太子旅賁中郎将
太子旅賁中郎将(たいしりょほんちゅうろうしょう)は、中国の南北朝時代の南朝の宋以降、420年から589年まであった官職である。皇太子の護衛にあたった。
名の由来
中郎将は、皇帝のそばで警護にあたった中郎を統率した武官で、前漢にあり、五官中郎将、左中郎将・右中郎将に分かれていた。虎賁中郎将は後漢で作られ、虎賁と名づけられた護衛の兵士を率いた。前漢にはそれと別に旅賁令があり、宮殿の警備に関わっていたが、後漢で廃止された。旅賁令の役割については『漢書』に記されないが、『宋書』百官志によれば、漢では天子に虎賁があり、王侯に旅賁があったという[1]。
儒教の経典である『周礼』(『周官』)は、周の時代の制度を、後の時代に理想化して記した書である。そこでは虎賁氏と旅賁氏を続けて書き、虎賁は旅賁より地位が高く兵士数が多かった。『宋書』百官志は『周礼』の旅賁も挙げている[1]。周代の史実は違うかもしれないが、南北朝時代の理解では、そうした古の制度にならって設けたのである。儒教経典にもとづく官職名は、前漢末に見えはじめ、南北朝時代にいっそう強まった傾向である。
制度の変遷
宋
太子旅賁中郎将は、永初元年(420年)7月、東宮冗従僕射(太子冗従僕射)とともに南朝の宋で初めて置かれた[2]。
宋での定員は10人[1]。『宋書』は、太子旅賁中郎将を説明して、虎賁中郎将のようなものだとする[1]。宋の初めには皇帝付きの中郎将として虎賁中郎将があったが、定員は明記されない[1]。 漢の旧制や『周礼』では、その下に兵士として旅賁や虎賁がいたことになるが、宋でどうだったかは不明である。
元嘉30年(453年)にいったん廃止されたが[3]、数年後にまた任命された。殷孝祖は大明初年(457年頃)に戦功で太子旅賁中郎将となり、大明3年(459年)に広陵で劉誕が反乱を起こしたとき鎮定軍に加わった[4]。戴法興は内務の能力を買われて孝武帝に引き立てられ、太子旅賁中郎将として東宮に出仕したが、兼任する官が多い文官であった[5]。
斉・梁・陳
斉(479年 - 502年)にもあり、定員1人[6]。皇帝の虎賁中郎将もあった[6]。
梁(502年 - 557年)にもあり、定員1人[7]。太子冗従僕射とあわせて東宮二将と呼ばれた[7]。梁に皇帝の虎賁中郎将はなかったようである[7]。
北朝
北朝には皇帝の虎賁中郎将だけがあり、太子旅賁中郎将はなかった。589年(隋の開皇9年、陳の禎明3年)に、北朝の隋が陳を滅ぼしたことにより、太子旅賁中郎将はなくなった。
太子旅賁中郎将の人物
宋
脚注
- 1 2 3 4 5 『宋書』巻40、志第30下、百官下。
- ↑ 年月は『宋書』巻4、武帝紀第3、永初元年7月。初めて置くとは、『宋書』巻40、志第30下、百官下にある。
- ↑ 『宋書』巻6、孝武帝紀第6、元嘉30年12月。
- 1 2 『宋書』巻79、列伝第39、文五王、竟陵王誕。巻86 列伝第46、殷孝祖。
- 1 2 『宋書』巻13、志第3、律暦下。
- 1 2 『南斉書』巻16、志第8、百官。
- 1 2 3 『隋書』巻26、志第21、百官上、梁。
- ↑ 『隋書』巻26、志第21、百官上、陳。
- ↑ 『隋書』巻26、志第21、百官上、陳。唐の時代に皇帝の先祖の李虎の名を避諱したため、『隋書』では武賁の名で書かれる