大友義統
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「太平記拾遺四十八:大友侍従義統(落合芳幾作)」 | |
| 時代 | 戦国時代・安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
| 生誕 | 永禄元年閏6月18日(1558年8月2日)[1] |
| 死没 | 慶長10年7月19日(1605年9月2日) |
| 改名 | 長寿丸(幼名)、義統→吉統→宗巌(→義統) |
| 別名 |
豊臣吉統、羽柴吉統、通称:五郎、豊後侍従 法号:宗巌 |
| 戒名 | 法鐘院殿中庵宗巌大禅定門 |
| 霊名 | コンスタンチノ |
| 官位 | 従五位下左兵衛督、従四位下侍従 |
| 幕府 | 室町幕府豊後守護→江戸幕府 |
| 主君 | 織田信長→豊臣秀吉、秀頼 |
| 氏族 | 大友氏 |
| 父母 |
父:大友義鎮(宗麟)、 母:奈多夫人(奈多鑑基の娘) |
| 兄弟 | 義統、親家、親盛、ジュスタ(一条兼定室のち清田鎮忠室)、テクラ(久我三休室)、女(奈多鎮基室)、女(一萬田鎮実室)、女(母里友信室)、女(臼杵統尚室)、レジナ (伊東義賢室)、桂姫(小早川秀包室)、女 |
| 妻 |
正室:尊寿院(吉弘鑑理娘、洗礼名:ジュスタ) 側室:伊藤甲斐守の娘[注釈 1] |
| 子 |
義乗、男也[注釈 2]、女(一尾通春室)、佐古局、松野正照(政鎮)、女(伊藤権右衛門室)、 |
大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友義鎮(宗麟)の嫡男。
生涯
島津氏との戦い
永禄元年(1558年)閏6月18日、第21代当主・大友義鎮(のちの宗麟)の長男として豊後府内に生まれる[1]。将軍・足利義昭の偏諱を受け、義統と名乗った。
天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、父の隠居により、家督を継いで第22代当主となる[6]。家督相続はなされたものの、天正5年頃までは宗麟・義統との共同体制が行われていた[7]。
天正3~6(1575~78)年の間に、本拠地豊後府内の都市整備として、東部南北街路筋に形成された祇園神領町屋敷の町割り直しを実施した[8]。
毛利家を支持する将軍義昭により「九州六ヶ国の兇徒」と貶められると、新政権織田信長に近づき信長より毛利領の内で長門・周防を与えるという朱印状を得る。
さらに天正7年(1579年)11月27日、織田信長の推挙によって天皇から従五位下・左兵衛督に叙位・任官された[注釈 4]。
ただし、大友家の実権は依然として父の宗麟が掌握していた。天正6年(1578年)、日向国に侵攻するも、耳川の戦いで大敗を喫し、以後は大友家臣団の分裂が始まる。
天正8年(1580年)には有力庶家である田原親貫や田北紹鉄が反乱を起こし、秋月種実と内通したので、その鎮圧のために一時府内を本拠に戻さざるを得なかった。
重臣・立花道雪が病没、かつては大友氏の版図であった肥後・筑後・筑前は次第に肥前国の龍造寺氏や薩摩国の島津氏に侵食されていった。
天正14年(1586年)、豊後武宮親実の臼杵城、大津留氏の松ヶ尾城(城将橋爪某)などを従え豊前龍王城を拠点としていたところ[9]、島津義久による豊後侵攻(豊薩合戦、天正の役)が始まる。また高橋紹運が岩屋城で戦死するなど(岩屋城の戦い)、大友氏は滅亡の危機に立たされる。
豊臣家の一員として
父で隠居の宗麟は豊臣秀吉に面会して豊臣軍の九州下向を要請した(これにより豊臣傘下の大名となる)。援軍として派遣された長宗我部元親や仙石秀久らは共に島津軍と戦うが、戸次川の戦いで大敗し、家臣の利光宗魚、戸次統常を失う。
天正15年(1587年)秀長軍は先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら山陽山陰の軍勢と合流し、豊後より日向へ入って縣(宮崎県延岡市)を経て3月29日には日向松尾城(延岡市松山)を落とし、さらに4月6日には耳川を渡って山田有信の守る高城(木城町)を包囲した。秀長は城を十重、二十重に囲んで兵糧攻めにし、都於郡城から後詰の援軍が出てくることを予想して根白坂(児湯郡木城町根白坂)に城塞を築いた。
高城が孤立する形勢となったことに対し、4月17日、島津義久・義弘・家久が2万の大軍を率いて救援に向かった。豊臣軍は根白坂の陣城の総大将宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。このとき、藤堂高虎、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多秀家の家臣戸川達安らが後詰として加勢し、後世「根白坂の戦い」と称される激しい戦闘となった。その結果、島津方は根白坂を突破できなかったのみならず、島津忠隣が戦死、義久・義弘は都於郡城に退却。後に秀吉から豊後一国と豊前宇佐郡半郡併せて37万石を安堵された。
