詹事

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詹事(せんじ)は、中国で秦から清の時代にあった官職である。前漢では皇后・皇太后・皇太子の家政をつかさどる仕事で、それぞれ別の詹事が任命され、宮殿の名を冠して呼び分けた。西晋で皇太子の家政をつかさどる官になり、官名はそれから南宋まで太子詹事(たいしせんじ)であったが、後にはただ詹事と称した。二人任じて右詹事、左詹事とした時もある。役所の名を官職の名と別に定めるようになった南北朝時代以降、詹事府または詹事院の長官である。皇太子がいないときには任命されないことが多いので、常設の官ではない。

似た官職に、太子太傅、太子少傅があり、皇太子の教育係である。このうち特に太子太傅は皇太子が師として敬うべき人物で、それに比べれば詹事は臣下にすぎなかった。

秦

『漢書』「百官公卿表」によれば秦官、つまり秦の時代からあった官である[1]。

前漢

前漢では太子、皇后、皇太后の家に置かれた[1]。顔師古によれば、置かれた場所を詹事に付けて呼んだ。長信詹事は皇太后が長信宮にいたためであろうし、漢のはじめ頃の制度を記した『二年律令』には永巷詹事丞が見える[2]。前漢のはじめには宦官でない者が任じられ、宦官は詹事に属した。

太子の詹事には、次官である丞がついた[1]。属官として太子率更令と家令(太子家令)があり、それぞれに太子率更丞と家丞(太子家丞)がついた[1]。令より格下の長には、僕(太子僕)、中盾(中盾)、衛率(太子衛率)、廚厩長があり、これらにもそれぞれ丞がついた[1]。かっこの名称は、『漢旧儀』逸文にある名である[3]。かっこを付けないのは『漢書』「百官公卿表」による。

皇后の詹事には宦官を任命した[4]。丞がついた[1]。中長秋令、私府令、永巷令、倉令、蔵令、厩令、祠祀令、食官令があり、それぞれ丞がついた[1]。

皇后のためには詹事と別に将行という官があり、景帝中6年(紀元前144年)に大長秋と改称した[5]。成帝の鴻嘉3年(紀元前18年)に、皇后の詹事は廃止され、職務と属官は大長秋に併合された[1]。その後、皇后が外出する際に、宮中の宦官である中宮謁者と中宦者の中から一人を臨時に詹事に任命し、帰還とともに職を解いた[4]。

皇太后の家を掌る長信詹事は、『二年律令』で官秩二千石と規定された[2]。身分の上下では、皇后・皇太子は皇太后と同じかやや下とみなされるので、皇后・太子の詹事の官秩もおよそ想像できる。長信詹事は景帝中6年(紀元前144年)に長信少府と改称し、元始4年(4年)に長楽少府とまた改称した[1]。

後漢

後漢では、皇后の家政は大長秋、皇太后は長楽少府と前漢を引き継いだ[6]。皇太子の詹事はなく、代わって太子少傅が皇太子の家政に関わる官を統率した[7]。

西晋・東晋

西晋でもはじめは太子少傅が皇太子の家政機関を掌握し、詹事はなかった[8]。咸寧元年(275年)に楊珧が太子詹事になると、詹事が家政機関をつかさどったが、彼が少傅になることで廃止になった[8]。その後も置いたり置かなかったりした。

属する官は以下の通り[8]。中庶子、中舎人、庶子、洗馬、舎人は、そばに仕える文官で、中庶子が上、洗馬が下[8]。 『晋書』百官志では中庶子、中舎人などと列挙するが、他の個所では太子中庶子など「太子」を冠する。ここでは「太子」を付けた形で並べた。食官令は料理長。太子率更令は門衛と賞罰をつかさどる[8]。太子家令は太子の家の会計と刑罰を行う[8]。太子僕は車馬と親族関係[8]。衛率はそれぞれ一軍を率いて太子に従う[8]。衛率の数は時代により1から5の違いがあり、兵力はあわせて数千から1万くらいであった[9]。

