沿革
- 徳丸氏は大神氏の流れをくむ大分郡高田庄徳丸名の名主
- 大友氏の豊後国入国後、大神氏の勢力は衰退し、次第に大友氏家臣団に組み込まれた
- 戦国期には徳丸氏は二分され、
一部は吉岡氏に被官化、一部は大友氏に直臣化している[1]
< 徳丸文書 >:大友氏と徳丸氏の主従関係の裏付け[3] [4]
- 「徳丸忠奥」:忠奥以降、大友家からの書状の写しあり
- 「徳丸統貞」:大友義統・義乗より御書を賜ったとされる
- 「徳丸貞房」:統貞の子であり、義統の二男篤業(松野右京亮)より御書を賜ったとされる
- 戦国末期:「大友家士帳」[1]より
- 寺司浜の戦(乙津川の戦い)「髙田村志」[5]より
▶︎ 天正14年(1586年)及び翌15年3月
- 高田豪士でこの戦いに参加したものは非常に多く、軍功者として今日に伝わる名前は、徳丸式部・徳丸中書・徳丸刑部・徳丸兵部・徳丸志摩・徳丸三郎兵衛・徳丸勘右衛門・徳丸權左衛門・徳丸加右衛門(惟平)・徳丸又右衛門(統貞)・中村新助(正盛)・同助兵衛(統重)・向新右衛門等あり
- 中村新助・中村助兵衛及び徳丸刑部・徳丸加右衛門の諸士は、寺司浜の戦において殊に奮戦し、新助(正盛)は不幸に戦死したが、その弟助兵衛(統重)は薩軍三主将の一人たる伊集院美作守久宣を討ち取り、兄の仇をとっただけでなく全軍中抜群のてがらを立て、同時に徳丸刑部は敵の部妻栗玄蕃を斬殺し、徳丸加右衛門惟平は敵主将の一人である野村備中守(野村文綱)に傷を負わせ後に死に至らしめた。
いずれも郷土の武名を高く広めた。また徳丸式部は吉岡氏の重臣にして、常時は城主妙林尼の帷幄としてその功は少なくなかったという
- 豊臣秀吉朝鮮征伐
▶︎ 文禄元年(1592年)
関連施設
- 宇佐八幡宮
- 徳丸城跡 <市指定史跡>
▶︎ 平成17年3月31日 市指定(昭和47年6月29日 緒方町指定)
- 豊後大野市小野地区(緒方町鮒川)の緒方盆地を見下ろす眺望のよい丘陵上であるが城跡としての遺構はみられない
- 史実並びに徳丸氏との関係は不明
- 緒方氏との関係性があることから無縁ではないと思われる
- 麻生田城墟(三重県いなべ市北勢町麻生田)
- 桑名志[9]に記録あり(三重県桑名市)
- 史実並びに徳丸氏との関係は不明
関連地名
- 上徳丸(かみとくまる) ・・・大分市丸亀
- 下徳丸(しもとくまる) ・・・大分市下徳丸
関連項目
- - 徳丸系図 -[4]
- 現在、東京大学史料編纂所に謄写本が存在している
(請求番号2075-820)
- 系図冒頭には「壬生之系譜」と記載されている。謄写した際に付せられた奥書には「右徳丸系図一巻/豊後国大分郡徳丸村徳丸荒次郎蔵本明治二十年十一月編修久米邦武文書採訪之時大分/縣廳二託シテ之ヲ謄寫ス」とあり、明治20年(1887年)に大分県庁において託写されたものであることが分かる
- 内容は崇神天皇にはじまり、豊城入彦命〜壬生親王小槻王〜慈覚大師(円仁)と続くもので、慈覚大師の兄弟の壬生義清から寛永16年(1639年)に死去した徳丸貞房の代まで記載
- 記載された円仁と徳丸氏との氏族的つながりについては、矛盾がみられ、氏族的には無関係であると判断される
- - 髙田村志 -[6]
- 臼杵市出身の考古学者、久多羅木儀一郎(鶴崎地区の多くの歴史書を書き郷土史研究に尽力)、中村壽徳、小手川又吉(後に公民館長、若葉幼稚園の初代園長、初代高田昭和井路組合長等歴任)の三人で編纂され大正9年6月10日に完成した地誌
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