川越藩
| 川越藩 | |
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川越城本丸御殿 | |
| 立藩年 | 天正18年(1590年)? |
| 初代藩主 | 酒井重忠 |
| 廃藩年 | 明治4年(1871年) |
| 最終藩主 | 松平康載 |
| 国 | 武蔵国 |
| 居城 | 川越城 |
酒井家 | |
| 石高 | 1万石 |
| 種類 | 譜代大名 |
| 藩主 | 酒井重忠 |
酒井家 | |
| 石高 | 2万石→2.7万石→3.7万石→8万石→10万石 |
| 種類 | 譜代大名 |
堀田家 | |
| 石高 | 3.5万石 |
| 種類 | 譜代大名 |
大河内松平家 | |
| 石高 | 6万石→7.5万石→7万石 |
| 種類 | 譜代大名 |
| 藩主 | 松平信綱 |
柳沢家 | |
| 石高 | 7.2→11.2万石 |
| 種類 | 譜代大名 |
| 藩主 | 柳沢吉保 |
秋元家 | |
| 石高 | 5万石→6万石 |
| 種類 | 譜代大名 |
前橋松平家 | |
| 石高 | 15万石→17万石 |
| 種類 | 親藩 |
| 格式 | 城主[1] |
| 江戸城控間 | 大広間[注釈 1][1] |
松井松平家 | |
| 石高 | 8万石→6万石→8万石 |
| 種類 | 譜代大名 |
川越藩(かわごえはん)[注釈 2]は、武蔵国に1590年(天正18年)ころから1871年(明治4年)まで、断続を挟みながら存在した譜代大名による藩、もしくは親藩。酒井重忠が初代藩主をつとめ、以降は酒井家、堀田家、大河内松平家、柳沢家、秋元家、前橋松平家、松井松平家の計8家が藩主となった。藩庁は川越城(現埼玉県川越市)に置いた。石高は藩主家によって変動があるが、前橋松平家の治世では最大の17万石となっている。
川越藩の歴史は、1590年(天正18年)に徳川家康が関東に入部した際に、酒井重忠も川越城1万石を拝領したことに始まる。1601年(慶長6年)に前橋藩へ移ると、1609年(慶長14年)に弟の酒井忠利が2万石で入封し、3.7万石まで加増された。嫡男ですでに深谷藩5万石を領していた酒井忠勝が相続すると、8万石ついで10万石に加増され、小浜藩へ転封した。その後、老中堀田正盛が3.5万石で短期間ながら入封した。島原の乱を鎮圧した「知恵伊豆」こと、松平信綱が6万石のち7.5万石で入封し、川越藩領の整備を行った。彼の死後は2代が続き古河藩へ転封されると、徳川綱吉の側用人をつとめていた柳沢吉保が7.2万石で入り、最終的には11.2万石に加増され、甲府藩に転封された。老中の秋元喬知が5万石(後6万石)で入封し、3代続いたのちに山形藩へ転封した。ここまでは譜代大名が続くも、前橋藩より親藩の松平朝矩が入封した。松平斉典は藩財政の好転のために、庄内藩への転封(三方領地替え)を謀るも、庄内藩での大規模な反発を受け2万石の加増にとどまった。松平直克の代に再び前橋藩へ帰城を命じられた。最後に老中の松平康英が入り、養子の松平康載の代に版籍奉還・廃藩置県を迎えた。川越藩が廃藩になると、川越県となり現在では埼玉県の一部となっている。
川越は地理的に江戸が近く、老中をはじめとする重臣が配置されることが多かった。現代まで蔵造りの屋並みなど城下町の一部が残り、「小江戸川越」とも称されている[3]。
藩史
川越前史と立藩
川越藩の拠点となった川越城は、軍事および交通上の要衝であった[3]。扇谷上杉氏の上杉持朝と太田資清が造営し、扇谷上杉氏のち後北条氏の支配下に入り、小田原城の支城として城代が配置されていた[3]。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の最中、前田利家の軍勢によって川越城(当時の城代は大道寺氏)は接収された[4][5]。徳川家康の関東移封に続き、酒井重忠が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩が立藩した[注釈 3][7][8]。また、その子の酒井忠世と弟の酒井忠利にも、川越領のうち独自にそれぞれ5000石、3000石が与えられている[9][6]。文禄元年(1592年)の文禄・慶長の役の際には、酒井重忠は徳川家康治める江戸城の留守居役をつとめた[10]。
関ヶ原の戦いののち、慶長11年(1601年)3月に酒井重忠は厩橋藩(のちの前橋藩)3.3万石、酒井忠利は田中藩1万石、酒井忠世は那波藩1万石へ加増転封がなされた[11]。この後しばらくは、川越城は幕府が直轄支配をなす、番城となった[12]。
酒井家時代

慶長14年(1609年)、酒井忠利が田中藩より2万石で入封した[13][14]。川越に入った忠利は、天海が住職を務めていた喜多院を再興させている[13][15]。幕政に関しても、大留守居として大坂の陣においても江戸城の留守居を担ったほか、老中にまで登用されている[16]。また忠利は元和2年(1616年)7月に7000石、同5年(1619年)12月に1万石の加増を受け、3万7千石となっている[13][15]。
