| 馬超 | |
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| 蜀漢 驃騎将軍・涼州牧・斄郷侯 | |
| 出生 |
熹平5年(176年) 右扶風茂陵県(隴西郡[1]) |
| 死去 | 章武2年(222年) |
| 拼音 | Mǎ Chāo |
| 字 | 孟起 |
| 諡号 | 威侯 |
| 主君 | 馬騰 → 独立勢力 → 張魯 → 劉備 |
| 氏族 | 扶風馬氏 |
馬 超(ば ちょう、熹平5年〈176年〉 - 章武2年〈222年〉)は、中国後漢末期から三国時代にかけての将軍。字は孟起(もうき)。諡は威侯。司隷右扶風茂陵県の人。
関中・隴右[注釈 1]に割拠する群雄として曹操の西征に反発し[5]、韓遂ら諸軍閥と共に造反したが、敗北した[6]。後に涼州において捲土重来を果たすも[7]、現地の士大夫らに離反され、拠点を失った[8]。流浪の末に身を寄せた劉備の下で厚遇された[9]。
羌族の血を引き、非漢族と深い関係があった[10]。後漢末期において、「羌胡化」を経て台頭した涼州軍閥の一人とも見なされている(→「背景」を参照)。
熹平5年(176年)に生まれる[11]。後漢の名将馬援の後裔[12][13]。関中豪族である扶風馬氏[14]の右扶風茂陵県という本貫は、父の馬騰、祖父の馬平にも共通する[15][16]。しかし馬平は桓帝の時代に天水郡蘭干県で県尉を務め、失官後は隴西郡に留まって羌族と雑居し、貧窮の中、現地で娶った羌族の女性との間に馬騰をもうけた[13][17][18]。当地における豪族的基盤を持たず[19]、鄣山で樵として生計を立てていた馬騰は[20]、中平元年(184年)、先零羌(羌族の一種族)、宋建・王国、湟中義従胡(漢に帰順した異民族)の北宮伯玉・李文侯および漢族の辺章・韓遂による大反乱に際して[21]、州郡の討伐兵募集に応じた[13][22]。ところが中平4年(187年)には、当時の涼州刺史である耿鄙の下で司馬を務めていながら、韓遂による耿鄙殺害に乗じて反乱し、三輔寇掠に加担した[23][24]。このように、馬騰の生育地が隴西だったことから、その子である馬超を実質的に涼州人とする見方がある[1][注釈 2]。
初平元年(190年)、献帝を擁立し朝廷で専横を振るっていた董卓は、長安に遷都すると、関東諸将による反董卓連合軍に対抗する戦力として馬騰・韓遂を招いた[20]。両者はそれに従ったが、初平3年(192年)に董卓が暗殺されたため、その部将である李傕に投降し[27]、馬騰は征西将軍となって郿県に駐屯し[28][29][注釈 3]、後に征東将軍に任命された[33]。興平元年(194年)、李傕との関係が悪化した馬騰は長安襲撃を図ったものの[34]、企図が露見し、争いに敗れて涼州に帰還した[35][36][37]。このとき三輔が混乱していたため、東進はなされなかった[13][38][注釈 4]。
馬騰は義兄弟として韓遂と友好関係にあったが、建安初頭には衝突するようになり[42][注釈 5]、同時に隴右から関中へと進出した[45]。魚豢『魏略』によれば、馬超は当時から勇健で知られていた。韓遂麾下の閻行が馬超を矛で刺そうとした際、矛が折れたが、その折れた矛で首筋を殴られた馬超は、あやうく命を落としかけたという[46][47]。その後、曹操と袁紹の対立が激化する中、関中鎮定の任務を帯びた司隷校尉の鍾繇が、涼州牧の韋端[注釈 6]と共に仲裁役となって説得したため、馬騰と韓遂は和解したものの[13][51]、確執は残っていた[52]。この際、馬騰・韓遂それぞれの子が人質として入朝し[53][54]、また馬騰は槐里に進駐した[13][55][注釈 7]。
建安5年(200年)の官渡の戦いが終結した後の建安7年(202年)、袁紹の末子である袁尚が派遣した高幹・郭援は、平陽で反乱していた南匈奴の単于である呼廚泉と合流し、数万の軍勢をもって河東に侵攻した[57][58]。当時、曹操は袁紹の残党勢力と交戦しており、傍観する関中の諸勢力を味方に引き入れようとしていた[59]。馬騰は密かに郭援らと手を結んでいたが、説得されて転向すると、馬超を1万余りの兵と共に鍾繇の下へ派遣した[57][58][60]。馬騰の下で実働部隊を率いる立場にあった馬超は[61]、司隷校尉である鍾繇の督軍従事に任命され、平陽において龐徳らと共に郭援らと戦った[13][29]。馬超は戦場で足に矢を受けたが、矢傷を袋に包んでなおも戦い続け[62]、敵軍を大破した[13][54][57][63][注釈 8]。その功績から、詔勅により徐州刺史を、後に諫議大夫を拝命した[13][66][注釈 9]。
建安13年(208年)、丞相となった曹操はまず馬超を辟召したが[67]、馬超は応じなかった[13][68][注釈 10]。辟召という制度には、独特の私的主従関係を構築する働きがあった[70]。曹操は社会的・軍事的資本のない状況の中、ほぼ自力で台頭したことも影響して、己の勢力基盤を拡大強化すべく、拘束性の強い辟召を大いに活用したという[71]。またここでは、馬超を人質とする意図も含まれていた[68]。当時、荊州への南下を遂行するに及び、曹操は北方に割拠する馬騰勢力を抑えることで、後顧の憂いを断つ必要があった[72]。馬騰は反乱鎮圧の援助により曹操に与する姿勢を見せていたが[73]、曹操は馬騰に対する懸念をなおも拭えず、部曲を解散しての入朝を求めた[74]。馬騰は張既の説得を経て承諾したものの、実行せずにいた。変心を恐れた張既の手配によって、馬騰はやむを得ず入朝に踏み切り、同年12月[75][76]、衛尉となった[57][77]。馬超は偏将軍に任じられるとともに都亭侯に封じられ、馬騰に代わり軍勢を統率した[29][78]。偏将軍への任命は、馬超が曹操軍の属将としてその傘下に置かれたことを示すという[50][79]。弟の馬休・馬鉄にも官職が与えられ、馬騰の一族郎党が鄴に移住した。これにより、馬超の宗族は事実上曹操の質任となった[80][注釈 11]。父から継いだ部曲とともに、馬超は領地に留まった[13][83]。関隴地区の中心勢力は二極化し、韓遂・馬超がその主となった[84]。