南北朝時代

宋

南朝の宋は、太子太傅、太子少傅と別に太子詹事を置いた[10]。官品は第三品で、太子太傅、太子少傅と同じ[11]。秩石は二千石で、太子少傅と同じである[12]。丞が一人ついた[12]。太子詹事丞より他の属官は以下の通り[13]。宋書百官志では、単に「家令」「率更令」などと書くところが多いが、宋書でも他の個所では「太子家令」「太子率更令」と「太子」が冠されている。ここでは適当に補った。太子家令、太子率更令、太子僕の三つは、あわせて太子三卿といった[12]。将軍、校尉が多いが、南北朝時代には武官の官職インフレが著しく、指揮官としての実態を伴わない将、将軍が多い。たとえば殿中将軍は、朝会宴会のとき皇帝のそばに立つ衛兵で、東晋で作られた[14]。宋はその皇太子版も用意したのである。

斉

続く南朝の斉も、宋とほぼ同じ制度をとった。太子太傅・太子少傅があり、別組織で太子詹事以下があって、次官に丞が1人ついた[15]。後に斉の第3代皇帝になる蕭昭業は、祖父の跡継ぎに立てられたとき、太子ではなく太孫といい、その詹事は太孫詹事と称した[16]。

梁

南朝の梁にも太子詹事があった[17]。以下、『隋書の百官志による官制である[18]。「の位と視る」は他の官の上下の基準となった官の名である。

陳

陳にも太子詹事があった[19]。第三品で、太子少傅より一階低い[20]。以下、『隋書』百官志から、太子詹事の下にあるとおぼしき官を抜き書きする[20]。

北魏

北朝の北魏の初期の制度は伝わらない。孝文帝のとき、太和23年(499年)以前には、太子左詹事、太子右詹事の二人がいて、官品は第二品下であった。第二品上の太子少傅より二階下である[21]。太和23年(499年)以後は、左右がなく、第三品の太子詹事があった[21]。この官品は太子少傅と同じである。『魏書』官氏志ではどの官が詹事の下にあったかわからないが、前代の制度を参考にして、詹事の配下にあったとおぼしき官職を抜き出したのが以下である[21]。

太和23年(499年)以前

太和23年(499年)以後

北斉

北朝の斉(北斉)では、太子太師、太子太傅、太子太保と太子少師、太子少傅、太子少保を皇太子の輔佐とし、それと別組織として、詹事府という役所に詹事以下の官を設けた。詹事は東宮の内外の事務をすべて統べた。以下は『隋書』が掲げる詹事配下の官である[22]。「太子」「詹事」が省略されているとおぼしき箇所を史書の他の箇所、前後の時代により適当に補ったのは、他の時代と同じである。かっこで示したのはそれが確実でないところである。

  • 詹事府 - 長官が詹事
    • 詹事丞、詹事功曹、詹事五官、詹事主簿、詹事錄事 - いずれも詹事府の職員
  • 太子家寺 - 太子家令を長とする。次官は太子家丞
    • 太子内坊 - 太子内坊令を長とする。次官は太子内坊丞
    • 食官署 -食官令(太子食官令?)を長とする。次官は食官丞
      • 器局(太子器局?) - 器丞を長とする
      • 酒局(太子酒局?) - 酒丞を長とする
    • 典倉署 - 典倉令を長とする。次官は典倉丞。
      • 園(園局?) - 園丞を長とする
    • 司蔵署 - 司蔵令を長とする。次官は司蔵丞
      • 仗庫局 - 仗庫丞を長とする
      • 典作局 - 典作丞を長とする
  • 太子率更寺 - 太子率更令を長とする。次官は太子率更丞
    • 中盾署 - 中盾令を長とする。次官は中盾丞
  • 太子僕寺 - 太子僕を長とする。次官は太子僕丞
    • 太子廐牧署 - 太子廐牧令を長とする。次官は太子廐牧丞
      • 太子車輿局 - 太子車輿丞を長とする
  • 左衛坊 - 左衛率を長とする
    • 太子騎官備身正都督、太子騎官備身副都督、太子騎官備身五職、太子騎官備身
    • 太子内直備身正都督、太子内直備身副都督、太子内直備身五職、太子内直備身
    • 太子備身正都督、太子備身副都督、太子備身五職
  • 右衛坊 - 右衛率を長とする
    • 属官は左衛坊と同じ
  • 太子旅騎校尉 - 2人
  • 太子屯衛校尉 - 2人
    • 太子騎尉 - 30人
  • 太子典軍校尉 - 2人
    • 太子騎尉 - 30人
  • 門下坊 - 4人の太子中庶子、4人の太子中舎人、4人の太子通事守舎人、4人の太子主事守舎人
    • 殿内局 - 2人の内直監を長とし、次官は内直副監
    • 典膳局 - 2人の典膳監を長とし、次官は2人の典膳丞
    • 薬蔵局 - 2人の薬蔵監を長とし、次官は2人の薬蔵丞。ほかに侍医4人
    • 斎帥局 - 2人の斎帥、2人の内閣帥
  • 典書坊 - 4人の太子庶子、28人の太子舎人
  • 典経坊 - 8人の太子洗馬、2人の太子守舎人、1人の太子門大夫、1人の坊門大夫(太子坊門大夫?)、1人の主簿(典経主簿?)
  • 伶官西涼二部、伶官清商二部 - 音楽の楽団

