文世光事件

ウィキペディアから、無料の百科事典
文世光事件
陸英修銃撃直後の様子。演台の前に拳銃を構えて立っているのは、後に第9代大統領警護室長を務める朴相範。
場所 大韓民国の旗 韓国・ソウル特別市
日付 1974年8月15日
10時23分(UTC+9)[1]
概要 在日韓国人の22歳の男、文世光が偽造パスポートで韓国に入国し、朴正煕大統領の暗殺をもくろみ、夫人の陸英修を射殺した。
攻撃手段 拳銃で発砲
武器 大阪府警高津派出所(現:高津交番)で盗んだ回転式拳銃
死亡者 2名(陸英修、張峰華)
犯人 文世光、知人の日本人女性
対処 韓国当局が逮捕・起訴→死刑(文世光)
大阪府警が逮捕→懲役3年(執行猶予1年)(知人女性)
謝罪 あり(文世光)
管轄 大韓民国(文世光)
大阪府警(知人女性)
テンプレートを表示

文世光事件(ムン・セグァンじけん、문세광 사건[2])は、1974年8月15日に大韓民国大統領・朴正煕夫人の陸英修が在日韓国人の文世光に射殺された事件である。この事件では同時に、式典に合唱団の一員として参加していた女子高生の張峰華(当時17歳)も、応戦した大統領警護室の警護員が撃った流れ弾に当たり死亡した。韓国では「朴正煕大統領狙撃未遂事件」「陸英修夫人狙撃事件」「8・15狙撃事件」などと呼ばれることがある[3][4][5]。

2005年1月20日に文世光事件に関連する外交文書などが韓国で公開された。韓国政府は事件を「北朝鮮の指令を受けた在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)による組織的大統領暗殺計画」と結論付けているが、日本政府は「共産主義を信奉する在日韓国人の単独犯行」としており、両国間に見解の相違がある[6][7]。

事件

背景

1973年10月下旬、在日韓国青年同盟(韓青)に所属していた文世光は、高校時代の恋人である日本人女性Y・Mと天王寺駅前付近のホテルの喫茶店で会い、「韓国の共産革命を成功させるためには朴正熙大統領を除去しなければならない」「香港で拳銃を購入したいので、あなたの夫の名前で日本のパスポートを発行できるように助けてほしい」と言った[8]。文は大阪市生野区中川西に住み、Y・Mは大阪府泉大津市に住んでいた[9]。同月31日、文はY・Mから、夫のY・Y[10]名義の戸籍謄本及び住民票を受け取った[11][8]。11月、文は、大阪韓国中高等学校で教諭をしている実兄に「朴大統領を暗殺するので拳銃の購入費用や旅費が必要だ。70万円都合してほしい」と頼んだ。このとき兄と文の妻は必死で止めたという[12]。

同年11月11日、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)の大阪府生野西支部政治部長の金浩龍(キム・ホリョン、김호룡)[13][注 1]は文を訪ね、旅費などの名目で50万円を渡した[8]。同月12日、文は旅行会社を訪れ、自分の写真4枚を添付し​​た書類を提出し、パスポートの作成を依頼した。同月17日、Y・Y名義の単数旅券(一時的なパスポート)が交付された。同月19日、夫婦に偽装した文とY・Mは大阪国際空港から香港へ飛んだ[11][14]。香港と九龍半島一帯の古物市場、蔵物市場、銃砲店などを巡り、拳銃の購入を試みたが失敗した[8]。

1974年2月上旬、金浩龍は文に「朴正熙の暗殺は8月15日の光復節の記念行事の際に行うこととなった。事前準備として、金大中救出対策委員会などすべての組織活動から手を引き、東京のA病院に日本人名で入院してください。入院費は朝鮮総連が負担する」と告げた。文は2月12日から3月11日まで足立区梅田のA病院に「川上勇治」の偽名で入院した[1][8][15]。朝鮮総聯が経営する病院で理事長も総聯系だったが、朝鮮総聯議長の韓徳銖の主治医だった院長は韓国の肉親を訪ねるため韓国人の有力者筋を通じて数回渡韓し、1972年には民団に入団していた。政治的には複雑な内情の病院だった[15]。文は入院中、共産主義思想の学習を受けたとされる[1][8][16][17]。金は文に対し、入院費16万円、生活費85万円、雑費5万円を渡した[8]。

同年3月1日、三一節の記念行事が国立劇場が開かれ、朴正熙大統領は妻の陸英修と共に出席。この時大統領警護員は、会場に来た外国大使夫人に対し、ハンドバッグは物品保管所に置き、ハンカチだけを持って入場するように言った。そのあと駐韓外国使節団の婦人会が開かれるが、参加者は陸英修に警護措置が過度だと言って抗議した。陸英修は朴大統領にこれを伝え、朴大統領は警護室長の朴鐘圭に過剰な検問や捜索をしないように指示した[8]。

同年4月30日、北朝鮮の万景峰号が大阪港に入港。同年5月3日、「泉大津日朝研究会」と名乗る団体の会員9人が乗船。この中にY・Mと夫のY・Yがいた[18]。同月4日もしくは5日に文世光が乗船し、朝鮮労働党対外連絡部の工作指導員と面会した。船は5日に出港した[19][20][21]。