建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇・夏侯淵に対し、漢中の張魯討伐を命じた[85]。3000の兵で関中に入ることを求めた鍾繇は、表向きは張魯討伐を掲げながら、実際には馬超らを脅迫して人質をととろうと画策した[86][87]。この時点で、馬超ら西方諸将は鍾繇を洛陽まで押し戻し、無秩序な独立体制を再建していたという[88]。高柔は「みだりに兵を動かせば、西方の韓遂・馬超は自分たちが目標であると考え、共に扇動して反逆するでしょう。先に三輔を安定させた後で漢中に檄し、平定すべきです」と、曹操の行動を諫めた[89][90]。曹操が荀彧を介して衛覬に意見を聞くと、衛覬は「兵を関中に入れて張魯を討とうとなると、張魯は山深くにいて交通の便が悪いため、西方の諸将は必ず疑うでしょう。一旦騒動が起きれば、西方の地は険しく兵は強いため、当然困難が生じます」と答え、出兵に反対した[91]。事実、関隴に敷かれた統制は万全とは言えなかった[92]。曹操はそれでもなお、鍾繇の主動する強硬な方針を採った[87][93]。これは仮道滅虢の計とも解釈し得る[94][注釈 12]。馬超・韓遂はいずれも朝廷から官職を授かった身分であり、謀反の嫌疑も存在しないからには、曹操は彼らを征伐する大義名分を立てられないが、馬超らが先んじて反乱すれば、関隴攻撃を正当化できるためである[97]。
関西諸将は曹操の動向に疑念を抱いた[98]。韓遂は建安15年(210年)より、張猛の反乱を鎮圧するため遠征していたが[99][100]、曹操政権は韓遂を利用する傍ら、馬超にも働きかけることで、両者を互いに反目させようと工作していたようである[101]。『魏略』においては、馬超は遠征から戻った韓遂を都督に立て、「以前、鍾司隷(鍾繇)は私に将軍(韓遂)を殺すよう命じました。関東の人間はもはや信用できません。私は父を棄て、将軍を父とします。将軍も子を棄て、私を子とされよ」と語ったとされる[102]。かつて父を入朝させ、韓遂にも勧降していた閻行は[103]、反乱に参加しないよう韓遂を諫めたものの、韓遂は「諸将は諮らずとも意を同じくしている。これは天命であろう」と答え、謀反に同調したという[47]。
馬超・韓遂・楊秋・李堪・成宜らに加え、侯選・程銀・張横・梁興・馬玩らあわせて10の軍閥が挙兵すると[13][72]、杜畿が太守を務める河東を除き[104]、弘農・左馮翊の郡県が相次いで呼応した[105][106]。さらに百頃氐王の千万[注釈 13]と興国氐王の阿貴が、馬超に従い反乱を起こした[109][110]。藍田の劉雄鳴は反乱に従わなかったために馬超によって撃破され、曹操の下へ逃亡した[111][112]。また馬超は京兆の学者である賈洪を脅し、露布(布告文・檄文[113])を起草させた[114][115]。馬超の乱に応じて、数万家に及ぶ関西の住民が子午谷を経て漢中に逃れた[116][117]。三輔の人口は初平3年(192年)の李傕・郭汜の乱で一度激減し[118]、次第に回復しつつあったが、この大乱により再び大幅に流出した[119]。馬超らは10万の軍勢をもって、黄河南岸、潼関の西側に布陣した[72]。曹操は曹仁を潼関へ派遣して防戦させた[120]。そして諸将に対し「関西の兵は精悍であるから、防御を固めた上で、打って出てはいけない」と注意した[121]。
馬超たちの兵は長矛の使用に習熟しており、諸将から脅威と見なされていた[122][123]。馬超の率いる軽装騎兵・長矛部隊で構成された軍隊は、当時最も強勢だった羌族との戦闘で大戦果を挙げた段熲および「涼州兵」の系譜を継いでおり、馬超はその機動力を生かした戦法を取っていたという[124][125]。
8月、曹操は潼関に到着した。馬超らの軍は、黄河南岸に布陣した曹操軍と潼関を挟んで対峙した[127]。夜間、徐晃・朱霊は黄河を北に渡り、蒲阪に陣営を構築した[128][129]。閏8月、続いて渡河を試みた曹操は、先に兵を赴かせ、自身は許褚が指揮を執る虎士(親衛隊)100人余りと共に殿軍となった[130]。馬超は歩騎1万余りを率いてそこを急襲し、猛然と矢をそそいだ[131]。これはおそらく、呂布との対戦以来、曹操自らが参加した戦闘において最も危険な状況だった[132]。周囲から孤立し死の危機に瀕していた曹操は[133]、許褚により救出されたが、その最中に船の漕ぎ手が射殺されてしまった[134][135]。しかし許褚が身を挺して曹操を守り、また丁斐が牛馬を解き放って馬超らの軍を混乱させたため、曹操は渡河に成功した[136][137]。諸将は行方知れずになった曹操の安否を案じていた。彼らと再会した曹操は大笑いして「今日はあやうく小賊にしてやられるところだった」と語ったという[138][139]。
曹操軍が蒲阪から西へ渡河しようとした際、馬超は「渭北(渭水北岸)にて敵軍を渡らせずにおくべきです。20日と経たずに河東の兵糧は尽き、敵は必ずや撤退することでしょう」と主張したが、韓遂の賛同を得ることができなかった。この話を聞いた曹操は馬超の存在をいっそう警戒し、「馬(ば)の小僧が死ななければ、私には葬られる土地も無い」と語ったという[140][141]。その後の妨害も効果は思わしくなく、ついに敵の南進を許した関西諸将は、渭南駐屯時に黄河以西の土地の割譲および講和を求めたが、拒絶された[142]。
9月、曹操は渭南に到達した。馬超らは何度も戦いを挑んだが、曹操はそれに答えなかった[143]。やがて曹操は賈詡の進言に従い、関西連合軍からの要請および人質の提供の要求に偽って応じ、会談の場を設けて離間の策を用いた[137][144][145]。単騎での会談に臨んだ際、馬超は己の多力を恃みに曹操を襲撃しようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった[146][注釈 14]。曹操は両軍間の交流を利用して、韓遂が内通しているように見せかけたため、馬超らは韓遂を疑った[142]。統帥の乱れた連合軍はその後の会戦で包囲殲滅され、大敗を喫した[149]。
馬超は涼州へと逃れ[13][150]、諸戎(西方の漢族でない諸民族、西戎)を頼りにした[29][151]。曹操は安定まで追撃したものの[142][注釈 15]、蘇伯・田銀が河間で反乱を起こし、幽州・冀州を扇動していたため[153][154]、引き揚げようとした[29][49]。涼州参軍の楊阜は馬超の武勇と異民族への影響力について警戒を促し、「厳重に備えておかねば、隴上[注釈 16]の諸郡は国家のものでなくなります」と進言したが[29]、曹操は帰途についた[49][157]。潼関の戦いにおいて曹操軍は勝利を収めた一方、その被害は甚大で、死者数は万をもって数えるに及んだ[87][158][注釈 17]。

