宝寿院顕増
宝寿院 顕増(ほうじゅいん けんぞう、生年不詳 - 大永4年〈1524年〉7月以降)は、戦国時代の祇園社(現・八坂神社)の社務執行(宝寿院門主)を務めた人物である。幼名は玉寿(玉寿丸)。
前任の宝寿院顕重の没後、祇園社務執行職を継承した。応仁の乱の兵火による全焼後、約30年間にわたり中断(退転)していた祇園会(山鉾巡行)の再興(明応9年)を成就させた時期の祇園執行であり、室町幕府との連携のもとで社務・祭礼の掌理、社領支配および社内権益の防護に力を尽くした。
生涯・事績
執行職の継承と室町幕府との連携
明応2年(1493年)閏4月に応仁の乱の兵火で消失した祇園社の再建を遂行した前社務執行の宝寿院顕重が死去したことを受け、幼名の「玉寿(玉寿丸)」として祇園社務執行職および宝寿院の家督を継承した。同月15日付の文書では、社務執行として長吏(奥坊)、供僧(松坊・梅坊・藤坊など10名)、宮仕、社人らを率いて連印を行っている[1]。
明応6年(1497年)3月頃より「祇園執行」としての活動が本格化し、当初は「玉寿」名義で文書の発給や社務の執行を行った。のちに「顕増」と改名し、永正6年(1509年)から大永4年(1524年)7月に至るまで、祇園執行としての補任状や下知状を発給している[2]。
在任期間を通じて室町幕府の奉行人層(飯尾清房・飯尾貞連・飯尾元行・飯尾頼亮・三善元行ら)と密に連携した。幕府の命令により7日間にわたる大般若経転読祈祷を修して申状を提出したほか[3]、文亀2年(1502年)6月には前日の祇園会の御神幸が無事滞りなく執り行われた旨を奉行人・飯尾加賀守(貞連)に報告している[4]。
明応9年(1500年)の祇園会再興
顕増の時代の最重要事績は、応仁の乱(1467年)以降約30年間にわたって途絶していた祇園会(山鉾巡行)の正式な再興が成就したことである。
- 幕府奉書の受領:明応9年(1500年)5月18日、室町幕府奉行人の飯尾清房・飯尾元行連署の奉書(「室町幕府奉行連署奉書案」)を「當社々人中」宛てに受領した。奉書では、祇園会が長らく退転していた現状を「太不可然(きわめて不都合)」と捉え、当年の祭礼においてはまず「榊(さかき)」をもって神事を行うこと、直ちに氏子や諸役者に連絡して遅滞なく神事を執り行うことが命じられた[5]。
- 将軍家からの寄進:同年6月7日の祭礼当日、室町幕府(飯尾清房)より御太刀一腰および神馬一疋が「祇園社執行御房(宝寿院玉寿)」宛てに牽進(進上)された[6]。
- 山鉾順序の固定と決定:祭礼の再興にあたり、侍所開闘予の松田頼亮のもとで、先規(従来の慣例)を周知する古老の「小舎人新右衛門」への聞き取り調査が行われた。これにより、一番「長刀鉾」から二十七番「大舟」に至る全27基の山鉾巡行順序(「明応九年祇園会山鉾次第」)が固定・決定され、旧例に則った山鉾巡行が初日(6月14日)より見事に復活した[7]。
祇園会再興後の社務統制
明応9年の祇園会再興後も、祭礼の継続と社内統制に努めた。
境内権益の防護と対外交渉
社務執行として、社内・周辺寺社との権利相論や境界問題に対し、積極的な交渉と法的申告を行った。
- 少将井社・御神輿相論:少将井御神輿前の参銭権利や舞殿神子惣一職の譲渡を巡り「御霊一」等との間で相論が生じた際、目安(訴状)を添えて幕府へ申告し、速やかな解決を求めた[11]。
- 延暦寺(山門)への抗議:延暦寺(山門)の「大会(たいかい)」における祇園社専当の勤役について、不当な人物が任命され座主宮拝堂時の先規が乱れた際、横川別当代宛てに書状を発給して先例遵守を強く要求した[12]。
- 建仁寺との境界相論:明応3年(1494年)10月13日、隣接する建仁寺との境内の境界(堺相論)が発生した際、幕府奉行人より「事実糾明の上で裁定を下す」との奉書を「当社執行(玉寿丸)」宛てに受領し、裁判結果を待った[13]。
- 土一揆蜂起への防備:明応8年(1499年)8月22日、土一揆蜂起の噂が立った際、幕府から「要心のため寺の周辺に堀を掘るように」との指示を受け、境内の警備にあたった[14]。
補任権の行使と晩年
社務執行として感神院や祇園社に仕える社僧・神人らに対する補任権を執り行った。明応9年(1500年)6月18日には感神院少別当職に「猿寿丸(正蔵坊)」を補任する補任状(「大別当玉寿判」)を発給している[15]。
大永4年(1524年)7月17日発給の「感神院小別当職補任状(社務執行顕増判)」を最後に史料上の確認が途絶えるため[16]、同年7月以降に死去または退任したと推測される。没後、社務執行職は宝寿院顕淳(幼名「玉寿丸」)へ継承された。
脚注
- ↑ 『八坂神社文書』明応2年4月15日付「祇園宝寿院執行顕増外連印状」
- ↑ 『八坂神社文書』永正6年〜大永4年各条
- ↑ 『八坂神社記録』「社務執行宝寿院玉寿申状案」
- ↑ 『八坂神社文書』文亀2年6月8日付「社務執行宝寿院玉寿書状案」
- ↑ 『八坂神社文書』明応9年5月18日付「室町幕府奉行連署奉書案」
- ↑ 『八坂神社文書』明応9年6月7日付「室町幕府太刀及神馬送文」
- ↑ 『八坂神社記録 4』「祇園会山鉾次第」明応9年6月12日・14日条
- ↑ 『八坂神社文書』永正元年6月5日付「室町幕府奉行連署奉書案」
- ↑ 『八坂神社文書』永正9年6月条「室町幕府奉行連署奉書案」
- ↑ 『八坂神社文書』大永2年6月6日付「室町幕府奉行連署奉書案」
- ↑ 『八坂神社文書』永正5年3月13日付・7月18日付「社務執行宝寿院顕増申状案」
- ↑ 『八坂神社記録』「横川別当代宛顕増書状案」
- ↑ 『八坂神社文書』明応3年10月13日付「室町幕府奉行連署奉書案」
- ↑ 『八坂神社文書』明応8年8月22日付「室町幕府奉行連署奉書案」
- ↑ 『八坂神社文書』明応9年6月18日付「感神院少別当職補任状」
- ↑ 『八坂神社文書』大永4年7月17日付「感神院小別当職補任状」
参考文献
- 『八坂神社文書』(上巻・下巻)
- 『八坂神社記録』(第3巻・第4巻)
- 『新修八坂神社文書(中世篇)』
- 『新編 八坂神社記録』