隋

隋(581年 - 618年)では初め詹事があったが、開皇2年(582年)に廃止した。皇太子に仕える官を以下に示す。煬帝の即位後、多くの官名を改めたとき、武官の名称が変わった。

唐

唐には詹事府の長官として太子詹事があった。官品は正三品で、正二品の太子少傅より下である[23]。

太子詹事は、龍朔2年(662年)に端尹と改称し、武則天の周(武周)で宮尹となり、唐にもどった神龍年間(705年 - 710年)にてまた詹事となった[23]。属する官署は以下の通り。

  • 詹事 - 正三品
  • 少詹事 - 1人、正四品上
  • 太子左春坊 - 2人の左庶子を長とし、太子を補佐し、瑞祥・人事を記録しし、皇帝への上奏を掌る役所
    • 崇文館 - 学士などが勤務する太子の学校。
    • 司経局 - 2人の洗馬、3人の太子文学などがいて、書籍を管理する
    • 典膳局 - 2人の典膳郎を長とし、太子に食事を進める
    • 薬蔵局 - 2人の薬蔵郎を長とし、医薬を掌る
    • 内直局 - 2人の内直郎を長とし、符・璽、繖(きぬがさ)、扇、机のような調度品、衣服を管理する
    • 典設局 - 2人の典設郎を長とし、入浴、掃除、寝具などを管理する
    • 宮門局 - 2人の宮門郎を長とし、東宮の門の鍵を管理する
  • 太子右春坊 - 2人の右庶子を長とし、太子あての文書を受け取り、処理する
  • 太子内坊 - 2人の典内を長とした宦官の役所
  • 太子内官 - 2人の司閨を長とし、太子の妃と宮人の名簿を管理する
  • 太子家令寺 - 太子家令を長とし、太子の食事と倉庫管理を掌る
  • 太子率更寺 - 太子率更令を長とし、太子の宗族、礼楽、刑罰、漏刻を管理する
  • 太子僕寺 - 太子僕を長とし、車輿、乗騎、儀仗の政令、喪葬の礼物を掌る
  • 太子左衛率府 - 太子左衛率を長とし、東宮の衛兵を統率する
  • 太子右衛率府 - 太子右衛率を長とし、東宮の衛兵を統率する
  • 太子左司御率府 - 太子左司御率を長とし、東宮の衛兵を率いる
  • 太子右司御率府 - 太子司御率を長とし、東宮の衛兵を率いる
  • 太子左清道率府 - 太子左清道率を長とし、東宮内外の巡回警備にあたる
  • 太子右清道率府 - 太子右清道率を長とし、東宮内外の巡回警備にあたる
  • 太子左監門率府 - 太子左監門率を長とし、東宮の門を警備する
  • 太子右監門率府 - 太子右監門率を長とし、東宮の門を警備する
  • 太子左内率府 - 太子左内率を長とし、太子のそばで護衛につく兵士を率いる
  • 太子右内率府 - 太子右内率を長とし、太子のそばで護衛につく兵士を率いる

五代十国時代

五代十国時代に中国北部を支配した五代の王朝にも、それぞれ太子詹事があった。後唐では太子詹事が詹事府の長で[24]、他の王朝も同様であろう。属する官署、官職については、断片しかわからない。

北宋・南宋

宋(北宋・南宋)では太子詹事を2人置いた[25]。他の官を持つ者が兼ねることを常とし、太子が後を継いで皇帝になると省いた[25]。孝宗のとき、乾道7年(1171年)に趙惇(後の光宗)の太子詹事になった王十朋と陳良翰は、例外的に兼官ではなかった[25]。

南宋になって縮小した。淳熙15年(1188年)の朱熹によれば、当時、詹事と庶子が有名無実化し、(地位が低い)左右春坊の役人が外部との応接にあたっていた[26]。以下は『宋史』職官志の本文と合班之制、官品をまとめたものである[27]。