建安17年(212年)[161][注釈 18]1月、馬超が諸戎の渠帥(少数民族の首領[164])たちを率いて隴上で蜂起すると[165]、漢陽(天水)の郡治である冀県[166][167]を除く全ての郡県が馬超に呼応した[153]。上邽県では任養ら[注釈 19]が馬超を迎え入れたため[170]、涼州別駕の閻温は、涼州刺史の韋康が治める冀城に走った[171][172]。冀城は馬超軍の包囲下に置かれ[173]、張魯が援軍として派遣した楊昂もまた攻城に加わった[49][174]。
5月、馬騰は馬超の反乱に連座して誅殺され、三族皆殺しとなった[175][176][注釈 20]。
閻温は包囲網を掻い潜って夏侯淵に援軍を要請したものの[180]、その足取りを追われて身柄を拘束された[181]。『三国志』は、これにまつわる以下のような逸話を載せている。引き出された閻温に対し、馬超はその縛めを解いて「今や勝敗は歴然としている。足下(あなた)は孤城のために援軍を求めながら、かえって囚われの身となった。いかに義を成すというのか? もし私の言に従うならば、城に戻り、東から救援は来ないと伝えるように。これぞ禍いを転じて福と為すというもの。さもなくば、ただちに殺す」と言った。偽って要求を受け入れた閻温は、車に乗せられて帰城すると「大軍が3日のうちに来る。頑張れ!」と叫んだ。馬超は怒って「足下は命のことを考えないのか」と詰り、また懐柔を目論んで「城内の旧知で、私と意を同じくする者はいるか」と問うたが、閻温は何も答えず、それを咎めた馬超に対し「主君に仕えるということに、死はあれど二心はない。卿(あなた)は長者(年長者[181])の口から不義の言を出そうとしている」と言い、馬超に殺されたという[172][181][注釈 21]。
馬超による閻温殺害を境に、韋康と漢陽太守の意思は降伏に傾いた[183]。8月、ついに韋康が講和を求めて開城すると、馬超は韋康と太守を殺害した[184][163][注釈 22]。そして冀城を占拠して兵衆を併合し、征西将軍・領并州牧・督涼州軍事を自称した[29][186]。その後、冀城から200里ほど離れた地点において、遅れて救援にやってきた夏侯淵[注釈 23]を迎撃して優位に立ち[6]、そこに汧県の氐族[注釈 24]の呼応も重なったことで、夏侯淵軍を敗走させた[187][193]。さらに千万も呼応し、興国で反乱を起こしていた[137][194][注釈 25]。馬超の威勢はこの時期に隆盛を極めた[196]。
楊阜は、妻の葬儀を口実にして、外兄(妻の兄弟[155])の姜叙が駐屯していた歴城(漢陽郡西県[197])を訪れると、撫夷将軍であり軍権を擁する姜叙の無反応ぶりを趙盾に比して責め、反乱を仄めかした[198]。韋康が殺されたことを、楊阜は一州の士大夫の恥であると考えていた[199]。その悲憤を見た姜叙の母もまた、楊阜の計画に加わるよう息子をけしかけた[49][200][201]。こうして、涼州の士大夫層(有力者層)は結集して内応を図った[199]。韋康の旧臣の一人である趙昂もこの報復に加わったが、皇甫謐『列女伝』によれば、息子の趙月が馬超の人質であることを案じると、妻の王異は「忠義こそが立身の大本です。君父の恥を雪ぐにあたっては、命を差し出すのも瑣末なこと。ましてや子ども1人のことなど気にかけるものではありません」と叱咤したという[201][202][注釈 26]。
建安18年(213年)9月[注釈 27]、楊阜・姜叙が鹵城[208]において反旗を翻した[188]。楊阜らと結んでいた趙衢・梁寛は、馬超を鎮圧に向かわせた後、冀城の門を閉ざし、馬超の妻子をことごとく殺して晒し首にした[209][注釈 28]。馬超は鹵城から撤退する最中に歴城を攻略した[211]。そこで捕らえた姜叙の母に「お前は父に背いた逆子(ぎゃくし。不孝者[212])、主君(韋康[211][213])を殺した桀賊(凶暴な賊[214])であり、天地がどうしてお前を久しく容れられよう。だのに早く死なずにいて、人に顔向けできるというのか!」と罵倒されて激怒し、姜叙の母とその子を斬った[215][注釈 29]。退路を断たれた馬超はついに涼州を離れ、漢中にいる張魯の下へ落ち延びた[49][216]。馬超と楊阜との戦いでは、楊阜の兄弟7人が戦死し、楊阜自身も傷を負った[49][217]。
張魯は馬超を重用して都講祭酒[注釈 30]とし、さらには自分の娘を嫁がせようとしたが、ある臣下に「自らの親を愛せない者が、どうして他人を愛せましょうか」と諫められ、とりやめた[220]。また漢中には、潼関の戦いにおける馬超の敗北を機に、馬超の妾の弟である董种が三輔から移住していた。元日に董种が馬超を訪ねてお祝いを述べると、馬超は胸を叩いて吐血し、「一門がみな、一旦にして命を落としたのに、今われわれ二人で祝おうというのか」と嘆いた[13][221]。
馬超は張魯に対して何度も派兵を要請し、失地回復を試みた[222]。建安19年(214年)、趙昂らの立て籠もる祁山を馬超が包囲した際、姜叙らより救援依頼を受けた夏侯淵は、現在地から曹操のいる鄴までの距離は往復して4000里(約2000km[223])であるから、曹操からの指令を待っていれば彼らは負けるだろうと判断し、陳倉狭道を経て進軍した[224]。包囲から30日後に援軍が到着し、馬超は羌氐数千人と共に、その先行部隊を率いる張郃を渭水にて迎え撃ったものの、交戦しないまま撤退した[187][225]。人質の趙月はこの時に殺された[201][226]。
馬超は張魯に不足を覚え、また張魯配下の楊白らによる妬みゆえの排斥もあって[227][注釈 31]、内心鬱々としていた[235]。そして建安19年(214年)、武都から氐族の居住地へと出奔した[13][236]。馬超は血縁と地縁による生得的保護を利用していたという[237]。時に劉備が成都を包囲していると知った馬超は、密書を送って降伏を申し入れた[29][238]。