同年4月に、義統は隣国の黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けていたが、6月に発令された秀吉の棄教令により、棄教した[注釈 5]。
天正16年(1588年)2月に秀吉に謁見するため上洛。秀吉から非常に気に入られたとされ、羽柴(後に豊臣)の姓を下賜され、さらに、秀吉から偏諱(「吉」の一字)を与えられて義統から吉統へと改名した[注釈 6]。先祖が足利尊氏の猶子になった例にちなみ秀吉の猶子となる。大友家の桐紋については祖父義鑑の代に足利義晴より賜紋され、父義鎮の代に足利義輝より一族の証であるとして改めて桐紋の使用を認める御内書が発給されているが、秀吉から賜紋されたともされており、伝記『豊鑑』にも吉統が桐紋を用いていたとあることから、将軍家とは別に秀吉が太閤桐紋を下賜した可能性もある。
また従四位下、侍従に叙された。
天正16(1588)年、近世大名の性質に近い諸政策のひとつとして、港町佐賀関に関して発した「袖判(そではん)条々」があり、「佐賀関法度」としての性格を有する。計11カ条は、港町の町立から、計量商人の設置、火災時の処罰、直訴者の処分、主従結合の禁止、従前免許の改易、問丸商人の保護、喧嘩や闘争行為者の処罰に至るまで、佐賀関の政治、行政、訴訟、徴税を含む内容である。直轄水軍の若林氏を代官に任じてこれらを統括させ、豊後国随一の要港の整備とその政治・経済的掌握の深化を図ることを企図した条々である[10]。
天正18(1590)年、豊後国佐賀郷での道作奉行として詫磨・斎藤・平林の3家臣を任じ、横幅6尺(約2メートル)の「道作」を2間(約3・6メートル)単位で郷ごとの夫役として賦課することを命じた大友氏奉行人連署の任符が残存する。「よこ六尺」という具体的な道幅と、その土木工事への夫役が領国内の郷ごとを単位とする「郷役」という基準で動員されたことを示す。さらにその郷役が「天下御下知」を根拠として徴集されており、義統が豊臣秀吉を上級権力として仰いだこの時期に、土木事業の夫役を畿内の統一政権からの「御下知」を論理として動員したことを示す[8]。
天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の一員として参戦している[9]。
天正16(1588)年~文禄元(1592)年に、荏隈郷内での「井手」作事について、「彼調第一」「急度成就」との表現で工事の推進が第一と述べ、当初の予定通りに人夫を催促して成就させるよう、家臣の吉良・賀来両氏に督促した書状が残存する[8]。
改易
文禄元(1592)年の朝鮮出兵に際して、義統は消極的出兵をした大名の一人であった。秀吉は、そうした義統を名護屋城に呼び戻して詰問し、改易という最も厳しい処分を言い渡した。その処分理由は、文禄2(1593)年1月の平壌城の戦いで、城に籠もる小西行長軍が反撃してきた明・朝鮮連合軍に包囲され退却する際に、義統軍が援護をせず自ら退却したというものであるが、一進一退の戦況下、同様の救援回避や退却は黒田長政ら複数の大名も行っており、義統のみの改易理由にはならない。秀吉は、自らの朱印状のなかで、義統に「臆病者」とのレッテルを貼り、その処分の理由を「見こ(懲)りのため」と称している。豊臣政権による大友氏改易の真の理由は、厭戦気分の漂うこの軍事行動において、侵攻に消極的態度をとる大名の末路を見せしめとし、前戦の軍紀を引き締めることにあった。加えて、大友氏のような、1570年代までに東アジア諸国に加えてカンボジアやポルトガルの国王とまでも単独での外交関係を保持する大名は、そもそも秀吉がめざす国家外交権の一元集約をも含めた「天下統一」政策の完結にとって、目障りな存在であった。豊臣政権にとって、分権的外交の最前線を走ってきた大友氏をつぶすことは、これまでの個別外交時代の終焉を国内外に象徴的に知らしめ、「外交」的世界の一元的掌握をアピールすることにもつながった[11]。
吉統は剃髪して宗厳を号し、秀吉から5月1日に改易を言い渡された。大友領であった豊後および豊前の宇佐半郡は豊臣家の蔵入地(直割地)となり、のちに豊臣家の奉行等の領地としても細かく分割された。
吉統は、江戸(徳川氏)、水戸(佐竹氏)、山口(毛利氏)などに次々に身柄を預けられ幽閉状態が続いた。旧大友家有力家臣らは大友家再興を願いつつ、他の大名の客将となるなどして、世をしのいだ。