同年6月27日、文はY・Mから再び、Y・Y名義の戸籍謄本及び住民票を受け取った[11]。同年7月20日、文は旅行会社に行って書類を提出し、単数旅券(一時的なパスポート)の交付手続、ソウルまでの往復航空券の購入、そして朝鮮ホテルの予約を依頼した[8]。

同年7月17日夜から18日に早朝にかけて、大阪市南区(現在の中央区)の高津派出所で警察官4人が仮眠していた。18日、文は裏窓を破って侵入し、拳銃2丁(S&W M36、ニューナンブM60)と弾丸5発ずつを盗んだ[8][22][23]。

同年7月25日、金浩龍は文に現金80万円を渡した[1]。

同年7月と8月2日に文の自宅に「前田」と名乗る男から「ご主人いますか」と流暢な日本語の電話があり、いずれも妻がとった。応対に出た文は妻に「前田さんは総連本部の政治部長だ」と話した。妻が「総連の政治部長にしては若い声やね」と言うと、文は「そんなに若くもないんや」と答えた。事件の公判中の10月19日、妻は朝日新聞の取材に対し「金浩龍の声とはぜんぜん違う」と証言している[12][24]。

韓国に発つ日の前日、8月5日に文は家を出るとき、妻に「何かあったら足立区のA病院の池田さんに連絡しろ」と言い残した。文の妻は朝日新聞の取材に対し「事件のあった8月15日の午後3時半頃、病院に『池田さんいますか』と電話すると、しばらく待たされてから『そんな人はいない』と返事があった」と証言している[12][24]。

文世光が韓国に渡航

1974年8月6日午前11時30分、文は大阪国際空港からソウル行き大韓航空機に搭乗、午後1時に金浦空港に降り立った。トランジスタラジオの中身を抜き、そこに分解したS&W M36を隠して持ちこんだ[25][26][27]。朝鮮ホテルに宿泊した。

前年の1973年、フレデリック・フォーサイスの小説『ジャッカルの日』が日本でも出版され、ベストセラーになっていた。暗殺者の「ジャッカル」はイタリアからフランスに入国後、男爵夫人を誘惑したり、ゲイバーで見つけた男のアパートに潜り込んだりしながら、標的のド・ゴール大統領に近づいていく。文は小説を参考にし[8][4]、早速8月7日夕方に明洞のコスモスデパートの地下にある酒場に入った。酒場の支配人は文に女性を紹介した。同月10日、車を借りて京畿道加平郡の清平にあるナイアガラホテルに行った。夜、ホテルのナイトクラブでウェイトレスと酒を飲んだ後、一緒に部屋に入った。翌11日、文はタクシーに乗ってソウルの朝鮮ホテルに戻った[8]。

光復節の記念式典が開かれる数日前の8月中旬、同じ会場の国立劇場で演劇『聖雄 李舜臣』が上演された。前述のように朴から「過剰警護は慎むように」と言われていたものの、警護員たちは外交官夫人たちのハンドバッグの中身まで開けて警護に努めた。公演後、朴は朴鐘圭警護室長を呼び再び叱った。そしてこの日、多数の警護員が交代された[8]。

1974年8月15日

同年8月15日午前7時、文はフロントに電話し、車を手配するよう頼んだ。フロントはソウルパレスホテルのフォード20M車を用意した。正装を着て中折帽までかぶった重厚な身なりで、某商社のソウル支店長と待ち合わせている日本政府高官になりすました。午前8時40分、ホテルを出発した[8][2]。午前9時、文を乗せたフォード車は検問を受けずに南山の国立劇場の敷地内にはいり、正面階段の下に到着した[8]。会場は本来招待状を持つ人しか入場できなかった。文は劇場入口を守っていた警察官に対し、駐韓日本大使館職員と名乗った。文は22歳の若さだったが、警察官はその言葉を信じた。招待状がないにもかかわらず、疑われることなく、潜入することに成功した[25]。文は会場に入る直前に拳銃の撃鉄を引き、服にしまった[1]。

招待された日本人は駐韓大使の後宮虎郎のみであった[28]。駐韓外交使節参加者の座席は、立法部、司法部、行政府の参加者とともに2階に配置されていた。会場に入った文は「日本大使の鈴木という人とロビーで会うことになっています。まだ来ていませんか?」と警護員に日本語で尋ねた。警護員は文を2階に案内した。文は「1階のロビーで会うんだ」と言って1階に下り、1階の長椅子に座った[1]。

同日午前10時7分、光復節記念式典の国民儀礼が行われ、参加者は立ち上がり太極旗に向かった。壇上の警護員は警護室長の朴鐘圭を含め5人だったが、朴鐘圭以外の4人は露出しないように、舞台の左右袖口のカーテンの裏側にいた[1]。

10時10分、朴大統領の祝辞が始まった。ほぼ同じ時間に文は隣にいた警護係長に日本語で「中に入って大統領のお顔を見たいです」と言った。文はロビーから1階席に入り、B列群の一番後ろ、列の右から3番目の座席(B-214)に着席した[1][2]。

10時23分、朴大統領が演壇で祝辞を読み上げているとき、文世光は左側の腰に隠した拳銃を抜こうとしたが誤って引き金に触れ、自分の左側の太股に貫通傷を負った。その時の銃声はスピーカーの音で消され、周囲は誰も気付かなかった。文は拳銃を抜いて、B列とC列の間の中央通路に飛び出し、壇上に向かってまっすぐ走った[1]。