馬超が漢中にいた頃、劉備は李恢を派遣して馬超と誼みを結ばせていたが[239]、馬超の来降を聞くと「益州を手に入れたぞ」と喜び[240]、人を遣わして馬超を迎えとらせ、密かに兵を補充した[13][241]。劉備の入蜀は、劉璋軍のしぶとい抵抗によって難航しており、雒城攻略時には龐統が戦死していた[242]。また成都城内には精兵3万と1年分の穀帛があり、包囲下にあってなお士気は高く、抗戦の構えを見せていた[243][244]。しかし馬超の軍兵が成都城の北に駐屯するや、恐れをなした劉璋は馬超到来から10日足らずで降伏し、夏頃、蜀は劉備の手に帰した[13][245]。益州獲得に大きく寄与したことから[6]、劉備は馬超を平西将軍とし、臨沮を治めさせ、改めて都亭侯に封じた[29][246]。この任地は武都郡沮県近辺の沮水流域を指すという[247][注釈 32]。馬超は劉備の爪牙(武の重鎮、主君を補佐する人物[250][251])として、関羽・張飛と共に名が挙げられた[252][253]。
平西将軍という官職は、関羽が当時就いていた蕩寇将軍よりも高位だった[254]。馬超の帰順を知った関羽は、馬超の才能が誰に比肩するかを諸葛亮に書簡で尋ねたが、関羽の勝ち気な性格[255]を知っていた諸葛亮の「益徳(張飛)と並んで先を争うでしょうが、髯[注釈 33]には及びません」という返事を見て大いに喜び、来客に見せびらかした[256][257]。
馬超が涼州から離れたことで、夏侯淵がこれ以上由々しい抵抗勢力と対峙することはなくなった[258]。そして同年10月、枹罕において独自政権を打ち立てていた宋建が滅ぼされ[259][260][注釈 34]、その翌年の建安20年(215年)5月、夏侯淵に大敗し西平に退いていた韓遂の首級が、現地の諸将から漢中攻略中の曹操の下へ送り届けられた[137][262][263]。これにより隴右は平定された[264]。しかし隴右に対する支配体制は実際のところ整わず、漢族・非漢族による反乱が相次ぐ不安定な情勢が曹魏初期まで続いた[265]。
建安21年(216年)に発された、呉将に帰順を迫る陳琳「檄呉将校部曲文」では[266]、曹操の軍事力を誇示するにあたり、これらの抵抗勢力を撃滅したことが雄弁に述べられている[267]。
近頃では関中諸将が、互いに合衆して、頻りに叛乱し、二華(太華山・少華山[268])を阻んで、黄河・渭水に拠り、羌胡を駆率し、矛を揃えて東に向けたが、その気は高く志は遠大、あたかも無敵かのようだった。丞相(曹操)は鉞を携えて武威を逞しくし、順風に烈火を放つがごとく、元戎を前駆して[269]、戦鼓も鳴らぬ間に彼らは破れた。倒れ伏した屍は千万にのぼり、流れた血が大盾も漂わせたことは、天下の誰もが知るところである。その後、大軍が長江に臨みながら渡らずにいたのは、韓約(韓遂)・馬超が逃れ出て、涼州へと逃げ帰り、また鳴吠(動乱、叛乱[268][270])せんとしたからだ。逆賊宋建は河首〔平漢王〕を僭号して、〔韓遂・馬超と〕同悪相救い、並んで唇歯となった。〔中略〕みな我が王の誅伐を先駆けて加えるにあたうものだった。〔中略〕偏将(夏侯淵[268])が隴を攻めれば、宋建・韓約は梟夷(誅滅[271])され、その首は万里に晒された。〔中略〕宋建・韓約の眷属はみな鯨鯢となり〔誅殺され〕[272][273]、馬超の妻子は金城にて首を焼かれ、父母嬰孩の死体は許に倒れた。これは国家が彼方には禍を集め、此方〔張魯・朴胡・杜濩などの帰順者〕には〔封戸・封侯により〕福を下したというのではない。逆順(正否[274])の理においては、そうならざるを得ないのだ[275][276][277]。
建安22年(217年)冬、馬超は漢中争奪戦において張飛・呉蘭・雷銅と作戦を共にし、武都に侵攻して東部戦線の主力である劉備軍を援護した[247][278]。建安20年(215年)11月に張魯が曹操に投降したため[注釈 35]、漢中はすでに曹操の勢力下にあった[280]。呉蘭・雷銅は陰平から北上して下弁へと進出した[247][281][注釈 36]。馬超は張飛と共に沮道[注釈 37]を経て進軍したが[247]、このとき、氐族の雷定ら7部族1万落余りが呼応した[49][287]。これに応じて、曹操は曹洪・曹休・曹真を派遣した[288][289][注釈 38]。固山[注釈 39]に駐屯して曹洪らの退路を断とうとする張飛の動きに対し[247][281]、それを陽動と判断した曹休は、下弁にいる呉蘭を攻撃して撃破した[293]。建安23年(218年)3月、陰平氐の強端が蜀に引き返す呉蘭を殺し、馬超は張飛ともども漢中に退却した[137][294][注釈 40]。建安24年(219年)1月、夏侯淵の敗死に伴って劉備が漢中を獲得すると、その北進に従って武都氐が関中を圧迫するのを恐れた曹操は、張既・楊阜に命じ、武都氐を京兆・扶風・天水へ移住させた[49][57][297]。馬超や劉備などの反曹操勢力と結ぶ可能性を断つ目的から、氐族はかくして離郷を余儀なくされた[298]。
建安24年(219年)7月、劉備が漢中王を称し、馬超は左将軍・仮節となった[29][299][注釈 41]。馬超は賓客のような立場にあった[301]。劉備を漢中王に推戴する上表文において、馬超は群臣たちの筆頭に挙がった[253][302]。劉備は建安3年(198年)に左将軍を拝命して以来、敬称として左将軍と呼ばれることが多かった[303]。漢中王を称するにあたって劉備は左将軍を辞したが[304]、その後任としての馬超の抜擢は、劉備が馬超を礼遇したものだといえる[305]。
建安25年(220年)1月、曹操が死去し[137][306]、黄初元年(同年)10月、子の曹丕が献帝から禅譲を受けて即位した[307][308]。
章武元年(221年)4月、劉備が帝位を称した[253]。馬超は驃騎将軍・領涼州牧となり、斄郷侯に封じられた[6][29][注釈 42]。また常璩『華陽国志』によれば、北方において臨沮(武都郡沮県[318])の監督を担った[318][319]。馬超には以下のような策命が与えられた。