  • 詹事 - 従三品
  • 太子庶子が1人。または太子左庶子と太子右庶子が1人ずつ。従五品
  • 太子諭徳が1人。または太子左諭徳と太子右諭徳が1人ずつ。従五品
  • 太子侍読 - 正七品
  • 太子侍講 - 正七品
  • 太子中舎(北宋)、太子中舎人(南宋)[28]。従七品
  • 太子舎人 - 従七品
  • 太子率更令(北宋)、南宋で廃止[29]
  • 太子家令(北宋)、南宋で廃止[29]
  • 太子僕(北宋)、南宋で廃止[29]
  • 太子中允(北宋)、南宋で廃止[29]
  • 太子洗馬(北宋)、南宋で廃止[29]
  • 資善堂 - 皇太子の学校。翊善、賛読、直講、説書、皇太子宮小学教授、資善堂小学教授は教員。
  • 左春坊・右春坊 - 他の官職を持つ宦官と武官が兼任し、左右の坊を一体として共同管理した
    • 左春坊録事、左春坊主事、右春坊通事舍人などの官があった
  • 太子左衛 - 太子左衛率府率(従七品)を長とし、次官が太子左衛率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。
  • 太子右衛 - 太子右衛率府率(従七品)を長とし、次官が太子右衛率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。
  • 太子左司禦 - 太子左司禦率府率(従七品)を長とし、次官が太子左司禦率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。
  • 太子右司禦 - 太子右司禦率府率(従七品)を長とし、次官が太子右司禦率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。
  • 太子左司禦 - 太子左清道率府率(従七品)を長とし、次官が太子清道率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。
  • 太子右司禦 - 太子右清道率府率(従七品)を長とし、次官が太子右清道率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。
  • 太子左監門 - 太子左監門率府率(従七品)を長とし、次官が太子監門率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。
  • 太子右監門 - 太子右監門府率(従七品)を長とし、次官が太子右監門率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。
  • 太子左内 - 太子左内率府率(従七品)を長とし、次官が太子左内率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。
  • 太子右内 - 太子右内率府率(従七品)を長とし、次官が太子右内率府副率(従八品)。職務なし。南宋で廃止。

明

明にははじめ左詹事と右詹事の2人がいて、詹事丞などが属していた[30]。洪武15年(1382年)に左春坊と右春坊、司経局とその官員が設けられた[30]。洪武22年(1389年)にこの官庁が詹事院の名を与えられ、25年(1392年)に詹事府と改称した[30]。29年(1396年)に清紀郎、司諫、通事舍人を追加した[30]。詹事府には兼任者が多かったという[30]。

  • 詹事府 - 詹事(正三品)1人を長とする
    • 少詹事 - 2人。正四品
    • 詹事丞または詹事府丞 - 2人。正六品
  • 主簿庁 - 主簿1人(従七品)を長とする
    • 録事2人(正九品)、通事舍人2人。
  • 左春坊
    • 大学士 - 1人、正五品。太子の上奏その他文書、講読を掌る
    • 左庶子 - 1人、正五品
    • 左諭徳 - 1人、従五品
    • 左中允 - 2人、正六品
    • 左賛善 - 2人、従六品
    • 左司直郎 - 2人、従六品。監察、弾劾。後に常設でなくなる
    • 左清紀郎 - 1人、従八品。監察、弾劾。常設せず
    • 左司諫 - 2人、従九品。諫言、訂正。常設せず
  • 右春坊
    • 左春坊と同じ
  • 司経局
    • 洗馬 - 1人、従五品。蔵書管理
    • 校書 - 2人、正九品。蔵書の製本と修繕
    • 正字 - 2人、従九品。蔵書の製本と修繕

清

清では、詹事府の長官が詹事で、満州人の詹事と漢人の詹事がいた[31]。清では多くの官職に満州人と漢人を並べて任命することを原則としていたが、時代が下るにつれ漢人が多くなった。

皇太子制が根付かなかった清では、詹事が任命されても皇太子がいないので仕事がなく、2度作られ2度廃止された。康熙帝が幼い胤礽を皇太子にした康熙14年(1675年)に、職務がある詹事が任命された。胤礽が廃位された康熙51年(1712年)にまた職務がなくなった。康熙帝の後を継いだ雍正帝は、太子密建の制度を編み出し、皇太子制を事実上廃止したため、詹事は名目のみの官職になり、他の官との兼職が一般化した。その後も設置と廃止が繰り返され、最後の廃止は光緒28年(1902年)1月[32]である。1911年の辛亥革命で中華民国が建てられたため、1902年が詹事のおわりの年となった。

