実検を終えることができたといわれる。
兼定ら敗走した一条勢は栗本城に籠城した[1]。だが、元親は城を攻撃し、3日後に落城させた[1][2]。兼定は土佐を出て、伊予に逃げ延びた[1]。
戦後の経過
この戦いで敗れた一条兼定は南予の法華津前延を頼り、宇和海の戸島に落ち着いた[1]。そして、瀬戸内での10年後におよぶ隠遁生活の末、43歳で死去した。
一方、土佐を完全に掌握した長宗我部元親は各地を転戦して四国に覇を唱え、天正13年(1585年)頃には四国のほぼ全域に勢力を拡大する。しかし、直後の豊臣秀吉の侵攻を受け、土佐一国の大名として豊臣家に降った。