朕(劉備)は不徳を以て至尊(天子[320])を継ぎ、宗廟を奉承した。曹操父子は代々その罪を重ねており、朕は惨怛として、憂慮すること疾首(頭痛[321])のごとくである。海内(天下[321])は怨み憤り、〔漢の〕正統に帰り本(もと)に反(かえ)らんとして、氐羌は順服し、獯粥も義を慕うに至っている。君の信義は北方の地において著しく、その威武もまた明らかなるからこそ、〔驃騎将軍の〕任務を委ねて君に授けるのである。虓虎(吼え猛る虎[321][322])のごとき勇を顕して[注釈 43]、万里を統べ、民の苦難を尋ね求めるのだ[注釈 44]。国朝の教化を宣示し、遠近を安撫して保全し、粛然と慎んで賞罰を行い、かくて漢の祐福を篤くして、天下に対(こた)えよ[29][331]。
西方の異民族との連携は、諸葛亮の説いた隆中対における要点の一つである[332]。馬超は蜀漢において、北方(涼州)での働きと西方の異民族に対する影響力に嘱されていた[333]。その所期は策命からもうかがうことができる[334]。また非保有の土地を封じる遥領という制度によって、封与者は被封与者の地位を高めるだけでなく、自身の統治が及ぶ範囲を表せたが、蜀漢政権の場合はそれに加えて、自らの正統性を示すことができた[335]。蜀漢における涼州刺史(牧)は、遥領ではあれど依然として重役だったと見なせようが[336]、さらに、益州以外の地域で州牧を務めたのが蜀漢では馬超のみだったことは、彼に対する厚遇の一例とも捉えられる[337]。
章武2年(222年)、馬超は47歳[注釈 45]で没した[6][29]。死の間際、馬超は劉備に上疏した。
子の馬承が後を嗣いだ[29][339]。馬岱は平北将軍まで昇進し、陳倉侯に封じられた。馬超の娘は、後に劉備の息子である安平王劉理に嫁いだ[29][340][注釈 46]。これらの措置も馬超への優遇を示すという[237]。
益州の名士である彭羕は、傲慢で軽率な性格だった[345]。はじめは劉備に重用されていたが、その野心を警戒した諸葛亮の進言により、江陽太守へと左遷されることになった[346]。内心不愉快に思った彭羕は、左遷される前に馬超を訪ねた。馬超が「卿の才能はずばぬけており、主公(劉備)もたいへん重用なさっていて、孔明(諸葛亮)や孝直(法正)にも引けを取らぬと思っていたのですが、地方の小郡に任じられるとなっては、本望から外れるのではないでしょうか」と問うと、彭羕は劉備を「老革(老いぼれ)」と呼んで罵り[345]、「卿が外に〔軍を〕執り、私が内に〔謀を〕執れば、天下は定まろうものです」と馬超に言った[347]。流離の身で帰順し、常に危懼の念を抱いていた馬超はこの言葉に驚愕し、黙して答えなかった[348]。彭羕の帰宅後、馬超がその発言を具述して報告した結果、彭羕は投獄された[349]。罪状は謀反扇動と政権転覆である[345]。諸葛亮は名士に対し同情的で、手厚くもてなしていたが、その言動が政権に悪影響を及ぼす場合は厳しく対処した[350]。彭羕は獄中から諸葛亮へ弁明の手紙を送り、「老革」は酒席での失言であると弁解して[345]、「内だの外だのと言ったのは、孟起(馬超)に北方で功を立ててもらい、主公のために尽力して、共に曹操を討とうというだけの話であり、他意はありません[345][注釈 48]。孟起の告げたことは事実ですが、彼は言葉の真意を汲み取れておらず、心を痛めるばかりです」と述べたが、最後には処刑された[346][352]。
『山陽公載記』によれば、馬超は、劉備からの待遇が厚いのをいいことに、常々劉備を字で呼んでいたため、怒った関羽が馬超の殺害を申し出た[注釈 49]。劉備が「彼は切羽詰まって私のもとに来たのに、字で呼んだからといって殺したら、天下に示しがつかないだろう」と取り成すと、張飛が言うには「ならば、礼儀というものを見せてやろう」。翌日の宴会で、関羽と張飛が彼らの席におらず、刀を携えて劉備の側に起立しているのを見た馬超は驚き、字呼びをやめた。その翌日、「私は今、敗北の所以を悟った。主人の字を呼んだがために、あやうく関羽と張飛に殺されるところであった」と嘆じ、それ以降は劉備に敬意を表して仕えるようになったという[141][353]。
しかし『三国志』の注釈者である裴松之は、この逸話について論難している。
以上の4つの観点から、裴松之は逸話の信憑性を強く疑問視している[141][354]。この馬超の逸話は、現代においても史料的価値には疑いの余地があるとされる一方[355]、人物描写をはじめとするその文学性を評価されている[356]。
涼州と呼ばれる地域は本来、古来より続く羌族の居住地であり[357]、紀元前3世紀に匈奴が河西回廊に侵入して以来およそ80年間、匈奴の支配下にあった[358]。中国の版図に入ったのは前漢の武帝の時代、元狩2年(紀元前121年)においてである[359]。この併合は、匈奴を河西および羌族から切り離すのを目的とした対匈奴戦争の副次的事業であり[360]、軍事拠点の建設および統治制度の維持がその支配方針となった[361]。元狩4年(紀元前119年)の徙民によって涼州における漢族の割合は増加し[362]、また元鼎6年(紀元前111年)に漢族が大規模に移住したことで、漢・羌両族間の交流は必然的に生じた[363]。
羌族の風習では、寡婦となった継母や兄嫁を娶り、君臣関係を築かずに強者を立てる[364][365]。さらに、父母が死んでも泣くのを恥とするといわれた[366][367]。匈奴侵入の際、羌族は文化的親和性から漢族よりも匈奴に近づいたというが[368]、匈奴は孝心に乏しいとされていた[369]。また河西回廊に残留した月氏は匈奴や羌族と同化し[370][371]、加えて他の北方遊牧民社会も羌族と似通った風習を持っていたようである[372]。以上に挙げた羌族をはじめとする非漢族の風習は、主要な人間関係とされる五倫や、父母の死に対する三年の喪、哭礼といった服喪儀礼などを是とする中原の儒教倫理にはそぐわない[369]。地域・気質・文化などに見出されたこれらの差異は、華夏が夷狄を下位に置く根拠となっていた[373]。

後漢王朝における涼州では、漢族と諸羌族との衝突が頻発していた[374]。涼州は、農耕に適した黄土高原やオアシス、河谷平地に加え、遊牧に適した草原地帯も有する、農耕文明と游牧文明の混じり合う土地だった[375]。前漢時代、農牧に従事する羌族の所有地を漢族が奪い、山岳地帯など他地域への移動を強いたことに由来する両族間の軋轢は[376]、根本的解決のなされないまま後漢に引き継がれた[377]。余英時は、動乱の誘因を漢の地方官吏による失政と搾取とする主流の学説を認めつつも、さらなる早期要因として、羌族の人口爆発[注釈 50]および漢人の「蛮夷化」(後述)という趨勢を指摘している[379]。後漢において、羌族は漢族にとり異民族の中でも最たる脅威であった[380]。羌族への武力行使が連年実施され(漢羌戦争)[381]、その戦費は莫大なものとなった[382]。羌族の監督を担う護羌校尉を設置するなどといった融和的な政策も講じられたが、管理不行届が生んだ事実誤認や度重なる官員交代による政策方針の不統一、さらには羌族の民族性への無理解により、効果的統治はなされず[383][384]、かえって対立を悪化させた[377]。