秀吉の死後、慶長4年(1599年)に豊臣秀頼より特赦され、幽閉状態から脱した。大坂城下に屋敷を構え、豊臣家に再び仕える。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将毛利輝元の支援を受けて西軍に味方をすることに決め、広島城から西軍の将として出陣して、元の領国であった豊後国に侵攻した。
戦勝のあかつきには「豊後一国の恩賞」が約束されていたという。田原氏・吉弘氏・宗像氏などの小大名級の旧大友家臣が諸国よりぞくぞくと合流し、大友軍は短期的に再興した。
豊後に上陸して国東半島の諸城を下す。9月の石垣原の戦いでも、緒戦は優勢であったが、終盤では豊前の黒田如水と細川忠興(実際は豊後杵築城の細川家の重臣松井康之)らの連合軍に敗れてしまい、剃髪したのち妹婿であった黒田家の重臣・母里友信の陣へ出頭して降伏。豊前国中津城に送られ、幽閉される身となった。
晩年
関ヶ原の後、吉統は出羽国の秋田実季預かりとなり、実季転封にともない常陸国宍戸に流罪に処された。流刑地では再びキリシタンとなったという話も伝わるが、同時代史料が無く未詳である。この流刑地で大友氏に伝わる文書を『大友家文書録』にまとめたが、このおかげで大友氏は零落した守護大名家としては珍しくその詳細を知ることができ、大変貴重な史料となっている。
慶長10年(1605年)7月19日に死去[12]。戒名は中庵宗巌。大友家は義乗が旗本として徳川家に召抱えられ、鎌倉以来の名家として高家として続いた。
人物・逸話
家系
家臣
以下、義統(吉統)が偏諱を与えた人物を中心に、義統期の主な家臣を掲載する。太字の統の字を含む人物は義統から偏諱を賜った人物である[注釈 9]。尚、( )内に血縁関係や別名、通称、役職などを掲載しているが、長文になる場合は脚注に掲載している。
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関連作品
脚注
注釈
- ↑ 大和国宇田の城主の娘であったと伝わる[2]。
- ↑ 大友義統の嫡子、慶長元年(1596年)11月4日に7歳で夭折。月窓照芳童男。『旧柳川藩志』第十五章 寺社 第四 院寺 上庄の正覚山聖衆院来迎寺 P.482、第十六章 名所旧跡 第六節 墳墓 大友義統の男男也の墓 P.571
- ↑
- 国書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 系図綜覧. 第二』国書刊行会刊行書、1915年、139頁。によると、退清院殿梅月春香禪定尼、義親の母。立花左近(宗茂)の娘。
- 『群書系図部集』によると、退清院は立花左近統虎(宗茂)の娘で貞勝と義親の母[3]。義親を「貞勝弟」[3]していることから、貞勝とは同腹という内容であり、父については特に記述がなく五男とあるだけで、父を大友義乗とし、兄・貞勝とともに祖父・大友義統の養子となったことから、このような表記になった可能性も考えられる。こうして『寛政重修諸家譜』などの資料とは異なる内容である。
- ただし、立花家の系譜によれば宗茂と三人の妻の間でも実女が持っていなく幾人の養女も義乗の室ではない。
- また、大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の初名は貞勝と記載されている[4]。
- なお、旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕[5]によると、『群書系図部集』や『系図綜覧』に立花左近統虎の娘という記述は明らかに統虎妹の誤記。
- ↑ 任左兵衛督 口宣案 大友家文書[要出典]
上卿 勸修寺中納言
天正七年十一月廿七日宣旨
從五位下源義統
宜任左兵衞督
藏人頭右中辨藤原兼勝奉
(訓読文) 上卿 勧修寺中納言(勧修寺晴豊 36歳 正三位 権中納言) 天正7年(1579年)11月27日宣旨 従五位下源義統(大友義統 22歳) 宜しく左兵衛督に任ずべし 蔵人頭右中弁藤原兼勝(広橋兼勝 22歳 正四位上)奉(うけたまは)る - ↑ つまりキリスト教に帰依したのは、僅か2ヶ月である。
- ↑ 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年、9・29・38頁。偶然によるものだが読み方に変更はない。
- ↑ 大友義統の嫡子。月窓照芳童男。『旧柳川藩志』第十五章 寺社 第四 院寺 上庄の正覚山聖衆院来迎寺 P.482、第十六章 名所旧跡 第六節 墳墓 大友義統の男男也の墓 P.571
- ↑ 彼女の経歴は大友宗麟の次女・テクラの娘「マセンシア」と混同される。また、「桑姬」という人物について、実際には宗麟の長女・「ジュスタ」(一条兼定室のち清田鎮忠室)のことだが、義統の次女・「マキシマ」やテクラの娘・「マセンシア」や宗麟の長女・ジュスタの娘・「マダレイナ」など「桑姬」として混同される[14][出典無効]。