寛永4年(1627年)に忠利は死去し、川越藩領3.7万石のうち3万石を、忠利の嫡男・忠勝が相続し、元の所領武蔵国深谷藩5万石と合わせて川越藩は8万石となった[17][18]。残りの7000石は、忠勝の弟4人が分知することとなっている[19][15]。寛永9年(1632年)9月、2万石の加増を受け、石高は10万石となった[19][20]。

幕政としては、川越藩主着任以前から老中をつとめており、徳川家光・家綱をよく補佐した[20]。家光からの信任は厚く、死の間際に実弟保科正之とともに後事を託されるほどであったという[20]。川越藩政にも大きく参与した。寛永10年(1633年)に23か条にわたる条目を発しており、農村統治のあり方を示している [21][22]。城下町の整備に関する記録は乏しいが、川越城下町の時の鐘を建立したのは忠勝であると伝わっているほか[23]、氷川神社の復興や喜多院多宝塔の建立など寺社を整備した[24]。寛永11年(1634年)閏7月、忠勝は若狭国1国を含む、小浜藩11.35万石に移封された[25][26]。忠勝転封ののち、中村藩(相馬藩)相馬義胤が7か月にわたって川越城の城代を務めた[27]。
江戸城に近いという地理的な理由から、徳川家康や徳川家光が鷹狩のために訪れることが多かった。家康の代は特に、江戸周辺の事情の視察を兼ねていた可能性も指摘されている[28]。家光も「徳川実記」の記録に見られるだけでも9度川越を訪れており、しばしば川越城で宿泊をすることもあったという[29]。
堀田正盛と川越大火
寛永12年(1635年)3月、老中の堀田正盛が3万5千石で入封した[30][27]。春日局(徳川家光の乳母)の義理の孫にあたる正盛は、1代で大名になりあがり、松平信綱らとともに六人衆(のちの若年寄)に任命されるなどされた[31]。川越への転封により、堀田正盛は初めて城主となった[32]。
寛永15年1月28日(1638年)に城下町が火災にあい、喜多院や仙波東照宮をはじめ城下町の3分の1が焼失した[33][34]。その後まもなく3月8日に正盛は信濃国松本藩10万石に加増転封となるも[注釈 4][31]、天海ゆかりの喜多院・仙波東照宮再建を徳川家光が命じ、その造営奉行となったのは元川越藩主となった正盛であった[36]。堀田家の川越藩統治はわずか3年で、関係資料はわずかにしか残っていない[37]。堀田家転封後の城代には、常陸国下館藩主水谷勝隆があてられた[38][39]。
「知恵伊豆」の川越藩政

寛永16年(1639年)1月、松平信綱(大河内松平家)がおそらく島原の乱(寛永14年-15年)鎮圧の功により、武蔵国忍藩3万石より3万石加増された6万石で入封した[38][39]。正保4年(1647年)加増を受けて7万5千石となっている[40]。信綱は才知に長け、家光付小姓から堀田正盛と並んで六人衆、さらに老中首座となり、家光や第4代将軍・家綱をよく補佐し、官職名の伊豆守から「知恵伊豆」と呼ばれた[41][42]。

信綱時代に川越藩政も確立している[43]。川越大火を受けて、小規模であった川越城を大改築し、城下町の整備も同時に進行していたと推定されている[44][45]。川越の地は徳川将軍が鷹狩のために訪れることが多く、江戸と川越を結ぶ川越街道が整備された[46]。荒川や入間川などの川が存在する川越藩領の治水にも手を付け、盛土・堤防の整備を行った[47]。また、川越五河岸などの河岸場が整備され、江戸・川越間の物資輸送を主とする新河岸川の船運が発展した[48]。正保4年(1647年)から慶安元年(1648年)にかけて、藩領で検地が実施された[49]。武蔵野台地やとりわけ野火止を開発し、信綱が奉行をつとめた玉川上水が完成すると、藩士安松金右衛門を中心に野火止用水を開削して武蔵野台地に生活水を引いた[50][51]。その他に、入間川の堤防の補修や農村に対する22個の法令を整備している[52][53]。
松平輝綱・信輝の時代

信綱も晩年になると、嫡子の松平輝綱が代理として幕政に参与することが多くなった[54]。寛文2年(1662年)3月に信綱が没すると、輝綱が川越藩主を継承し、弟の松平信定と松平信興の二人にそれぞれ新田5000石を分知した[55]。
寛文11年(1671年)12月に輝綱は死去し、嫡子の松平信輝が川越藩のうち7万石を継承し、弟の松平輝貞に5000石を分知された[56]。信輝時代の大名の評判記・「土芥寇讎記」の記述によれば、川越藩は新田開発が盛んで、その実高は10万石に及んだという[57]。元禄7年(1694年)1月に、信輝は下総国古河藩7万石へと転封となった[58]。
柳沢家時代