1644年まで

清初の制度を下に示す[31]。

  • 詹事 - 正三品。満、漢各1人。
  • 少詹事 - 正四品。満、漢各1人。
  • 左春坊
    • 左庶子 - 正五品。満、漢各1人。
    • 左中允 - 正六品。満、漢各1人。
    • 左賛善 - 従六品。満、漢各1人。
  • 右春坊
    • 右庶子 - 正五品。満、漢各1人。
    • 右中允 - 正六品。満、漢各1人。
    • 右賛善 - 従六品。満、漢各1人。
  • 司経局
    • 洗馬 - 従五品。満、漢各1人。
  • 主簿庁
    • 主簿 - 従七品。満、漢各1人。。
    • 筆帖式 - 満6人。

順治元年(1644年)に詹事をなくし、少詹事が詹事府のことを掌るようにした[31]。その年の冬には詹事府をなくして内三院(清の内閣の前身)に職務を吸収した[31]。

1652年から1658年

順治9年(1652年)にまた詹事府を置いたときの制度は以下の通り[31]。府印を持つ詹事1人が満州人で、あとは漢人である[31]。この詹事府は順治15年(1658年)に廃止された[31]。

1675年から 1718年

康熙14年(1675年)にまた詹事府を置き、満州人1人と漢人1人を詹事にした[31]。漢人の詹事は翰林院侍読学士を兼務した[31]。上で述べたように、清の詹事に仕事があったのはこの時期だけである。少詹事の漢人は翰林院侍講学士を兼務した[31]。侍読学士、侍講学士はいずれも皇帝に講義する資格を持つ学者である。以下に示すように、官職名は前とほぼ同じだが、定員が異なり、かつ、変更が多い[31]。左右ある官職では、右と左が同数でない時期がある。

  • 詹事 - 満、漢各1人
  • 少詹事 - 満、漢各2人。康熙37年(1698年)に満州人を1人減らし、満1人、漢2人。
  • 主簿 - 満、漢各1人
  • 録事 - 満、漢各2人。康熙37年(1698年)に満人をなくし、漢人も1人に減らした。康熙52年(1713年)になくした
  • 左春坊
    • 左庶子 - 満、漢各1人
    • 左諭徳 - 満、漢各1人
    • 左中允 - 満、漢各2人。康熙37年(1698年)に満人を1人減らし、満1人、漢2人に。康熙52年(1713年)に漢人も減らし、満1人、漢1人。
    • 左賛善 - 満、漢各2人。康熙37年(1698年)に満人を1人減らし、満1人、漢2人に。康熙52年(1713年)に漢人も減らし、満1人、漢1人。
  • 右春坊
    • 右庶子 - 満、漢各1人
    • 右諭徳 - 満、漢各1人。康熙37年(1698年)に満人をなくして漢人1人。康熙57年(1718年)に漢人もなくした。左諭徳は残した。
    • 右中允 - 満、漢各2人。康熙37年(1698年)に満人を1人減らし、満1人、漢2人に。康熙38年(1699年)に漢人も減らし、満1人、漢1人。
    • 右賛善 - 満、漢各2人。康熙37年(1698年)に満人を1人減らし、満1人、漢2人に。康熙38年(1699年)に漢人も減らし、満1人、漢1人。
  • 司経局
    • 洗馬 - 満、漢各1人
    • 正字 - 満、漢各2人。康熙37年(1698年)に満人をやめ、漢2人。康熙38年(1699年)に漢人も減らし、漢1人。

1718年から1902年

以下は、上記の康熙57年(1718年)改正による定員をもとに、雍正を経て乾隆代の改正を付記したものである[31]。

  • 詹事 - 満、漢各1人
  • 少詹事 - 満1人、漢2人。乾隆13年(1748年)に漢人を減らし、満1人、漢1人。
  • 主簿 - 満、漢各1人
  • 左春坊
    • 左庶子 - 満、漢各1人
    • 左諭徳 - 満、漢各1人。乾隆13年(1748年)に廃止
    • 左中允 - 満、漢各1人
    • 左賛善 - 満、漢各1人
  • 右春坊
    • 右庶子 - 満、漢各1人
    • 右中允 - 満、漢各1人
    • 右賛善 - 満、漢各1人
  • 司経局
    • 洗馬 - 満、漢各1人
    • 正字 - 漢1人。乾隆36年(1771年)に廃止