- ↑ 義統から偏諱を賜った家臣の子孫が「統」の字を用いるようになった例もみられるのでそれに該当するであろう人物には※印で示してある。これらの人物は年代的に義統死後の人物で義統から直接偏諱を賜っていない者と考えて良い。また、「義統」時代と「吉統」時代での区別は特にしていない。
- ↑ 黒木家永の三女は後に鍋島直茂家臣・大木統光の子大木統清(兵部少輔、主計)の妻。『筑後戦國史』P.165~166。
- ↑ 戸次七左衛門茂昭(照)。黒木宗利(天正12年(1584年)8月頃から翌年(1585年)9月頃まで、一時期、黒木家永の婿養子となった[注釈 10]。)[17][18][19][20][21]
- ↑
- 安武民部少輔(丞)、河内守。号は道観。継室には問註所鑑豊の娘で、問註所鎮連の妹にあたる仁志姫を迎え、一男・安武方清と一女・吉子(米多比鎮久正室)をもうけたが、のちに離縁した。
- 安武鎮則(安武山城守鎮教、安房守(阿波守)入道宗信)の子。『大日本史料』 11編 20 天正13年9月 p.138
- 弟に仲右馬助政乗(政教)、妹に立花鑑載正室。
- 立花道清(安武三郎・長兵衛・又左衛門、立花弥左衛門統時)と大鶴鎮治(立花五右衛門鎮治。旧姓・大鶴、大津留鎮正の子)の正室については、史料上では安武鎮則と先妻との間に生まれた子とされている。しかし、これは問註所仁志の前夫である安武鎮政を父・安武鎮則と誤記したことによる混同とも考えられ、実際には安武鎮政と先妻との間に生まれた子である可能性もある。『大日本史料』 11編 20 天正13年9月 p.144、『大日本史料』 11編 20 天正13年9月 p.145、安武恒春氏所蔵文書
出典
- 1 2 『大分県史料 33 (第2部 補遺 5 大友家文書録 3)』大分県教育委員会、1980年、p.3。
- ↑ 小和田哲男 編『戦国大名閨閥事典』 3巻、新人物往来社。ISBN 4404024231。
- 1 2 3 塙保己一 1973, p.368
- ↑ 大日本史料 第12編之9P.998
- ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000768
- ↑ 外山幹夫『大友宗麟』吉川弘文館〈人物叢書〉、1975年、143-144頁。
- ↑ 福川一徳 著「大友義統の家督相続をめぐっての一考察」、渡辺澄夫先生古稀記念事業会 編『九州中世社会の研究』1981年。
- 1 2 3 『鹿毛敏夫『大友義鎮』』ミネルヴァ書房、2021年。
- 1 2 3 4 5 #唐橋。p.p.89
- ↑ 『鹿毛敏夫『戦国大名の海外交易』』勉誠出版、2019年。
- ↑ 『鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』』講談社現代新書、2023年。
- ↑ 大分市教育会 1929, p. 29.
- ↑ 『鹿毛敏夫『大友義鎮』』ミネルヴァ書房、2021年。
- ↑ 隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考[出典無効]
- ↑ 『筑後国史』 中巻P.8
- ↑ #唐橋。p.p.242
- ↑ 『大日本史料』 11編 8 天正12年8月 P.402
- ↑ 『大日本史料』 11編 17 天正13年7月 p.121~122、125
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』P.145
- ↑ 帆足万里全集 上巻 P.420~421
- ↑ 『筑後名鑑 三瀦・八女之巻』P.121
参考文献
- 唐橋世済他『大分郡志』、写本『豊後国志』(1803年)。二豊文献刊行会、1931年。
- 矢島嗣久「豊後の武将、宗像掃部鎮統 大友吉統の重臣」『別府史談』第28巻、別府史談会、2015年3月、40-46頁、CRID 1050845762586291712、NAID 120005576072。
- 大分市, 大分市教育会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大分市教育史』大分市、1929年。
- 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 上、大日本人名辞書刊行会、1926年。
- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第1輯』國民圖書、1922年、697頁。
- 鹿毛敏夫『大友義鎮』ミネルヴァ書房、2021年。