大河内松平家に代わって柳沢吉保(保明)が7.2万石(7万2030石)で入封した[59][60]。吉保は5代将軍徳川綱吉に小姓として仕え、寵愛を受け側用人として幕政に参画したために、川越藩主時代に川越に入部することは一度もなかった[61]。元禄10年(1697年)に2万石、同15年(1702年)にはさらに2万石の加増を受け、11.2万石(11万2030石)まで膨れ上がった[62][63]。藩政としては、三富新田の開発を行われている[64][65]。また、吉保は儒学者で古文辞学で有名な荻生徂徠を召抱えていた[66]。宝永元年(1704年)12月、綱吉の後継に内定した松平綱豊(徳川家宣)の旧領・甲斐国甲府藩に15万石(15万1288石)で移封となった[67][68]。
秋元家時代
代わって甲斐国谷村藩3万石の大名で老中をつとめていた秋元喬知が5万石で入封した[69][70]。正徳元年(1711年)12月には1万石の加増を受けた[71][72]。秋元喬知も徳川綱吉に抜擢された大名の一人で、やはり幕府内で重役をつとめることが多く、それに伴う出費が藩財政を圧迫した[71]。一方で川越藩政に関する資料は少ないが、谷村藩時代の甲斐絹の生産奨励や課税対象産業の拡大といった経験を活かし、殖産推進を試みたという[72]。旧領甲斐国より職人を連れてきて[注釈 5]、養蚕・川越斜子や川越平などの生産を奨励した[73][74]。喬知の治世の家老には、松尾芭蕉の弟子にあたる高山繁文や「秋元に過ぎたるもの」とまで称された岩田彦助がいた[75][74]。
喬知は正徳4年(1714年)8月に病死し、嫡子の秋元喬房が相続した[76]。喬房の時代には江戸城や仙波東照宮の手伝普請や江戸屋敷の焼失もあり財政が窮乏した結果、物成の借用が起こった[77]。享保8年(1723年)に奏者番についているが、元文3年(1738年)9月に男子なく死去した[78]。宇都宮藩主戸田忠余の子ですでに養子となっていた秋元喬求が川越藩主となり、寛保2年(1742年)に隠居した[78]。
老中凉朝と伝馬騒動
秋元貞朝の子・秋元凉朝が継いだが、同年の大豪雨と大洪水により川越藩領も大きな損害を受けた[注釈 6][77][79]。従来の藩財政の窮乏や以降の仙波東照宮の普請などが加わり、川越藩でも倹約令が頻発されることとなる[80]。
明和元年(1764年)から翌年にかけて、武蔵国を中心に中山道伝馬騒動が発生した[81]。一旦は関東郡代が一揆勢の要求を呑み沈静化したものの、再び入間郡各地で打ちこわしが起こり、川越城下にも一揆勢が迫った[81]。一揆勢の一部は召しとられたものの、事態を穏便に済ませたい藩は農民を解放している[82]。
凉朝は奏者番・寺社奉行・西丸若年寄・西丸老中を歴任し、宝暦10年(1760年)4月には老中まで上り詰めた[78]。一旦老中を辞すも、再び西丸老中になり、明和4年(1767年)6月に田沼意次との対立を理由に老中を辞した[77]。側用人に昇格した田沼意次は、凉朝に出羽国山形藩への転封を命じるも、これを不服とし隠居したため、実際に山形藩主となったのは嫡子の秋元永朝であった[77]。
前橋藩への編入と前橋藩消滅

旧川越藩領のうち、川越城およびおよそ3万石が上野国前橋藩主・松平朝矩15万石の所領に編入された[注釈 7][83]。松平朝矩の前橋松平家は、徳川家康の次男結城秀康の5男・松平直基を始祖とし、前橋藩への入封を加えて実に9度という異例な回数の転封を経験している[85]。幼少の朝矩には要衝の姫路藩を任せられないとのことで、寛延2年(1749年)正月に前橋藩への転封が決定していた[86][87]。前橋城は利根川の浸食を受け大打撃を受けており、住居を本丸から三の丸に移転しているが、三の丸さえも危険となっていた[88]。
宝暦13年(1763年)6月には、幕府に前橋城への実地見分を依頼しており、川越領の編入がなされてすぐ、明和4年(1767年)に川越城への移城が申し渡された[89][83]。これは事実上の転封であり[83]、以降前橋藩は川越藩となった。川越藩の飛び地となった前橋には川越藩の陣屋(前橋陣屋)を置き、以降約100年間にわたって前橋分領を支配した[90]。依然として川越藩の所領の大半は上野国に存在していたため、7万石の城下町であった川越では屋敷地が不足したほか、家臣の禄米を川越領だけで賄えず前橋領から輸送する必要があり、川越への引っ越しは時間を要した[91][92]。翌5年(1768年)に川越城受け取り・入城を果たしたが、6月に朝矩は死去した[93][87]。
所領分散と財政圧迫

遺領を相続したのは、次男の松平直恒であった[93]。川越への移転は前橋城の取り壊しが交換条件となっており、明和6年(1769年)ごろに前橋城は取り壊された[94]。4月に上野国の一部で所領替えがあり、翌7年(1770年)6月には約4.3万石規模の領地替えが行われ、川越藩領のうち武蔵国内領が増えている[95][96]。しかしこうした所領替えは、かえって川越藩領の分散を招き、一つの藩としての体制確立が困難であったという[97]。