太子詹事の人物

晋

宋(南朝)

北宋・南宋

明

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上、詹事。『『漢書』百官公卿表訳注』114頁。
  2. 1 2 『二年律令』秩律。『『漢書』百官公卿表訳注』114頁。
  3. ↑ 『『漢書』百官公卿表訳注』115頁。
  4. 1 2 『後漢書』百官志巻27、大長秋の本注。早稲田文庫『後漢書』志2の516頁。
  5. ↑ 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上、将行。『『漢書』百官公卿表訳注』117頁。
  6. ↑ 『後漢書』百官志巻27、大長秋の本注。早稲田文庫『後漢書』志2の515 - 516頁。
  7. ↑ 『後漢書』百官志巻27、太子少傅。早稲田文庫『後漢書』志2の518頁。
  8. 1 2 3 4 5 6 7 8 『晋書』巻24、志第14、職官。太子太傅・少傅の説明にある。
  9. ↑ 『晋書』巻35、列伝第5、 裴秀、頠。年は不明だが、4衛率時代に1万人に増強されたことがあった。兵力について書かれたのはここだけだが、もっと多い時期があった可能性も否定できない。
  10. ↑ 『宋書』巻40、志第30、百官下、太子太傅以下。
  11. ↑ 『宋書』巻40、志第30、百官下、末尾の官品一覧。
  12. 1 2 3 『宋書』巻40、志第30、百官下、太子詹事以下。
  13. ↑ 『宋書』巻40、志第30、百官下、太子詹事以下。
  14. ↑ 『宋書』巻40、志第30、百官下、殿中将軍。織田めぐみ「東晋末期の権力構造」、61頁。
  15. ↑ 『南斉書』巻16、志第8、百官。
  16. ↑ 『南斉書』巻4、本紀第4、鬱林王。
  17. ↑ 『梁書』巻2(武帝蕭衍、中、紀第2)天監7年など
  18. ↑ 『隋書』巻26、志第21、百官上、梁
  19. ↑ 『陳書』巻5、宣帝陳頊、紀第5、太建元年など。
  20. 1 2 『隋書』巻26、志第21、百官上、陳。
  21. 1 2 3 『魏書』巻113、官氏志9第19、職官。
  22. ↑ 『隋書』巻27、志第22、百官中、後斉。
  23. 1 2 『旧唐書』巻44、志第24、職官3、東宮官属。
  24. ↑ 『旧五代史』巻47、唐書19、明宗李嗣源、紀第9、長興3年5月に、詹事府が見える。詹事の任免にかかわる人事はほか多数。
  25. 1 2 3 4 『宋史』巻162、志第115、職官2、東宮官、太子詹事。
  26. ↑ 『宋史』巻429、列伝第188、道学3、朱熹。
  27. ↑ 『宋史』巻162、志第115、職官2、東宮官。巻168、志第121、職官8、合班之制、官品。
  28. ↑ 『宋史』職官志の「建隆以後合班之制」と「元豊以後合班之制」で「中舎」。職官志の本文と「紹興以後合班之制」で「中舎人」。
  29. 1 2 3 4 5 『宋史』輿服志と、職官志の「建隆以後合班之制」にあるが、「元豊以後合班之制」以降と『宋史』職官志の本文にない。『宋史』巻168、志第121、職官8、建隆以後合班之制。『宋史』巻152、志第105、輿服4、朝服。
  30. 1 2 3 4 5 『明史』巻73、志第49、職官2、詹事府。
  31. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 『清史稿』巻115、志90、職官2、詹事府。
  32. ↑ 『清史稿』巻24、本紀24、徳宗2、光緒28年正月。
  33. ↑ 『晋書』巻24、志第14、職官。泰始年中は光禄大夫、咸寧元年は太子太傅の説明にある。
  34. ↑ 『宋史』巻387、列伝第146、王十朋。「東宮が建ち、太子詹事を除いた」とあるので、光宗が即位した年に免。
  35. ↑ 『宋史』巻387、列伝第146、陳良翰。病気と老齢で辞し、光宗の即位より前に卒した。
  36. ↑ 『明史』巻149、列伝第37、蹇義。

参考文献

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