後漢中期には羌族の動乱が三輔にまで及ぶ事態となり[385][注釈 51]、涼州・三輔の人口流出が進んだ[388]。2世紀半ばにおける、河西回廊沿いの地域を除いた涼州東部の戸籍登録人口は、前漢末期の460万人超から、その1割にも満たない35万人弱まで減少した[389]。羌族は地域区分に則り、隴西・漢陽・金城(外郡)における西羌、安定・北地・上郡・西河(内郡、中国内部)における東羌という区別がなされていたが[390][391][注釈 52]、後漢中期以降の混乱によって涼州は「外域」に等しい地域と化し、そこへ移された羌族も「外側」に属する存在となった[393]。長期間の戦乱による涼州の過疎化は豪族の没落や人士の排出数減少を招き、朝廷における涼州勢力の政治的影響力は弱まっていた[394]。またいずれも不受理に終わったとはいえ、統制の難航から、華夷の交流を地理的・文化的に断つことで「羌患」を免れようとする涼州放棄論も複数回にわたり唱えられた[395][注釈 53]。
隴右に割拠する群雄が台頭した起因には、羌族の内徙を通しての文化的・社会的変容[399]および軍権掌握がある[400]。後漢初期において、司隷・涼州に本貫を置き羌族対策に深く関わった馬援などの外戚勢力は、討伐した羌族を内地に移住させて兵力・奴婢として運用し、自らの勢力を強めていた[401]。反乱鎮圧に伴う強制移住により、関隴地区における羌族の人口は増加の一途をたどった[402]。また関東諸将による対羌戦争での戦績は芳しくなかったが、朝廷は涼州勢力の席巻を恐れ、長らく起用していなかった[403]。しかし元初2年(115年)から羌胡を中心とした涼州兵を導入し、次いで土地勘のある涼州の武将も起用するに至った[404]。辺境である涼州において、地方官吏の内政や羌胡兵による軍隊編成の要請などといった朝廷発の政治現象の成否には、地元の有力者の承認や協力の有無が大きく影響した[405]。朝廷と利害を共にした隴右の地方勢力は勢いを取り戻していった[406]。 付言すれば、西北地方で頭角を現すには、族的背景以上に個人的能力の有無が特に重要だったと考えられる[407]。
後漢後期の隴右勢力は、官職の有無に関わらず、人格的な関係に基づいて非漢族と交流し、それに由来する軍事力を得た[408]。馬騰・馬超父子が関隴に割拠する一大勢力となったのは、辺境民族の支持を得ていたことが関係している[409]。隴右勢力は朝廷と異民族兵とを媒介する役割を担った[410]。しかし異民族統御および軍事力提供の属人化により、異民族に対して影響力を持つ人物の存在は現地の漢族社会を動揺させるだけでなく、王朝からも危険視されかねなかった[411]。実情として、涼州の抱える問題に対する朝廷の対応の悪さと、それを受けての自発的な軍事力の増強を経て、皇帝の権威に対する尊重や支持は弱まっていた[412]。後漢初期の外戚勢力と同様、董卓や馬騰は羌族を鎮圧し私兵化することで頭角を現したが[413]、董卓の兵権を弱めようとした霊帝に対し、董卓がそれを回避する口実として羌胡兵の言い分や性格を挙げたことや[414][415]、韓遂たちが曹操と会談した際にその様子を見ようとひしめく「秦胡」と呼ばれる人々[123][153][注釈 54]、張郃を迎撃した際の馬超軍などが示すように[363]、涼州軍閥はその兵力を羌族に依拠するところが非常に大きくなっていた[419]。董卓・韓遂・馬超ら関隴諸将は、羌胡・群盗・軍閥入り乱れての武力衝突が絶え間なく生じる涼州で育ち、やがて関中を席巻したが[420]、彼らの根幹をなしたのは羌胡との不可分な関係だったのである[421]。
後漢末期の涼州軍閥は、董卓を筆頭に、行動規範や風俗の「羌胡化(羌化・胡化)」について多く論じられている[422]。涼州の一郡である隴西は戦国時代に秦によって置かれたが[423]、雍州・涼州地区の住民は、当時から性格や風俗が異民族に近いと認識されていた[369][424][425][注釈 55]。また非漢族との地理的な近さから、彼らは『漢書』において、武勇に優れているとも記録された[428][429]。後漢時代になると、社会状況の悪化に伴い、社会階級の底辺層では生活を保持すべく漢・羌の結びつきが強まる傾向が生じた[430]。後漢末期における異族交流の例証としては、先述した羌兵の編入のほか、羌族との通婚現象が挙げられる[431]。馬平が羌族の娘を娶ったのは、困窮した民衆には羌族と結婚する選択肢もあったことを示しており、胡漢交流の一形態として認められる[432]。その子である馬騰は出自・環境において羌族と強い関わりを持ち[433]、孫の馬超もまた非漢族と深く結びついていた[10]。非漢族との軍事的接触によって、「涼州人」という独自性は次第に構築されていった[434]。涼州軍閥はさらに、その地域的異質性のみならず、異族交流を経て獲得した民族性、すなわち民族構成および文化面における非漢族性という特質をも備えていた[435]。しかし漢人の「羌胡化」は中原の人々にとって歓迎すべき現象ではなく[436]、董卓は「羌胡の種」と罵られ[437][438][439]、李傕は「辺鄙の人間で、夷狄の風習に染まっている」と蔑まれた[440][441][442]。また中平元年(184年)の涼州大乱の際、涼州刺史として赴任した扶風人の宋梟は「涼州は学に乏しい」と述べ[443]、人々に経書の一つである『孝経』を学ばせるべきだと主張したが[444][445]、この発言は、涼州の人間が当時の中国の文化基盤から遠ざかっていたことを示唆している[446][注釈 56]。
