宝寿院祐満

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宝寿院 祐満(ほうじゅいん ゆうまん、生年不詳 - 寛文10年2月27日〈1670年4月17日〉)は、江戸時代初期の天台宗の僧。祇園社(現・八坂神社)の社務執行・宝寿院当主。

宝寿院祐雅の子。正保年間の祇園社大火後の徳川家綱による社殿再建や、江戸幕府からの朱印状受領・拝領を行った。

生涯・事績

得度と就任

宝寿院祐雅の子として生まれる[1]。元和2年(1616年)11月、青蓮院において得度した[1]。

父の祐雅が在職中であった寛永13年(1636年)11月、社領安堵の朱印状を受領するため、祐雅の代理として江戸へ下向している[1]。寛永18年(1641年)にも「社務」として江戸へ下向している[1]。祐満が正式に社務執行職に就任したことが確認できる確実な史料は寛永21年(正保元年、1644年)正月以降である[1]。

正保の火災と将軍家綱による社殿造営

正保3年(1646年)11月18日夜、境内からの出火(大火)により、本殿・拝殿・中門・小社などがことごとく焼失した[2][3]。

祐満は直ちに仮殿を建てて神事の再開を図るとともに、江戸幕府へ再建を願い出た。これにより第4代将軍・徳川家綱による公費造営(幕府造営)が決定した[3]。承応2年(1653年)10月2日に造営が開始し、承応3年(1654年)3月2日に棟上、5月18日に本殿への遷宮(正殿遷宮)が執り行われた[3]。

造営成就の御礼のため、祐満は寛文5年(1665年)6月20日に京都を発って江戸へ下向し、同年8月8日に江戸城にて将軍・家綱より社領(都合140石余)安堵の朱印状を拝領して8月18日に帰京した[3]。

東本願寺法主家からの養子相論

万治3年(1660年)、祐満は嗣子(後継者)として近江国長浜の大通寺住持・宣澄(霊瑞院、東本願寺第13代法主宣如の三男)の子息である「勝丸」(当時5歳)を養子として迎えようとした[4][1]。

しかし、祐満の実弟である神福院忠雅や佐竹縫殿助らが異義を唱えて奉行所に訴訟を起こしたため、入坊は一時延期された[4][1]。訴訟の結果、訴えが「非分(不当な訴え)」と判定されたことで、同年12月18日に勝丸は宝寿院へ入坊した[4]。

寛文10年(1670年)に祐満が示寂(死去)すると、その跡を継いで勝丸(乙丸=のちの祐円)が宝寿院当主・社務執行となった[1][5]。

「寛文十年の難」所司代の叱責と急死

寛文10年(1670年)3月、京都所司代の板倉重矩(板倉内膳正)が祇園社へ立ち越した(視察に訪れた)際、境内や社殿の各所に小破(破損箇所)が目立ち、それらが長期にわたり放置(不沙汰)されていたことを目にして激怒した[6]。

この不沙汰により祇園社中全体がお咎めを受け、急遽修繕が始められたが、神社管理の最高責任者(先執行)であった祐満は所司代より「閉門」(謹慎処分)が科された[6]。当時、祐満は高齢(老然)であったことに加えて重病を患っており、この処分を受けた直後に病状が悪化し急死(病没)した[6]。

祐満の死後、跡を継いだ息子の宝寿院祐円らが連署して幕府へ覚書案を提出し、一連のお咎めと不沙汰の経緯について弁明・報告を行っている[6]。

史料的貢献(「祐満説」)

祐満は祇園社の歴史や由緒、社伝の考察を多く書き残しており、後代の史料(『八坂神社記録』や『祇園社諸事古記』)において「祐満説」「祐満記」として度々参照されている。

  • 祇園神楽の始まり(「片羽屋」の由来)や、六月祭礼における室町将軍家からの鳥目下賜の由緒などの古伝を記録した[7]。
  • 徳川家康・徳川秀忠・徳川家光ら歴代将軍による社領朱印状拝領の正確な年月日や手続の経緯を書き残し、近世社頭の法的権利の裏付けに貢献した[7]。

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 『新編 八坂神社記録』「祇園社・同社御旅所の役職歴代」832頁
  2. ↑ 真弓常忠『八坂神社』
  3. 1 2 3 4 『八坂神社記録』「造営記事」
  4. 1 2 3 『祇園本縁雑実記』
  5. ↑ ただし、下坂守の説では、勝丸と乙丸を別人とし、勝丸は宝寿院に入院後まもなく同院を離脱(または早世)し、祐満の没後にその跡を継いだ「乙丸」が祐円の幼名であるとする(『新編 八坂神社記録』832頁参照)。
  6. 1 2 3 4 『八坂神社文書 上』第724号「社務執行寶壽院祐圓等連署覺書案」
  7. 1 2 『八坂神社記録』「雑纂」

参考文献

  • 『八坂神社文書』(上巻・下巻)
  • 『八坂神社記録』(第1巻〜第4巻)
  • 『新編 八坂神社記録』
  • 真弓常忠『八坂神社』(学生社)