度重なる転封や諸大名・朝鮮通信使の接待、凶作などが原因で、松平家の財政は姫路藩時代にはすでに逼迫していた[98]。直恒時代にも藩政改革へ取り組んだようであったが、十分に成果をあげることはできなかった[99]。前橋領内で火災が起きたほか、明和の大火による江戸上屋敷・下屋敷の類焼、天明3年(1783年)の天明大噴火による直接的被害と凶作は大きな痛手となり、倹約の実施や家臣団には減給措置をとり、コメ不足のために一部を現金での支給を行うに至った[100][101]。
直恒は文化7年(1810年)正月に没し、その次男・松平直温が川越藩主を継ぐも、治世はわずか6年に過ぎず、文化13年(1816年)7月に亡くなった[93][102]。文化5年(1808年)のフェートン号事件を受けて幕府は沿岸警備の強化を目指し、7年2月に相州警備は会津藩の管轄となったため、一旦は相模国の領地が返上されている[103]。この代知として与えられたのは比企郡を中心とする武蔵国の領地で、川越領が増大したほか前橋領との連絡も確保されるようになり、藩領の分散の解消につながっている[96]。
三方領地替え
直温の死後、弟にあたる松平斉典(はじめ矩典)が襲封した[104][102]。文政3年(1820年)より相州警備の管轄が浦賀奉行に移ると、再び川越藩も沿岸警備に関わることとなった[103]。同年に武蔵国の領地が相模国に1万5000石規模で置き換わり、相模国の浦郷の地には陣屋を設置した[102]。これ以降幕末まで、多大な負担がかかる相州警備やお台場警備を受け持つこととなっており、藩政に大きな影響を与えている[103]。文政5年(1822年)には、サラセン号が来航し、川越からも藩士が派遣されている[103]。文政8年(1825年)に江戸で、同10年(1827年)に川越で講学所が設置された[105][106]。
文政2年(1819年)には、豪商横田五郎兵衛を500石の士分並として、勘定奉行(格)に取り立てるなど積極的な財政改革を進めている[107][102]。勧農掛を設置したほか、荒廃地には大量の次男以下を誘致する政策をとったが、効果を挙げられなかった[102]。また、儒学者長野豊山を招き、学問振興を図ったが、失敗に終わった[108]。
文政10年(1827年)に、斉典は長子が存在しつつも、将軍徳川家斉の子・松平斉省を養子に迎えた[109][110]。徳川家斉は子が多く処置に困っており、養子の見返りを求めてのことだとされている[102]。実際に、五三の桐紋を使用していたが葵紋の使用を認められ、天保6年(1835年)には江戸城の控間が藩主・嫡子ともに溜間から大廊下に、翌7年(1836年)には官位が従四位上少将(従来は従四位下)に格上げとなった[102][111]。また、この縁があって、幕府から拝借金を数度にわたって拝領している[108]。
天保2年(1831年)には、秋元家が領していた川越付近の領地が与えられている[112]。斉典は文政11年(1828年)にさっそく姫路藩への転封を願い出て以降、天保9年(1838年)や天保11年(1840年)にも前橋城への帰還を幕府に嘆願している[113]。これらの嘆願では、将軍の息子・斉省の存在を醸し出しており、また斉省も嘆願を聞き入れるように願い出ている[114][115]。天保11年には同じく家斉の息子である名古屋藩主徳川斉荘が実質的に大幅な加増を受けているが、川越藩に対しても斉省の存在を考慮しての裁決がだされた[116]。11月に松平斉典は出羽国庄内藩へ、庄内藩主酒井忠器は越後国長岡藩へ、長岡藩主牧野忠雅は川越藩へ、三方領地替えの命令が下された[117][118]。特に長岡藩牧野家に関しては、唐物抜荷事件への懲罰的な意味あいの転封だったという[119]。
庄内の地は表高こそ14万石であったが、実高が大きく上回っており、裕福な地として評判であった[120]。しかし、庄内藩内で領民が善政を敷いていた酒井家の転封反対を唱える天保義民事件が繰り広げられた[121][122]。翌12年(1841年)に大御所家斉が死去し、徳川家慶の親政が始まると三方領地替えは撤回された[123]。同年のうちに斉省もすでに死去しており、特別な配慮の必要がなくなったこともその理由となっている[124]。代わって川越藩に対しては2万石の加増が言い渡されている[125][126]。
外国の脅威と沿岸警備
天保13年(1842年)には、アヘン戦争の情報が伝わり異国船打ち払い令を解除すると、相州を川越藩、房総を忍藩に警備させた[127][102]。警備範囲が広範に広がったため、三浦半島の大津に追加で陣屋を設けることとなった[102]。天保14年(1843年)には、散在していた領地2万2千石余りを相模国や川越城付近の土地と交換している[127]。弘化4年(1847年)には、相州警備に彦根藩、房総警備に会津藩が加わる、4藩体制(御固四家体制)となって負担が軽減された[128]。