1発目の発射から4.5秒後、朴鐘圭は突進する文の姿に気が付き、立ち上がった。1発目から6秒後。文は止まらないまま朴大統領を狙い、2発目を発射した。壇上の朴との距離は20.9メートルだった。弾は鉄板の入った演壇の上端部にめり込んだ。それから0.5秒後。文はさらに前進し、演壇との距離を18.15メートルまで縮め、引き金を引いた。3発目は不発だった。朴は反射的に演壇の後ろに隠れた[8]。朴鐘圭は拳銃を抜くが演壇の床に落とした[29]。

演壇から15.4メートルの位置まで進んだ文は4発目を発射した。4発目の弾丸は椅子に座っていた陸英修の頭の右側に命中した。一般客席の中に戦時中独立運動家として名を馳せたイ・デサンがいた。イ・デサンは右足をのばし、文の足を払った。文はバランスを崩した状態で、最後の弾丸である5発目を発射した[8]。弾は演壇の後方にある太極旗に当った[2]。2発目(第2弾)から5発目(第4弾)までの1.5秒の間に3発の銃声が聞こえた[1][2]。文世光はその場で逮捕された。

陸英修はソウル大学付属病院に搬送されたが、5時間40分に及んだ手術もむなしく同日午後7時に死去した(49歳没)。ちなみに頭部付近に弾丸が命中し椅子から崩れ落ちる映像は、アメリカの放送局であるCBSソウル支局のカメラクルーが撮影したものだった。

式典に合唱団の一員として参加し客席に座って演説を聴いていた城東女子実業高等学校の女子学生の張峰華(当時17歳)が、ステージ上にいた警護員が張の客席付近を走っていた文世光に向けて射撃した際の流れ弾に当たって死亡した。現場で鳴った銃声音は全部で7発だった[20]。陸英修の頭を貫通した弾丸は見つからなかった[30]。

朴大統領は陸英修が病院に搬送されたあとも、「私は大丈夫です」と言って、麦茶を一杯飲み終えると、何事もなかったかのように最後まで演説を続けた。当日は、交通部長官白善燁の奔走と日本の全面的な技術支援を得て同日開業した韓国初の地下鉄、ソウル地下鉄1号線の記念式典も開かれる予定だった。工事関係者や在留邦人など多数の日本人が待機していたが、「犯人は日本人」と伝えられたため、全員避難させられ、式典の式辞でも、日本の支援については全く触れられなかった。

事件後

8月15日午後3時、韓国外務部長官の金東祚は、式典に出席した駐韓大使の後宮虎郎と会った。金は後宮に「逮捕者が所持しているパスポートの写真と本人とが一致するので、これは間違いなくY・Yだ」と言った[28]。韓国政府もこの頃「犯人はY・Y」と発表した[注 2]。日本の外務省がY・Yの自宅に電話すると妻のY・Mが出て、「主人は今朝から大阪にいます」と言った。警察はY・Y自身の所在を確認し、午後5時過ぎに日本の当局は韓国政府の発表は誤認であると認識した[28]。文世光が逮捕されると、ソウル地方検察庁の検事の金一斗(キム・イルドゥ)を本部長とする捜査本部が設置された[31]。

日本では、8月15日の昼間、NHKで最初のニュースが流れた直後、解説委員の山室英男[32]が「犯人は北朝鮮の武装スパイであるかもしれない。民青学連系列の過激分子かもしれない。しかし、1933年にナチスが国会議事堂に火をつけた後、国会を解散して政権を奪取した例があるように、今回の事件は韓国の現政権によって仕組まれたものである可能性がある」と話した。駐日韓国大使館はNHKと山室に抗議し、NHKはただちに訂正放送を出した[8]。

8月15日深夜、捜査本部は「犯人の氏名は文世光」と発表した[9]。捜査本部の発表を受けて、同月16日午前0時過ぎ、ソウルのラジオ局「東亜放送」は臨時ニュースで金一斗の談話を報じた[9][注 2]。東亜放送が伝えた金の談話は以下のとおり。「犯人の文世光は200ドルと日本円2万円をもって、8月6日に大韓航空機で韓国に潜入した」「文は、大阪で拳銃を2丁盗み、そのうち1丁と実弾5発をトランジスタラジオのケースにひそませて持ちこんだと言っている」「文は単独犯であると言っているが、当局は背後関係を調査中」[9][31][33][34]。

8月16日、「朝鮮日報」朝刊は一面で事件を報道。「犯人は在日僑胞 文世光」「拳銃をラジオに隠して入国」と見出しに掲げた[34][31]。日本でも各紙が1面で報じた[9]。

同日、大統領府対策会議が開かれ、検察総長の金致烈(キム・チヨル)は中央情報部の捜査能力に疑問を提起した[35]。当時、中央情報部は金大中拉致事件のため国内外でのイメージが悪く、検察庁との関係は良好とは言い難かった[17]。対策会議が終わると、中央情報部長の申稙秀(シン・ジクス)は、法律補佐官として同部に派遣されていた検事出身の金淇春(キム・ギチュン)に直接調査をするよう指示した[35]。