涼州軍閥による文化融合は、前漢以来朝廷を悩ませ続けた漢・羌両族間の摩擦を緩和させた一方[449]、破壊・略奪行為などといった羌族の社会的慣習[450]を認可したために、中原進出に伴い狼藉が目立つようになった[435]。王朝からの報酬が見込めない際、統率者は異民族兵に実力行使を許し、彼らの不満を解消していたという分析もある[451]。過度な「胡化」は、本土の中国人の恐怖に基づく反感や拒絶を呼ぶ[452]。涼州軍閥の暴力性は後漢王朝を衰亡へと導いたばかりか[453]、その挙動が各地で士大夫からの反発を招き、さらに董卓死後における軍閥間の内紛も重なった結果、隴右勢力そのものの滅亡にも繋がった[454]。この自滅については、叛服常ならず、団結力に欠け協力と離反を繰り返す性質が影響を及ぼしたとも言われる[455]。隴右勢力は各々が小規模な集団を形成しており、関中進出などといった共通の目標をもとに結束して、比較的有力な者を全体の統率者として擁立するという行動をとるために、集団群は分散的であり、首領の地位も不安定だった[456][注釈 57]。その他、中原の道徳観・文化観を基準とした非文明的という印象なども要因として挙げられている[459]。
馬超もその流れを汲む者として、祖母から引く羌族の血統と、羌族の多く住まう隴右という環境による「羌胡化」の影響を指摘されている[460]。朱子彦によれば、馬超は「羌胡化」を経て、礼や義、孝といった概念を当時の一般的な漢族のようには尊ばなくなり、その結果、核心利益に影響する変動が生じた場合は家族の愛情や利益に配慮することもないため、一族を人質に取ることは抑止力たり得なかったという[461]。しかし後漢時代末期は、仁義や孝道を説く儒教文化を唱道しながら、人質政策およびそれに伴う族滅という非倫理的制度を施行する二律背反を抱えていた[462]。馬超がもし入朝した馬騰らの身を顧みるならば、割拠を放棄して曹操に臣服せざるを得ない一方、親族を見放すならば、忠孝の道を失って曹操に道義的優位を与えることになる[463]。馬超のいかなる選択も曹操に利する仕儀となるため、曹操による人質の徴発は結果的に功を奏したともいえる[463]。さらに楊阜や王商などの反応(→「評価」を参照)のように、忠孝理念の軽視は道義に悖るとして強い反感を買い、馬超は同時代の人士からの支持を得ることができなかった[464]。涼州における反攻では非漢族の武装勢力を利用して頑強な抵抗を見せたものの、勢力の確立には至らなかった[465]。
馬超に対する評価は、毀誉褒貶が相半ばする。群を抜く勇猛さが賞賛される一方、行動や徳性はしばしば非難の的となる[466]。また現代では、非漢族との連携という強みやその軍事的意義に着目する見解も見られる[467]。
陝西省咸陽市楊凌示範区五泉鎮畢公村に存在し、馬援・馬融・馬超の三人を祀る[525]。『扶風県志』によれば、飛鳳山にあり、本来は馬援のみを祀る祠だったが、康熙57年(1718年)、修築を経て馬融・馬超も共に祀るようになったため、「三馬祠」と称された[526][527]。
馬超墓には主要なものが複数存在する。


『三国志平話』(以下『平話』)は、元代の至治年間に成立した『全相平話』という歴史講談集のうちの一つである。史実に対する注意の希薄さが特徴である[550]。物語は蜀漢を中心に語られ、「擁劉貶曹」思想を主題とする[551]。そのため、それを際立たせる描写が多数表出しており、馬超が曹操を何度も窮地に陥れるのはその一例である[551]。また『全相平話』の他作品とは異なり、人物描写の重点が装身具から相貌へ移行し、登場人物がより生気を帯びているという特徴を持つ[552]。また特異な風貌を持つ人物の所属は蜀漢に集中している[553]。なお、馬超挙兵と馬騰誅殺の時系列を前後させるという改変は、元代の雑劇や『平話』の時点ですでに見られる[554]。このように因果関係を逆転させた物語は、民間層において広く伝わっていたと考えられる[555]。以下は『平話』における馬超の事績である。
元末明初に成立した小説『三国志演義』(以下『演義』)において、馬超は「冠の玉のような
馬超は作中でも屈指の武勇を誇る武将として登場し、「人並み外れて雄烈」な面がひときわ強調されている[577][注釈 72]。この単純化により、曹操の「馬の小僧が死ななければ」という言葉は、馬超の戦略眼の鋭さに対する恐れの発露ではなく、馬超軍に大敗した後に馬超の勇壮な姿を観察しての独言となっている[580]。また許褚や張飛との一騎討ちは、単に場面を盛り上げるだけでなく、「虎将を描くとき、〔その相手に〕懦弱な者を用いて造形するよりも、勇ましい者を用いて造形することで武勇を実感するほうがよい」[581]という理論に則り創作されたものである[577]。『演義』創作の一環には、このような馬超などの人物の勇猛さを引き立てる工夫が、伝統的な国民感情である「擁劉反曹」思想を前提に存在している[354]。
『演義』における馬超の事績は『平話』と同様に、様々な改変が全般的に加えられている。作中の馬超は『平話』から継続して、曹操を貶める手段として機能している[582]。また『演義』は『平話』と比較して史実に近いとされるが、馬超の形象に関しては、史実に全く反する「虚構」の存在といえる[583]。改変の代表例である因果関係の逆転には、中国の伝統的な倫理観から大きく逸脱する馬超の行動を「是正」し、より英雄たるにふさわしい存在として物語に配する意図がある[582]。さらに、蜀漢に仕える人物であるために擁護がなされているという面もある[584]。そして馬超を美化する過程には、その父である馬騰の人物造形の変化も含まれている[585]。『演義』の馬騰は反董卓連合軍に名を連ね、献帝の発した曹操誅殺の密勅にも漢の忠臣として参与し、死亡時にはその忠烈を讃える詩すら登場する[586][注釈 73]。毛宗崗の編纂した『演義』(毛宗崗本)において、馬騰の遺志を継いだ馬超は忠孝の体現者である[587][588]。改変を経て、不孝な叛将から忠孝を尽くす悲劇の英雄へと変貌を遂げた馬超は、父子ともども人々の共感と称賛に浴し、その芳名を語り継がれた[582]。


『後漢演義』は、清代から中華民国時代にかけての小説家および歴史学者である蔡東藩により著された、11部からなる『歴朝通俗演義』のうちの一つである。王莽による簒奪から始まり、禅譲を受けた司馬炎による西晋の建国で終わる構成になっている。蔡東藩の小説は史実に忠実であり[606]、史書を読んでいない読者の思い違いを防ぐために、作中には史実への言及に留まらず、『演義』の誤謬および創作部分の指摘や、同書の作者とされる羅貫中への批判が随所に差し挟まれている[607]。この作風ゆえに馬超に関連する描写はおおむね史書に準じており、馬騰誅殺は潼関の戦い以後に行われ[608]、曹操に対する執拗な追跡や数々の一騎討ちといった場面も存在しない。