斉典は翌3年(1850年)正月に死去し、眼病を患っていた子の松平典則が跡を継いで、父の代と同様に、相州警備を引きつづき担当することとなった[129][130][104][131]。マシュー・ペリーの来航をきっかけにお台場の築造が着手されると、その築造中に従来の相州警備に代わって第一台場の警備を申し渡された[132][133][134]。藩の武装強化にも努めており、刀工を呼び寄せて刀を作らせたほか、藩士を江川太郎左衛門に入門させて西洋式砲術を習得させていた[135]。
藩主の典則は眼病を理由に、嘉永7年(1854年)8月には元服する前に隠居し、その跡を水戸藩主徳川斉昭の子で養子の松平直侯に継がせた[104][136][137]。直侯もまた病気のために、文久元年(1861年)12月に隠居した[138][139][140]。
前橋への帰還
久留米藩主・有馬頼徳の子の松平直克が養子として、川越藩主を相続した[138]。前橋城への帰還はたびたび言及されるも、ここまで実行には至っていなかった[141]。文久2年(1862年)より再び前橋城への帰還を願い出て、文久3年(1863年)11月には川越城の明け渡しを条件に前橋城への移転を内諾された[注釈 8][142][145]。文久4年(1864年)から前橋城の建設(完全に破却されたため新設)が始められている[146]。
多少の藩政改革も行われていたようだが、その内容は兵制に関わるものが大半であった[147]。文久2、3年に上洛中の将軍徳川家茂にかわって江戸の留守居を担当するなど、幕政への参加が増えていった[148]。文久3年10月には、旧福井藩主松平慶永の穴埋めとして、新設された政治総裁職へ任じられた[149][140]。家茂の上洛に帯同したほか[150]、旧来川越藩が担っていた台場警備も免除となった[151][140]。しかし彼が取り組んだ横浜港の鎖港計画が反発にあい、翌年6月に政治総裁職を免じられた[152]。元治元年(1864年)には再びお台場の警備を命じられている[153][140]。
慶応2年(1866年)は寒冷が続き、麦や養蚕に必要な桑が不作であった[154]。川越藩では大工職人が氷川神社に集結して、物価の引き下げを要求し、藩はこれを受け入れている[155]。ほぼ同時期に武蔵国では武州の世直し一揆が広がりを見せており、川越藩内の商人も打ちこわしの対象とされており、藩兵の出動によって鎮圧化された[156][157]。この世直し一揆の鎮圧には農兵が活躍したため、川越藩でも農兵を取り立てようとする動きが出てくるが、農村はそれに反発の姿勢を見せ、実現は叶わなかった[158]。
前橋移動の内諾以前から川越藩士は順次前橋に移動を始めており、元治元年の終わりには前橋に藩庁機能が移っていた[146]。慶応3年(1867年)には前橋城が完成した[159]。
維新と廃藩
前橋松平家の前橋への移動が進む中、慶応2年(1866年)10月に川越城は陸奥国棚倉藩主松平康英に引き渡されることとなった[146]。松平康英は旗本時代から江戸幕府の役職をつとめたり、文久遣欧使節の副使として欧米に派遣されたりしていた[160]。棚倉藩主を引き継いでからは老中をつとめ、天狗党の乱の鎮圧の功あって2万石を加増されのちに白河藩への転封が沙汰されるも、川越が空城となったために急遽川越藩に8万442石で入った[161]。
慶応3年(1868年)に大政奉還され江戸幕府が霧消し、翌4年(1869年)には新政府と旧幕府の間で戊辰戦争が勃発した[162]。2月に康英は老中を辞して新政府に恭順を示すも認められず、近江国領2万石は没収の上で康英も西大路藩預かりとなった[162][163]。謝罪のために上洛するも謹慎を言い渡され、数度にわたる謹慎解除の嘆願の末に、5月に謹慎が解かれた[162]。一方で江戸へ進軍する新政府軍に対しては、藩士が何度も協力を申し入れ、3月になってようやく新政府軍からの支持を受けることとなった[163]。5月には川越城入りした福岡藩兵と飯能戦争にて寛永寺に立てこもっていた彰義隊の残党兵を追討している[164]。
近江国領2万石は9月に川越藩へと復帰するも[注釈 9]、近江国領の没収は大幅な収入減であったことから、財政難に陥っている[166][165]。さらに明治2年(1869年)には川越城下で火事が起こり、復興費用として3万両に及ぶ金の拝借を新政府に願い出ている[165]。
康英は松本藩主松平光庸の子・松平康載を養子に迎え入れると、明治2年(1869年)4月に康載への藩主相続が認められた[162]。藩主相続と同日には康英によって版籍奉還が願いだされ、6月には版籍奉還がなされて康載が知藩事へ任命された[167][168]。明治4年(1871年)7月、廃藩置県が断行されて川越藩は消滅し、その領地は川越県、ついで入間県、熊谷県、埼玉県となった[167][169]。