事件当時の他の韓国メディアは、文世光は拘束後からハンガーストライキを行ったが、8月16日午後に捜査当局が朝鮮総連の大阪府生野西支部政治部長の金浩龍の名前を出すと、そこで観念し自供したと報じた[19][注 3]。その一方で、前述の金淇春はこれと異なる証言を2005年1月21日にしている。金淇春の証言内容は次のとおり。文世光は逮捕された日から8月16日の17、18時頃まで黙秘権を行使した。これを受けて中央情報部長の申稙秀は金に取り調べをするよう指示した[36][37][31]。16日、金は日本語を話せる中央情報部の捜査官と共に文世光と取調室で対面した。金は8月上旬に家族とともに海水浴場で休暇をとった際、旅先で韓国語の翻訳が出たばかりの『ジャッカルの日』を読んでいた。「『ジャッカルの日』を読んだのか」「読んだ。先生も読んだのか」「君がまさにジャッカルじゃないのか」「そうだ。私がジャッカルだ」というやりとりのあと、金が「君の思想は何か」と尋ねると、文は「私は共産主義を信奉する。私は共産革命を成し遂げる一つの手段としてここに来た」と答えた。そして話した[8]。

8月16日、大阪府警本部は前述の日本人女性Y・Mを旅券法違反の容疑等で逮捕すると同時に、文世光の自宅を捜索した。その際、大統領暗殺宣言と韓国革命を主張した「戦闘宣言」と題した論文や、盗難された拳銃2丁のうちニューナンブM60と弾丸などの証拠品を発見した。押収したものの、国交がないため、在外公館でなく日本の主権が及ぶはずの朝鮮総連関連施設への捜査はウィーン条約に基づく治外法権を理由に行わなかった。

8月17日、韓国の捜査本部は「文世光の供述によってその背後関係が明らかになった」と発表。事件は万景峰号の北朝鮮工作指導員と朝鮮総連幹部の金浩龍の指令、援助を受けて実行されたものであると述べた[37]。

8月18日、検察総長の金致烈は鄭致根(チョン・チグン)部長検事を呼び、「こうした事件は検察が直ちに担当すべきだ」と述べ、事件を中央情報部から引き継ぐよう指示した[17]。

朴正煕の長女だった朴槿恵(後に韓国大統領)は事件発生当時フランスのグルノーブル大学に留学中で、急遽帰国した。

8月20日、全閣僚ならびに、大統領警護室長の朴鐘圭をはじめとする警護室の幹部、秘書室の幹部らは事件の責任をとって辞表を提出した。同月21日、朴は狙撃事件の最小限の責任者として内務部長官の洪性澈(ホン・ソンチョル)と朴鐘圭の辞表だけを受理した[38][39]。朴鐘圭と金鍾泌国務総理は後任の警護室長に予備役海兵准将の呉定根(オ・ジョングン)を推薦するが、朴大統領は当時40歳だった国会議員の車智澈を警護室長に抜擢した(8月22日就任)[40]。9月1日、ソウル市長だった梁澤植(朝鮮語版)も同じく責任を取って辞任した。

8月24日、鄭致根は事件の送致を受け、本格的な取り調べに着手した。検察上部は「足立区の病院に入院中に射撃訓練を受けた可能性がある」と指摘。鄭は文が犯行を決意した後の足取りを徹底的に調べたが、証拠はつかめず、文の証言も最後まで得ることはできなかった[17]。

10月7日、韓国で初公判が開かれ、文世光は法廷に立った。文は大筋で犯行を認め、10月19日の1審(死刑判決)、11月20日の2審(控訴棄却)、12月17日の大法院における終審の全てにおいて死刑が宣告された。

12月20日、ソウル西大門の拘置所の処刑場において、拘置所長は死刑を確認する判決文を朗読した後、文に「最後に言葉はあるか」と言った。文は検事や牧師、刑務官など約10人の立ち会いのもと、「私は愚かでした。韓国で生まれたらこのような犯罪は犯していなかったでしょう」「朝鮮総連にだまされてこのような過ちを犯した私は愚か者なので、死刑になっても当然です」「母に申し訳ないと伝えてほしい。妻はまだ若いので、再婚して第二の人生を生きるよう伝えてほしい。息子は兄夫婦が引き取って育ててほしい」と述べた。午前7時30分に死刑が執行された[41][17]。文の息子は当時1歳だった[12]。

1975年3月7日、大阪地裁はY・Mに対し懲役3年・執行猶予1年の判決を言い渡した[42]。

警護体制の問題点

光復節記念式典は、日本の植民地支配からの解放(1945年8月15日)と大韓民国政府の樹立(1948年8月15日)をともに祝う特別な式典であるにもかかわらず、警備体制に多くの問題点があったことが指摘されている。

