山野井妙子

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山野井 妙子(やまのい たえこ、1956年3月19日[1] - )は滋賀県出身の登山家であり、日本で数少ない女性アルパインクライマー。旧姓は長尾。夫は同じく登山家の山野井泰史。二人は東京の奥多摩から静岡県伊東市に移住した[2]。

登山歴

人物・経歴

滋賀県の農家に生まれる。家族は両親と祖母、そして弟が一人。1976年、大学入学を機に上京したが物理学科の授業で忙しく山岳部には入らず。2年生以降生活にも慣れ余裕が出来たため、21歳の時に東京北稜山岳会に入会した[4]。1988年春には北アルプスの鹿島槍ヶ岳から滑落し腰椎圧迫骨折で3ヶ月間入院したが、同年末には八木原圀明が隊長を務める公募隊にサポート役で参加し、南米最高峰のアコンカグアを登頂。後に夫となる山野井泰史と初めて共に山行した1991年のブロードピーク時点で既に国内屈指の女性クライマーとして知られていた。泰史は9つ年下だったが、2人とも虫や動物が好きで気が合ったという。

マカルー登頂後に入院していた妙子を泰史が見舞い、その直後に泰史が富士山での強力(歩荷)中に脚を骨折。2人は退院後一緒に住む家を探し、1992年より東京の奥多摩町で共に借家暮らしを始めた。妙子は家庭菜園や料理などを好み、指を失ってからも工夫しつつ家事全般を問題無くこなしている。1994年に遠藤由加とのペアで登ったチョ・オユー南西壁の難易度は高く、8,000m峰をバリエーションルートで登頂成功した例は2023年現在、女性ペアとして世界唯一となっている[5]。1996年には泰史と入籍し山野井姓となる。2002年、泰史と共にギャチュン・カンから生還し、植村直己冒険賞を受賞。この時の山行の様子は2008年に沢木耕太郎が発表したノンフィクション「凍」に詳しい。2020年には長く暮らした奥多摩を離れ、気候がより暖かい静岡県伊東市へ夫婦で移った[6]。

脚注

  1. ↑ 『Himalaya』316号、日本ヒマラヤ協会、1998年3月、11頁。NDLJP:7950463/7。
  2. ↑ “奥多摩生活28年”. 山野井通信. 2020年12月18日閲覧。
  3. 1 2 3 4 5 6 柏澄子『彼女たちの山 - 平成の時代、女性はどう山を登ったか』山と渓谷社、2023年、36頁。
  4. ↑ 柏澄子『彼女たちの山 - 平成の時代、女性はどう山を登ったか』山と渓谷社、2023年、12頁。
  5. ↑ 柏澄子『彼女たちの山 - 平成の時代、女性はどう山を登ったか』山と渓谷社、2023年、35頁。
  6. ↑ 柏澄子『彼女たちの山 - 平成の時代、女性はどう山を登ったか』山と渓谷社、2023年、33頁。

参考文献