太子冗従僕射
太子冗従僕射 (たいしじょうじゅうぼくや)は、中国の南北朝時代の南朝の宋・梁・陳に、420年から453年までと、502年頃から589年まであった官職である。旧字で太子宂從僕射。東宮冗従僕射とも書く[1]。皇太子に仕える武官であった。
前史
後漢にあった宦官の中宮黄門冗従僕射が前身で、後宮で皇帝の警護にあたり、外出時にも従った[2]。魏はその名にちなんで冗従僕射を置き[3]、晋でも続いた。魏・晋では宦官ではなかったようである。
制度の変遷
宋
太子冗従僕射は、永初元年(420年)7月、太子旅賁中郎将とともに南朝の宋で初めて置かれた[4]。宋での定員は7人[3]。宋には皇帝付きの冗従僕射もあったが、その定員は明記されない[3]。元嘉30年(453年)に廃止された[5]。その後、太子常従虎賁督が設けられた[6]
斉
梁・陳
梁(502年 - 557年)にもあり、定員1人[8]。左衛率・右衛率に属し、太子旅賁中郎将とあわせて東宮二将といって[8]。梁の皇帝に冗従僕射はなく、太子のほうを単に冗従僕射と呼んでいた[8]。
北朝
北魏(386年 - 535年)には冗從僕射と中黄門冗従僕射があり、皇太子の太子冗従僕射はなかった[10]。北斉(550年 - 577年)も同じである[11]。制度を大きく変えた北周(556年 - 581年)にも、北周を継いだ隋(581年 - 618年)にもない。隋が南朝を滅ぼした589年(隋の開皇9年、陳の禎明3年)に、太子冗従僕射はなくなった。
脚注
- ↑ 『宋書』巻4、武帝紀第3、永初元年7月。
- ↑ 『続漢書』(『後漢書』に合わさる)百官志4、早稲田文庫『後漢書』志2の491頁。
- 1 2 3 『宋書』巻40、志第30下、百官下。
- ↑ 『宋書』巻4、武帝紀第3、永初元年7月。武帝紀には東宮冗従僕射とある。初めて置くとは、『宋書』巻40、志第30下、百官下にある。
- ↑ 『宋書』巻6、孝武帝紀第6、元嘉30年12月。
- ↑ 『宋書』巻18、志第8、礼5に太子冗従僕射がなく、太子常従虎賁督があることから推定する。
- ↑ 『南斉書』巻16、志第8、百官。
- 1 2 3 『隋書』巻26、志第21、百官上、梁。
- 1 2 『隋書』巻26、志第21、百官上、陳。
- ↑ 『魏書』巻113も、官氏志第19、職官。
- ↑ 『隋書』巻27、志第22、百官中、後斉。