  • 招待状を持参していなかったにもかかわらず、駐韓日本大使館の職員と名乗る男を会場に入れてしまった。外交使節関係者の席は2階と定められていたが、警護員は文の希望する1階席に座ることを許可した[1][8]。ロビーで警察官が文をとがめると、大統領警護室の警護員が「長官に会いに来た人だ」とかばった[15]。
  • 会場1階席のB列とC列の間の中央通路の両端には12人の私服警察官が座っていた。しかし、文世光が1発目を撃ってから中央通路を駆け抜けて2発目を撃つまでの6秒間、12名の警察官は無反応であった[1][8]。
  • 文世光が客席(B-214席)で自身の左ももを誤射したとき、ふたつとなりの席(B-216席)に警察官が座っていたが、音に気が付かなった[1][8]。
  • 大統領警護室と韓国の警察である内務部治安局が、ともに警護の指揮所(Command post, CP)を設置していなかった[1]。
  • 警察は午前7時50分までに警察官の配置を完了した。ところが大統領警護室の警護2課1係の要員が国立劇場に到着したのは8時30分、2係の用意が到着したのは9時だった。式典が始まるまでの時間はわずか1時間。大統領警護室は警察に対して正確な指示をしたり、相互の協力関係を構築したりすることが困難な状況にあった[1][8]。
  • 警護者に課せられた第一任務は自身の体を投げて大統領と大統領領夫人の盾になることであった。しかし狙撃犯を制圧することを優先し、陸英修を死なせたばかりでなく、狙撃犯に向かって撃った流れ弾により一般市民の命まで奪う結果となった[1][8]。

影響

日韓関係

韓国政府は、「日本に永住する文世光が偽造された日本旅券で韓国に入国し、日本国内の派出所から盗んだ拳銃で朴大統領夫人を殺害したのだから、文の犯行についての責任は日本政府にある」と主張した。しかし、日本政府は、文の行動に対する道義的および法的責任を否認し、韓国側を激怒させた。これには1973年8月に発生した金大中の拉致事件に対する韓国側の対応も大きく関与していた。文世光の狙撃事件の前日の8月14日、外務部長官の金東祚は、駐韓大使の後宮虎郎を招き、金大中事件の捜査結果の報告書を手渡した。拉致現場に指紋を残し早々と本国に戻っていた金東雲について「容疑を本人が否認している」と無罪を主張し、韓国内の捜査と打ち切りと捜査本部の解散を後宮に告げた。本事件は、日本の捜査当局から反発と抗議の声が上がっていたときに起こった[43]。

8月17日付の朝日新聞、同月18日付の読売新聞はいずれも社説で、自由に対する抑圧が招来した自業自得として朴政権を非難し、韓国側の怒りをさらに高めた[44]。

謝罪のない日本側に対し、朴大統領は「日本は本当に友邦なのか?」と問いただし、ついには「中共だけが一番なのか。(日本と断交しても)安保、経済に問題はない」、「日本は赤化工作の基地となっている」という言葉まで出た。しかし、朴大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が水の泡になってしまう」と説得し、日韓双方で、

  • 日本政府が遺憾の意を表明する。
  • かかる事件の再発防止。
  • 捜査についての日本政府の協力。
  • 日本から特使派遣の合意をすること。

という内容で合意し、最悪の事態はまぬがれた。

8月19日、陸英修の葬儀(国葬)が執り行われ、日本からは田中角栄首相が出席した[44]。

8月29日、木村俊夫外相は参議院外務委員会の答弁の中で「北朝鮮の脅威があるかないかについては、これは韓国が判断すべき問題である。日本政府としては、現在客観的にそういう事実はないと判断する」と述べた[18]。これを受けて、かねてから金大中事件をめぐる問題で日本からの非難を受けたことにより鬱積していた反日感情が一気に爆発、連日日本大使館前には抗議のデモ隊が押し寄せ、9月6日には群衆が日本大使館に乱入し日章旗を焼き捨てる事態にまで発展した[45]。その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前にまで至った[注 4]。

事態を見かねた日本政府は9月19日に自民党親韓派の重鎮として、韓国国内でも評価の高かった椎名悦三郎副総裁を政府特使として訪韓させ、日韓の友好関係を改めて確認することによって両国間での問題決着がはかられた。朴大統領は椎名との面談の席上で、「日本政府が私達を友邦と考えるなら、喪中にある大統領一家や国民が悲しみと怒りに満ちているこの時に…」とし、「日本が引き続き、こんな風な姿勢を取れば、友邦とは認められないのではないか」、「(日本の姿勢は)政治と外交、法律に関係なく、東洋の礼儀上、ありえないこと」、「日本外務省には秀才やエリート官僚が集まっていると聞いたが、どうやってこのような解釈ができるのか」など、激しい言葉で日本を糾弾した。退出した椎名副総裁は「長い公職での人生でこれほど罵倒されたことはなかった」と憤懣やるかたない表情で語り、付き添っていた金鍾泌首相があわててなだめる一幕もあったという。

韓国側はこの事件の処理に強い不信感を抱き、日本側に朝鮮総連への規制を求め事実上認めさせた[46]。また、日本政府側が求めた金大中事件の容疑者引渡し等の全容解明を拒否し、事件の解明要求と引き換えに曖昧な政治決着で問題解決を図ろうとしたと言われている。なお、日本を朝鮮総連による「赤化工作基地」とみなす認識は、反共的な韓国の保守派・右派にとっては長らく反日感情の源泉となった。

北朝鮮との関係

この事件は金正日に「在日韓国人がテロを起こしたらどのようになるか」という考えをもたらし、それが大韓航空機爆破事件で2人の北朝鮮工作員を日本人化させ、結果として日韓関係を打ち砕こうとする策略のヒントをもたらしたと言われる[13][47]。

