張就

ウィキペディアから、無料の百科事典

張 就(ちょう しゅう、生没年不詳)は、中国三国時代の魏に仕えた人物で、字は不詳。涼州敦煌郡淵泉の人。曹叡の時代、西域戊已校尉となった張恭の子。

経歴

父は、元々敦煌郡の功曹史で、当時の敦煌郡では、220年に西平郡で反乱を起こした麹演に敦煌郡付近の酒泉郡の黄華、張掖郡の張進という人物などが呼応し、その他の異民族をも呼応[1]していて、割拠していた。また、それらは各々将軍を自称し、争っていた[2]。 敦煌郡の太守である馬艾が亡くなり、父は敦煌郡の太守の事務を代行した後、張就を朝廷の実権を握る曹操または曹丕[3]の下に派遣し、太守の派遣を要請した。張就は帰還時、酒泉郡で黄華に抑留され、黄華は敦煌の軍勢を得るために白刃で従うよう脅迫したが、張就は屈服することはなく、密かに父と連絡を取っていた。そして父は、従弟に軍を率いさせ、黄華の領地の沙頭、乾斉を攻撃させ、自身も兵を率いて黄華、張進の目を欺いた。さらに、精鋭の騎兵(鉄騎)二百騎を送り酒泉の北を通って正式な太守である尹奉を迎えることに成功した。その頃、張液では武威郡の太守である毌丘興(毌丘倹の父)の救援要請を受けた金城郡太守の蘇則が郝昭・毌丘興と協力して武威や張液に侵攻したため、黄華は張液にいる張進に援軍を送ろうとしたが、尹奉らが到着したということなどが重なり、援軍を出せず、黄華は張液が陥落したことを受け、恐れて蘇則に降伏する[4]と、張就は無事敦煌に帰還する事が出来た[5]。その後、張就は223年頃、蘇則に変わって新たに金城太守となり、名声を高めたという。後の太和(曹叡期)の時代、父が亡くなった。青龍四年、涼州の胡阿畢師という人物が反乱を起こしたが、張就に鎮圧され、一万人が斬首または捕虜となった。だが、胡阿畢師は同年に万里の長城の南に攻め寄せた。しかし、鎮圧されてしまい、数万人が捕虜、斬首となった[6]。張就の死後、子の張斅が後を継ぎ、西晋の時代、広漢太守・匈奴中郎将となった。

一族

張就以前

  • 張恭 父。
  • 張華 父の従弟。西晋の張華とは別人。

子孫

  • 張斅(生没年不詳、字は祖文、ちょうがく)、前述。
    • 張固(生没年不詳、字は元安)、西晋の黄門郎となったが、早くに亡くなった。

北涼に仕えた張湛という人物は張恭の九世孫で[7]、張就の子孫の可能性がある。

出典または脚注

  1. ↑ 『三国志』魏書巻一文帝紀
  2. ↑ 『三国志』張既伝
  3. ↑ 張恭伝によると曹操に張就を派遣しているが、文帝紀ではもう曹操は死んでいる事になっている
  4. ↑ 『三国志』閻温伝
  5. ↑ 221年頃
  6. ↑ 宋書
  7. ↑ 北涼の史料及び記録による

参考資料

  • 『三国志』魏書十八閻温伝附張就伝または張恭伝