歴代藩主
酒井家
譜代、石高:1万石
| 代 | 氏名 | 肖像 | 在職期間[170] | 出自 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 酒井重忠 さかい しげただ |
天正18年 - 慶長6年3月3日 (1590年 - 1601年4月5日) |
厩橋藩(前橋藩)へ転封 |
酒井家
譜代、石高:2万石→2.7万石→3.7万石→8万石→10万石
| 代 | 氏名 | 肖像 | 在職期間[170] | 出自 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 酒井忠利 さかい ただとし |
慶長14年9月23日 - 寛永4年11月14日 (1609年10月20日 - 1627年12月21日) |
田中藩より | |
| 2 | 酒井忠勝 さかい ただかつ |
寛永4年11月 - 寛永11年閏7月6日 (1627年 - 1634年8月29日) |
先代の子 小浜藩へ転封 |
堀田家
譜代、石高:3.5万石
| 代 | 氏名 | 肖像 | 在職期間[170] | 出自 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 堀田正盛 ほった まさもり |
寛永12年3月1日 - 寛永15年3月8日 (1635年4月17日 - 1638年4月21日) |
2.5万石の城主格大名→ 松本藩へ転封 |
大河内松平家
譜代、石高:6万石→7.5万石→7.0万石
| 代 | 氏名 | 在職期間[170] | 出自 |
|---|---|---|---|
| 1 | 松平信綱 まつだいら のぶつな |
寛永16年1月5日 - 寛文2年3月16日 (1639年2月7日 - 1662年5月4日) |
忍藩より転封 |
| 2 | 松平輝綱 まつだいら てるつな |
寛文2年4月18日 - 寛文11年12月12日 (1662年6月4日 - 1672年1月11日) |
先代の子 |
| 3 | 松平信輝 まつだいら のぶてる |
寛文12年2月9日 - 元禄7年1月7日 (1672年3月8日 - 1694年1月31日) |
先代の子 古河藩へ転封 |
柳沢家
譜代、石高:7.2万石→9.2万石→11.2万石
| 代 | 氏名 | 肖像 | 在職期間[170] | 出自 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 柳沢吉保 やなぎさわ よしやす |
元禄7年1月7日 - 宝永1年12月21日 (1694年1月31日 - 1705年1月16日) |
甲府藩へ転封 |
秋元家
譜代、石高:5万石→6万石
| 代 | 氏名 | 肖像 | 在職期間[170] | 出自 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 秋元喬知 あきもと たかとも |
宝永1年12月25日 - 正徳4年8月14日 (1705年1月20日 - 1714年9月22日) |
||
| 2 | 秋元喬房 あきもと たかふさ |
正徳4年9月29日 - 元文3年9月5日 (1714年11月6日 - 1738年10月17日) |
先代の子 | |
| 3 | 秋元喬求 あきもと たかもと |
元文3年10月28日 - 寛保2年4月3日 (1738年12月9日 - 1742年5月7日) |
宇都宮藩主・戸田忠余の子 | |
| 4 | 秋元凉朝 あきもと すねとも |
寛保2年4月3日 - 明和4年閏9月15日 (1742年5月7日 - 1767年11月6日) |
旗本秋元貞朝の子 山形藩へ転封 |
前橋松平家
親藩、石高:15万石→17万石
| 代 | 氏名 | 肖像 | 在職期間[170] | 出自 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 松平朝矩 まつだいら とものり |
明和4年閏9月15日 - 明和5年6月10日 (1767年11月6日 - 1768年7月23日) |
前橋藩に移動 | |
| 2 | 松平直恒 まつだいら なおつね |
明和5年7月29日 - 文化7年1月18日 (1768年9月9日 - 1810年2月21日) |
先代の子 | |
| 3 | 松平直温 まつだいら なおはる |
文化7年3月14日 - 文化13年7月23日 (1810年4月17日 - 1816年8月16日) |
先代の子 | |
| 4 | 松平斉典 まつだいら なりつね |
文化13年8月27日 - 嘉永3年1月23日 (1816年9月18日 - 1850年3月6日) |
直恒の子 | |
| 5 | 松平典則 まつだいら つねのり |
嘉永3年3月7日 - 嘉永7年8月13日 (1850年4月18日 - 1854年10月4日) |
先代の子 | |
| 6 | 松平直侯 まつだいら なおよし |
嘉永7年8月13日 - 文久元年8月15日 (1854年10月4日 - 1861年9月19日) |
水戸藩主徳川斉昭の子 | |
| 7 | 松平直克 まつだいら なおかつ |
文久元年12月6日 - 慶応2年10月 (1862年1月5日 - 1866年) |
久留米藩主有馬頼徳の子 |
松井松平家
譜代、石高:8万石→6万石→8万石
| 代 | 氏名 | 肖像 | 在職期間[170] | 出自 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 松平康英 まつだいら やすひで |
慶応2年10月27日 - 明治2年4月10日 (1866年12月3日 - 1869年5月21日) |
棚倉藩より転封 | |
| 2 | 松平康載 まつだいら やすとし |
明治2年4月10日 - 明治4年7月14日 (1869年5月21日 - 1871年8月29日) |
松本藩主松平光庸の子 廃藩置県へ |
所領
石高と領地
川越藩の石高と所領変遷は以下の通り。
- 元禄10年(1697年)、武蔵国入間郡・新座郡・比企郡・高麗郡、和泉国泉郡・南郡のうち2万石を加増[63]。
- 元禄15年(1702年)、大和国山辺郡・葛上郡・葛下郡・平群郡・式下郡・広瀬郡・高市郡・添上郡のうち2万石を加増[63]。
- 宝永元年(1704年)、秋元家が武蔵国入間郡・比企郡・高麗郡・埼玉郡のうち5万石で入封[70]。
- 正徳元年(1711年)、武蔵国入間郡・高麗郡・榛沢郡・足立郡・埼玉郡、河内国丹南郡・丹北郡・八上郡のうち1万石を加増[72]。
- 明和4年(1767年)、川越藩が前橋藩領15万石に編入、前橋松平家は川越城への移動が決定[83]。
- 明和7年(1770年)、大規模な所領替え(石高は据え置き)により、下野国都賀郡・武蔵国榛沢郡・足立郡・埼玉郡・大里郡・那賀郡・賀美郡・児玉郡・幡羅郡・葛飾郡のうち42818石が編入[95]。
- 安永3年(1774年)、下野国都賀郡のうち9413石が上知、代知の有無は不明(石高は据え置き)[171]。
- 天明元年(1781年)、2村が上知[172]。
- 寛政5年(1793年)、4村が上知[173]。
- 文政4年(1821年)、武蔵国埼玉郡・葛飾郡のうち15491石が上知、相模国三浦郡・鎌倉郡のうち15104石が代知[174]。
- 天保2年(1831年)、武蔵国大里郡・比企郡のうち約1万石が上知、代知の有無は不明[175]。
- 天保13年(1842年)、武蔵国入間郡・高麗郡・比企郡・埼玉郡のうち2万石が加増され、17万石へ[176]。
- 嘉永7年(1854年)、武蔵国久良岐郡・相模国の領地が上知、代地として武蔵国および安房国の一部が与えられる[135]。
安政7年(1860年)の領地目録によれば、17万石に加増されたのちの川越藩(前橋松平家時代)の所領は以下の通りである[177]。
前橋松平家時代の所領分散
前橋松平家時代の川越藩の特徴として、所領分散が激しかったことが挙げられる[178]。
江戸藩邸
前橋松平家は川越藩転封以前より、溜池台に上屋敷を置いており、江戸時代を通じて移動はなかった[179]。
家臣団
主に、前橋松平家について記述する。前橋松平家では、定員5-6名、役高1000石の老中(家老、幕末には執政とも呼んだ)が最高職であり、政務全般を担当したほか、戦時には一軍を組織する役割を担った[180]。その下には、役高700石の城代1名、民政を月ごとで対応する年寄5名(400石)が続いた[180]。また、川越藩統治時代には、月ごとに年寄1人が江戸に、もう1人が前橋領に派遣された[180]。その後は、番頭、側用人(実際の任免の記録はなし)、文武奉行と続く[181]。
経済・産業・文化
藩校
前橋松平家配下の文政8年(1825年)に江戸で、同10年(1827年)に川越で講学所が設置された[182][105]。教授の一人であった保岡嶺南は、頼山陽の日本外史を校訂した川越版「日本外史」を刊行し、全国の藩校でも教材として利用された[183]。同12年(1829年)に学制の改革により機構の整備がなされ、藩士の子弟のうち8歳以上は通学が可能であった[105][182]。慶応2年(1866年)の前橋藩への転封に伴い、川越の講学所は前橋城下に移っており、明治元年には正式に「博喩堂」という名前になっている[105]。
代わって川越に入った松井松平家は、慶応3年(1867年)に長善館を設立している[105]。これは、棚倉藩の藩校・青藍塾を改変しており、浜田藩(棚倉藩の前の所領)時代の藩校・長善館を引き継いだ形をとっている[105]。当初は徒士以上の子弟を対象としていたが、明治2年(1869年)に文学寮の開設に伴い、卒族の子弟も対象となっている[184]。
川越いも
川越城の南方に広がる武蔵野台地では、薩摩芋が盛んに栽培されていた[185]。18世紀の末ごろより焼き芋が江戸で人気となり、川越いもが普及した[185]。これらのイモは、陸路もしくは新河岸川の舟運を利用して江戸まで輸送されていた[185]。
沿岸警備
寛政4年(1792年)にアダム・ラクスマンが根室に来航すると、海岸に領地を有する諸藩に警備を求め、相模国に所領を持っていた川越藩でも浦郷に兵を配置している[186]。
天保13年(1842年)には、アヘン戦争の情報が伝わり異国船打ち払い令を解除すると、相州を川越藩、房総を忍藩に警備させた[127][102]。警備範囲が広範に広がったため、三浦半島の大津に追加で陣屋を設けることとなった[102]。天保14年(1843年)には、散在していた領地2万2千石余りを相模国や川越城付近の土地と交換している[127]。
弘化年間に入るとアメリカやイギリス船がたびたび出没し、時には藩主斉典自ら指揮を執り数千規模の人員を動員することもあった[128]。弘化4年(1847年)には、相州警備に彦根藩、房総警備に会津藩が加わり4藩体制となって負担が軽減された[128]。嘉永2年(1849年)には、相州警備の功として、大広間席へ移動が決まった[注釈 10]。
嘉永6年(1853年)、浦賀にマシュー・ペリーが来航し、アメリカ大統領からの親書を渡される際には147名の川越藩士も臨席していた[187]。これを受けてお台場の築造が着手されると、その築造中に相州警備に代わって第一台場の警備を申し渡された[188][189][134]。
文久3年(1863年)10月には、藩主松平直克が政治総裁職に任じられたことで、一旦お台場警備を免除された[151][140]。しかし、翌年に同職を免じられると、元治元年(1864年)には再び第二台場と第五台場の警備を命じられている[190][140]。
脚注
注釈
- ↑ 松平斉典の時代にのみ、大廊下へ格上げがなされている[1]。
- ↑ とくに川越藩政初期においては、川越の地名を「河越」と表記することが少なくなかった[2]。本稿では、「川越」「川越藩」で表記を統一する。
- ↑ 「寛政重修諸家譜」の記述によれば、まずは相模国甘縄に封じられ、その後川越に封じられたという[6]。
- ↑ 松本藩への転封は、川越城下の大火の責任を負った左遷という説がある。以後も家光は正盛を寵愛しており、大幅な加増であることからも家光の寵が失せたわけではない。ただし、老中の実務からは外されている。[35]。
- ↑ 川越平の起源は、秋元家の家臣が谷村藩時代より内職として行っていたという説もある[73]。
- ↑ 寛保二年江戸洪水も参照。
- ↑ 秋元家時代の川越藩領の一部は、引き続き山形藩秋元家の飛び地となっている[83]。また川越領の編入に伴い、前橋藩領の一部が上知されたと推測されるが、上知された具体的な地名は明らかでない[84]。
- ↑ 川越への移転は利根川による浸食が原因であったが、天保年間には安井政章によって利根川の流れを変える大工事が行われ、被害が減少している[142]。参勤交代の緩和やそれによる財政的余裕、国元へ家臣を配備するための場所取り、藩体制などの強化が、このタイミングでの転城の理由とされている[143][144]。
- ↑ この近江国領内では川越藩への復帰に反対する強訴が起こったために、実際に引き渡されたのは12月になってからであった[165]。
- ↑ ただし、それ以前は御三家・加賀藩前田家が詰める大廊下席であったため、実際は格下げである。
出典
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- 大野瑞男、工藤航平、川上雅、高木俊輔 ほか 著、大石学 編『近世藩制・藩校大図鑑』吉川弘文館、2006年3月10日。ISBN 4-642-01431-4。
- 工藤寛正『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年8月20日。ISBN 978-4-490-10764-7。
- 大野瑞男『松平信綱』吉川弘文館〈人物叢書〉、2010年9月1日。ISBN 978-4-642-05258-0。
- 小松賢司『近世後期社会の構造と村請制』校倉書房、2014年4月30日。ISBN 978-4-7517-4530-4。
- 稲葉朝成『結城松平家と家臣団』2015年7月20日。
- 重田正夫『川越藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2015年10月31日。ISBN 978-4-7684-7138-8。
- 篠崎佑太『近世後期の大名家格と儀礼の政治史』思文閣出版、2024年2月20日。ISBN 978-4-7842-2073-1。
関連項目
| 先代 (武蔵国) |
行政区の変遷 1590年 - 1871年 (川越藩→川越県) |
次代 入間県 |