2012年7月5日の日本での講演会で『統一日報』の姜昌萬社長は、この事件以降、北朝鮮による日本における対南工作を韓国人から日本人に切り替える政策転換をしたのではないかとの見方を提出している[13]。対南工作とは、北朝鮮による南朝鮮(韓国)工作のことで、朝鮮半島の赤化統一、共産化統一にもとづく工作のことである[13]。姜社長は「いかにして済州島まで共産化するか、ということが彼らの基本的な路線です。その中で日本が対南工作の基地になったわけです」と同講演会で述べている[13]。

1970年の第5次党大会でナンバー2の権力を得た金正日が当時対南工作の指揮をとっており、日本人拉致などもこのような韓国人から日本人へと工作対象を変換したことと関連していると姜は指摘している[13]。

備考

  • 光復節記念式典の前日の8月14日、文は午前8時30分にホテルで、ステーキとライス2人分の朝食のルームサービスに依頼した。事件後、ソウル地検捜査本部は文のいた1030号室の灰皿から、葉巻とダンヒルのたばこのそれぞれの吸い殻を押収した[48]。捜査本部は「これら2点は8月14日の朝、文が共犯者に接触した状況証拠に当たる」として[48]捜査を進めたが、結局、共犯者を割り出すことはできなかった。
  • 犯行に使われた拳銃はS&WのM36(チーフスペシャル)で、弾丸は日本製だった。18.15メートルの距離から朴に向けて撃った弾が不発だったことについて、以下の背景事情が報じられている。1974年6月末時点で日本の警察が所持している拳銃は18万8052丁であった。その内訳は (1) S&W M36が1万9265丁、(2) S&Wの古い型が6万3750丁、(3) ニューナンブが10万5037丁。犯行に使われたM36(チーフスペシャル)は1割程度の警察官が持っている拳銃であったが、当時の警察の試射実験によれば、チーフスペシャルは米国製の弾丸を使った場合はほとんど100%の確率で発射したが、国産の弾丸では100発に1発の割合で不発が出ていた。警察庁の科学警察研究所や装備課は「原因はわからないが、米国製ピストルと国産の弾丸がなじまないとしか言いようがない」と取材に対し説明した。当時の大手紙は「文世光が派出所から盗んだ2丁の拳銃のうち、ニューナンブを使っていたら国産の弾丸となじんで不発はなかった公算が強い」と報じた[26]。
  • 文が在日韓国青年同盟生野北支部長を務めていたとき、大阪市天王寺区に住む金融業者Iが同支部で韓国語の講師に就いた。Iは韓国語の話せない文にも教えた。1974年6月中旬、Iは知り合いの暴力団員に「ピストルを調達してほしい」と頼んだ。そして文の暗殺未遂事件の翌日の8月16日、Iは妻子に何も告げず、事務所もそのままにして失踪した。それから1週間後にIは事務所に電話し「もうピストルは要らなくなった」と言った。事件後、周囲の関係者は朝日新聞の取材に応じ「今になってみると、文に意図的に近づいてきたような気もする」と述べた[15]。
  • 2002年、当時・ハンナラ党副総裁だった朴槿恵が北朝鮮を訪問した際、金正日総書記が北朝鮮の関与を認めて謝罪した。ただし「部下がやったことで自分は知らなかった」と述べた。そして、朴槿恵と金正日は「お互い二世同士、頑張りましょう」と打ち解けたという。

関連作品

  • 2001年、梁石日が文世光事件を題材にして小説「死は炎の如く」を発表した。後に「夏の炎」と改題され文庫化された。文をモデルにした在日の青年、宋義哲が主人公。70年代の大阪を舞台に、政治運動に身を投じる宋が、祖国へ思いを募らせながら謎の人物たちに導かれ、やがて学生時代の恋人と共に朴暗殺へと向かっていく。宋に目をつけ、大統領暗殺へと手引きする謎のグループの存在などフィクションと思われる要素を加えながらも、大阪の派出所から盗まれた拳銃で朴襲撃を実行に移すなどの実際の事件の詳細に沿ったストーリーが展開され、ベトナム戦争、朴政権とアメリカとの確執、金日成政権下の北朝鮮との関係、日本における政治運動や在日の人々の状況といった当時の国際関係や政治などを事件の背景に見ることができる。なお、梁石日は文世光に同胞として強い共感を抱いていると表明している[50]。
  • 2026年9月23日、事件をテーマにして描いた映画『暗殺者(たち)(朝鮮語版)』が韓国で一般公開された。監督はホ・ジノ[注 5]。しかし、事件の公式見解と異なる内容を描いたなどとして保守派や事件の遺族である朴槿恵らからの反発を招く事態となった。