しかし蔡東藩は創作面を完全に排除してはいない。渡河の際に馬超があと100歩余りの距離まで曹操に迫る場面や、妻子の首が城壁から投げ落とされる場面、張魯から離れて劉備に帰順し劉璋を降伏させるまでの経緯など、『演義』の影響を受けている記述も散見される。さらに稗史の記述を元にしたという主張のもと、貂蝉が実在の人物として登場する[609][610]。これは『後漢演義』が、あくまで史書の記述を正としつつも、芸術性が史実の合理性と付合する場合には前者の要素を取り入れることを厭わないためである[611]。
『後漢演義』の各回の末尾に載せられる人物評には、人物の行動に対する是非や歴史から得べき教訓などが含まれている[612]。『三国志』や『演義』のように特定の陣営をとりわけて称える(あるいは貶める)ことはないが、封建思想の影響から、歴史上の人物や事件に対する評価には理想主義的な歴史観が見出される[612]。
馬超は作中において「馬超は猛将、韓遂は愚物であり、両者とも曹操の敵ではない。〔中略〕馬超は剛情で韓遂は愚昧だったため、まんまと曹操の計略に掛かった。これぞ用兵が謀略を重んずる所以である」と評されている[613]。また語り手は「馬超は勇烈ではあれど知謀に欠ける」とも評し、その欠陥ゆえ親から果ては妻子に至るまで破滅させたことを咎め、「劉備に投降せねば己の身すら保てずにいたのに[注釈 85]、どうして曹操の敵たり得ようか」と述べている[615][注釈 86]。とはいえ、馬超の武勇を実感したがために曹操は賈詡の策を用いるに至ったとし、また曹操の渡河作戦に対する馬超の案を「申し分ない」と形容しているように、馬超の軍事力に対する評価は一貫して高い[618]。『後漢演義』においては、馬超の勇略に馬岱のそれが及ばなかったために、馬岱は北伐に従軍するも大役を任されず、諸葛亮にも重用されていなかった[619]。また『後漢演義』は馬超の反乱以後に行われた族滅についても、馬超が親を顧みず私憤で戦ったのを認めた上で、馬騰らを誅殺した曹操の手口は悪辣だと断じている[620][注釈 87]。

京劇において、馬超を主役とする演目は数多く存在する。演目の内容は『演義』を題材としており、『反西涼』『戦潼関』(潼関の戦い)、『戦冀州』『賺歴城』(冀城放逐および歴城襲撃)、『戦馬超』『両将軍』(張飛との一騎討ちおよび夜戦)などがある。京劇には身分や性格、年齢などにより区別される様々な役柄が存在するが、将軍である馬超は「武生」、具体的には「長靠武生」に割り当てられている[625][注釈 88]。衣装には黒い紋様があしらわれた重孝(喪服)を用いるが[628][629]、張飛との戦いにおいては青を基調とした衣装を纏い[627]、夜戦時には盔頭(かぶりもの)をつけず、白い箭衣を着た「短打武生」となる[627][630][631]。端麗な若者として登場するため[354]、隈取りはせず、ひげもつけない[632][注釈 71]。
万暦年間に刊行された筆記小説集である王同軌『耳談』[注釈 89]およびその増補版『耳談類増』には、「漢左将軍馬超墓」という話が載せられている。あらすじとしては、新都の参議である楊廷儀[注釈 90]が、父親の埋葬地にふさわしい場所を探していると[注釈 91]、ある土地から「漢左将軍馬超之墓」と彫られた石碑を発掘する。楊廷儀は吉兆の験ありと見なして、その地を選ぶと、錦袍をまとい玉帯を締めた馬超が夢に出て、墓を荒らさないよう注意する。楊廷儀が意に介さないでいると、今度は武装した馬超が夢に現れ、楊廷儀の両目を射潰す。盲目になった楊廷儀はそれでも諦めず、とうとう怒った馬超が「お前に禍いをもたらしてくれよう!」と宣告する。後日、楊廷儀の家族が強盗殺人を犯し、彼らは凌遅刑を科される。楊廷儀はそれに連座して、棄市[注釈 92]の刑に処せられてしまう、という話である[644]。
王同軌はこの話を、劉采の縁戚であり、王同軌自身の姻族でもある保昌県令の劉子敦から取材している[645][646]。物語の後に添えられた見解には「土地は馬超ゆえに貴いのであって、土地ゆえに馬超が貴いのではない」とある。次いで馬超の一族子弟が曹操や張魯に殺されたことに言い及び、『三国志』が馬超の後裔について詳述していないことを理由に、馬超の家系は断絶したのだろうと推察している。そして、子孫のためにありもしないことを画策するのは度が過ぎるとして、身を滅ぼすに甘んじた楊廷儀の行いを咎めている[647]。
また『耳談類増』所載の「漢将軍墓」という話では、酒盛りをしていた蜀の人々が、無名の将軍の墓があった場所をそうとは知らずに荒らしてしまい、ポルターガイストに遭遇する。ここでも「〔某将軍の墓は〕耕作者によりだんだんと侵削され、すでになくなっている。しかし城郭の中では、依然として霊異がこのように現れるのだから、馬孟起が弓矢をもて人を盲にせしめるのに、なんの不思議があろうか」と、「漢左将軍馬超墓」に登場した馬超への言及がある[648]。
| 羌女 | 馬平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ⚫︎ | 馬騰 | ⚫︎ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ⚫︎ | 馬岱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 楊氏 | 馬超 | 董氏 | 馬休 | 馬鉄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ⚫︎ | 馬秋 | 劉備 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 馬承 | 女 | 劉理 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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