脚注

注釈

  1. ↑ 統一日報の姜昌萬社長による。前掲、救う会全国協議会ニュース2012.7.13
  2. 1 2 1974年8月22日に開かれた参議院法務委員会で参議院議員の佐々木静子は東亜放送の放送時刻を「8月15日午前11時」と述べている[28]。
  3. ↑ 1974年9月2日に開かれた衆議院地方行政委員会で、衆議院議員の岩垂寿喜男が「警察庁は金浩竜に関する資料をこの時点(注・8月15日、16日)に韓国に送ったか」と質問すると、警察庁警備局長の山本鎮彦は「その時期にこちらから送った事実はございません」と答弁した。これを受けて岩垂は「金浩竜氏の名前が突然出てきて、そしてそれが自白の動機だというに至っては、事件の前から韓国捜査当局というのは金浩竜氏をマークしていたというふうに、常識的に考えざるを得ないのであります」と述べた[19]。
  4. ↑ 実際、在韓日本大使館の職員には撤収準備の指示が出されていた。
  5. ↑ 2024年1月16日、『KCIA 南山の部長たち』(2020年)や『ソウルの春』(2023年)などの製作会社として知られるハイブメディアコープが文世光事件を題材にした映画を準備中であると各メディアで報じられた。「文が発射した4発以外にも銃声音があったとする証言と記録をもとに、陸英修の死をめぐるミステリーを扱う」と映画の内容が告知され、タイトルも『暗殺者たち(암살자들)』と公表された[51]。のちにタイトルは『암살자 (들)』と、「たち」に丸かっこが付された。ユ・ヘジン扮する刑事の家と新聞社は当初室内セットで撮影を行う予定だったが計画を変更。キム・ビョンハン美術監督らスタッフは1960~70年代に建てられた建物を全国で探し、実際に見つけ出した空間を使って撮影が行われた[52]。文世光の妻は文の公判中、朝日新聞の取材に応じ「1974年7月と8月に『前田』と名乗る男からの電話を受けたが、男の声は朝鮮総聯の金浩龍の声とは違っていた」と証言[24]しているが、映画は、犯行に関与した人物として「前田」という創作したキャラクターを登場させている(演じたのは人気俳優のユ・ヨンソク)。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 정순태 (2010年2月3日). “대통령 경호실, 서거 25년 만에 陸英修 피격 사건의 현장 復元·反省·교훈 도출”. 월간조선. 2026年8月25日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 박신홍 (2005年1月21日). “74년 문세광 사건 문세광 네번째 총알에 육영수 여사 피격”. 중앙일보. 2026年8月25日閲覧。
  3. ↑ 유석재 (2026年8月14日). “유석재의 돌발史전 2.0 육영수 피살 직후 美보고서 "한국은 국민적 슬픔에 빠졌다"”. 조선일보. 2026年9月1日閲覧。
  4. 1 2 ““1호 동지를 사수하라”김정일 서울답방 2박3일 총력 경호작전”. 신동아 (2005年4月27日). 2026年8月25日閲覧。
  5. ↑ “8·15저격사건” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2026年5月29日閲覧。
  6. ↑ “<74年文世光事件>韓日政府、事件に見解の差”. 中央日報. 2005年1月20日. 2013年11月24日閲覧.
  7. ↑ 朴元在 (2005年1月20日). “日本マスコミは論評抜きで事実関係中心の報道”. 東亜日報. 2026年7月22日閲覧。
  8. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 “陸英修 저격 사건의 진실(3)”. 기자 趙甲濟 의 세계 (2005年6月2日). 2026年8月19日閲覧。
  9. 1 2 3 4 5 『朝日新聞』1974年8月16日付朝刊、1面、「朴大統領狙撃事件 犯人は在日韓国人 負傷の大統領夫人死ぬ」。
  10. ↑ Yoo Sok-jae (2026年8月14日). “1974 U.S. Report Details South Korea's Grief After First Lady's Death”. The Chosun Daily. 2026年8月19日閲覧。
  11. 1 2 3 “第73回国会 衆議院 法務委員会 第2号 昭和49年9月11日”. 国会会議録検索システム. 2026年8月20日閲覧。
  12. 1 2 3 4 『朝日新聞』1974年10月19日付朝刊、22面、「妻と兄、ナゾめく経過語る」。
  13. 1 2 3 4 5 6 救う会全国協議会ニュース2012.7.13、第67回東京連続集会「自由統一か独裁か ─ 朝鮮総連・北との闘い」文京区民センター記録。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会
  14. ↑ “第73回国会 参議院 決算委員会 閉会後第3号 昭和49年9月10日”. 国会会議録検索システム. 2026年8月20日閲覧。
  15. 1 2 3 4 『朝日新聞』1975年8月13日付朝刊、15面、「文世光事件 一年経って尽きぬナゾ」。
  16. ↑ “第75回国会 衆議院 予算委員会 第22号 昭和50年3月4日”. 国会会議録検索システム. 2026年8月20日閲覧。
  17. 1 2 3 4 5 ユ・ソクジェ (2026年10月6日). “ユク夫人倒れる映像に「あっ」、犯行認めたムン・セグァン 本紙、元担当検事の非公開回顧録入手”. 朝鮮日報. 2026年10月7日閲覧。
  18. 1 2 “第73回国会 参議院 外務委員会 閉会後第2号 昭和49年8月29日”. 国会会議録検索システム. 2026年8月20日閲覧。
  19. 1 2 3 “第73回国会 衆議院 地方行政委員会 第2号 昭和49年9月2日”. 国会会議録検索システム. 2026年8月20日閲覧。
  20. 1 2 “문세광 저격사건 5대 의혹”. KBS (2005年1月20日). 2026年8月25日閲覧。
  21. ↑ 2005年刊行の『拉致 国家犯罪の構図』金賛汀(ちくま新書)95pに「その後(※)、何人かの関係者からの証言で、日本に拠点を持つ朝鮮労働党連絡部の対日工作グループが計画・遂行したことが明らかになった。」との記述。(※)2002年の李謹恵議員の訪朝後
  22. ↑ 『朝日新聞』1974年10月3日朝刊、13版、23面、「ピストル盗難 文が単独で犯行」。
  23. ↑ 福嶋敏雄 (2013年11月4日). “後家どころか韓国大統領夫人殺し…大阪府警“大失態”の地 高津”. msn産経ニュース. 2013年11月24日閲覧.
  24. 1 2 3 “현대사 숨은그림찾기 한.일 정부가 덮은 진짜 배후 마에다 & 이케다- 「암살자(들)」 논란과 육영수 저격 사건의 진상⑤”. 통일시대 (2026年10月8日). 2026年10月8日閲覧。
  25. 1 2 “<光復節特集>「拉致」多発 禍根引きずる…朴大統領狙撃事件から40年”. 民団新聞 (2014年8月15日). 2025年6月24日閲覧。
  26. 1 2 『朝日新聞』1974年8月18日付朝刊、19面、「朴大統領救った100分の1の確率 生死をわけた銃の選択」。
  27. ↑ 竹中明洋 (2022年9月21日). “総連と民団の熾烈工作の歴史 銃撃事件の後、朴正煕大統領は日本の捜査に激怒した”. NEWSポストセブン. 2026年10月10日閲覧。
  28. 1 2 3 4 “第73回国会 参議院 法務委員会 閉会後第1号 昭和49年8月22日”. 国会会議録検索システム. 2026年8月20日閲覧。
  29. ↑ “문세광은 진범이 아닐 수 있다? 육영수 여사 피살사건의 남은 의혹들 | 그알 캐비닛”. それが知りたい (2020年1月31日). 2026年10月1日閲覧。
  30. ↑ “스브스夜 '꼬꼬무2' 8·15 저격사건 '음모론' 조명…'23세 테러리스트' 문세광, 그 배후는?”. SBS NEWS (2021年4月9日). 2026年9月4日閲覧。
  31. 1 2 3 4 “문세광 자백 사건의 오해와 진실”. 일요시사 (2014年9月22日). 2026年9月10日閲覧。
  32. ↑ “ニュース展望 〈1974~1977〉”. NHK. 2026年9月10日閲覧。
  33. ↑ キム・テオン (2026年9月11日). “1974年の銃声を追う「暗殺者(たち)」 パク・ヘイル「真実は実に難しい言葉」”. 東亜日報. 2026年9月14日閲覧。
  34. 1 2 『조선일보』1974년8월16일、조간、"朴大統領 狙撃 모면".
  35. 1 2 정용인 (2026年9月29日). “김기춘 미공개 회고록에 담긴 문세광 사건…“일본 공동수사 제의, 내가 막았다””. 주간경향. 2026年10月6日閲覧。
  36. ↑ 김경학 (2017年1月31日). ““선생은 <자칼의 날>을 읽었소?”…진술거부 최순실 자백 이끌 특검 무기는?”. 경향신문. 2026年8月31日閲覧。
  37. 1 2 김덕련 (2018年2月17日). “'유신 최대 조작극' 김기춘은 뭘 했을까?”. 셜록. 2026年8月31日閲覧。
  38. ↑ 尹景徹 1986, pp. 376–377.
  39. ↑ “朴鐘圭(박종규) 警護室長(경호실장) 辭表(사표)수리”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1974年8月21日). 2022年7月3日閲覧。
  40. ↑ 김수병 (2026年5月15日). “충성이라는 이름의 성전... 그는 유신의 제사장이었다”. 오마이뉴스. 2026年8月5日閲覧。
  41. ↑ 권대열 (2005年1月22日). “한일협정·문세광사건 문서공개 사형집행장 문세광의 최후진술”. 조선일보. 2026年10月7日閲覧。
  42. ↑ “衆議院議員小林進君提出金大中事件及び文世光事件に関する質問に対する答弁書(昭和50年7月11日)”. 衆議院. 2026年8月19日閲覧。
  43. ↑ 金大中 著、NHK取材班 訳『わたしの自叙伝―日本へのメッセージ』日本放送出版協会、1995年3月31日、418-420頁。
  44. 1 2 李庭植 1994, pp. 118–120.
  45. ↑ 池東旭著 「韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落」 p.115
  46. ↑ 『朝日新聞』1974年9月20日朝刊、13版、1面、「日韓協調へ努力 椎名・朴会談で確認 補足メモも渡す 田中親書と同時に」。
  47. ↑ 西岡力による。前掲、救う会全国協議会ニュース2012.7.13
  48. 1 2 『朝日新聞』1974年8月21日付朝刊、3面、「ホテルで朝食2人分 ソウル地検 文の共犯関係追及」。
  49. ↑ 東アジア反日武装戦線KF部隊『反日革命宣言 : 東アジア反日武装戦線の戦闘史』鹿砦社、1979年。ASIN B000J8E0KE
  50. ↑ NHK知るを楽しむ選 人生の歩き方 梁石日 “血”の咆哮(ほうこう) 第4回 2009年2月13日放送。[出典無効]
  51. ↑ 이정우 (2024年1月16日). “‘서울의 봄’ 제작사, ‘문세광’ 영화화한다 … 연출은 허진호 감독”. 문화일보. 2026年8月25日閲覧。
  52. ↑ 오승현 (2026年9月1日). “'암살자(들)' 박해일·이민호 첫 촬영 어땠나”. JTBC. 2026年9月4日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク