『春夜』(しゅんや)は、北宋の詩人・蘇軾(蘇東坡)が詠んだ七言絶句。起句の「春宵一刻直千金」は名句として有名で[1][2]、成語「一刻千金」の元にもなっている[3]。

本文

春夜
春宵一刻直千金 春宵一刻 直千金
しゅんしょういっこく あたいせんきん
春のよいのひとときは、千金の価値がある。
花有清香月有陰 花に清香有り 月に陰有り
はなにせいこうあり つきにかげあり
花はすがすがしい香りにつつまれ、月はおぼろにかげって光もやわらか。
歌管楼台声細細 歌管 楼台 声 細細
かかん ろうだい こえ さいさい
にぎやかな歌や管弦の音が響いていた高殿も、すっかり騒ぎがしずまって、
鞦韆院落夜沈沈 鞦韆 院落 夜 沈沈
しゅうせん いんらく よる ちんちん[3]
ぶらんこのある中庭に、夜が静かにふけてゆく[4]。

解釈

春の花見や[3]月見に[5]かこつけた宴の華やぎよりは、むしろ宴が果てた月夜の庭の閑雅に風情を見出す風流人の心持ちを詠んでいる[6][7]。

春の夜はほんの僅かな時間でも千金の価値があるという起句は[8]、時間という無形なものを金銭という即物的な価値に置き換える機知が妙味となっている[9][10][7]。

起句
承句
転句
結句

まず起句で春の夜の麗しさを詠み[10]、承句は句中対によって[9]「値千金」の舞台装置を説明している[10]。転句で歓楽の後の静寂を示し[10]、結句では中庭にひっそり垂れ今は遊ぶものも居なくなったブランコに更けゆく夜の静けさを象徴させている[10]。転句と結句は対句仕立てで[9]、中国語の孤立語の性格を生かして[13]名詞を並べただけの構成がむしろ余情を生んでいる[9]。

制作

制作年は不詳だが[1]、蘇軾の後半生は相次ぐ左遷で地方を転々することが多かったことからして[3]、おそらく若い頃に[10][1]開封の都の[5]宮中で宿直をしていた時[8]、あるいは30代後半に杭州で副知事を務めていた時[11]に詠んだ作品と思われる。

『春夜』は蘇軾の詩集に収められていないため、他人の作とする説もある[3]。

評価

この詩の訓読は、承句を除きどれも頭から順に読み下すため、それによる独特なリズムが日本でこの詩が愛唱される一つの要因ともなっている[4]。

影響

起句は古くから人々に愛唱されてきた[9]。現在でも『春夜』は日本で折に触れて口ずさまれ[6]、引用されることも多い[13]。日本の文学にも大きな影響を与えており[9]、『春夜』を踏まえた作品として次のようなものが挙げられる。

謡曲『田村』では「春宵一刻直千金、花に清香月にかげ」と歌われたり[9]、与謝蕪村は「春の夜や 宵あけぼのの 其(その)中に」[17]の前書きに「もろこし(中国)の詩客は千金の宵ををしみ、我朝の歌人はむらさきの曙を賞す」と記して『枕草子』の「春はあけぼの」と共にこの『春夜』を挙げている[11]。 「春宵一刻値千金」は、日本では歌舞伎の石川五右衛門の台詞で知られている。 「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両」(『金門五山桐』(きんもんごさんのきり)「山門」の場)

京都の古刹・南禅寺山門を眺めて五右衛門が見栄を切る。 滝廉太郎の「花」でも「春宵一刻値千金」の文句が効果的に取り入れられている。 「錦おりなす長堤に くるればのぼるおぼろ月 げに一刻も千金の ながめを何にたとふべき

「春宵一刻直千金」「花有清香月有陰」の二句は禅語として晩春の茶席によく掛けられる[11]。

脚注

  1. 1 2 3 4 志賀一朗『漢詩の鑑賞と吟詠』大修館書店〈あじあブックス〉、2001年、74頁。ISBN 978-4469231717。
  2. 1 2 3 4 5 6 三羽邦美『おとなのためのやさしい漢詩教室』瀬谷出版、2017年、48-49頁。ISBN 978-4902381368。
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 佐藤正光『愛 そのさまざまな形 自然への愛』NHK出版〈NHKカルチャーラジオ 漢詩をよむ〉、2019年、23-24頁。ISBN 978-4149110073。
  4. 1 2 3 4 5 6 田部井文雄、高木重俊『漢文名作選 3 漢詩』(監修)鎌田正、大修館書店、1984年、11-12頁。ISBN 9784469130331。
  5. 1 2 石川忠久、中西進『石川忠久・中西進の漢詩歓談』大修館書店、2004年、25-29頁。ISBN 978-4469232301。
  6. 1 2 3 4 横田輝俊『蘇東坡 ― 天才詩人』集英社〈中国の詩人 ― その詩と生涯 11〉、1983年、188-189頁。ISBN 978-4081270118。
  7. 1 2 田口暢穂 著、松浦友久 編『自然への讃歌』東方書店〈心象紀行 漢詩の情景 1〉、1990年、24頁。ISBN 978-4497903013。
  8. 1 2 石川忠久(監修) 著、NHK取材グループ 編『漢詩紀行(二)』NHK出版、1993年、96頁。ISBN 978-4-14-080081-2。
  9. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 渡部英喜『漢詩歳時記』新潮社〈新潮選書〉、1992年、62-65頁。ISBN 978-4106004230。
  10. 1 2 3 4 5 6 7 8 石川忠久『春の詩100選 ― 漢詩をよむ』NHK出版〈NHKライブラリー〉、1996年、37-39頁。ISBN 978-4140840252。
  11. 1 2 3 4 5 6 諸田龍美『茶席からひろがる 漢詩の世界』淡交社、2017年、52-61頁。ISBN 978-4473041982。
  12. ↑ 近藤光男『蘇東坡』小沢書店〈中国名詩鑑賞〈7〉〉、1996年、158-159頁。ISBN 978-4755140471。
  13. 1 2 3 4 5 一海知義『漢詩一日一首 〈春〉』平凡社、2007年、119-122頁。ISBN 978-4582766196。
  14. ↑ 鷲野正明『基礎からわかる 漢詩の読み方・楽しみ方 読解のルールと味わうコツ45』メイツ出版、2019年、54頁。ISBN 978-4780421590。
  15. 1 2 3 4 黒川洋一 編『中国文学歳時記 春[下]』同朋舎出版、1988年、46-47頁。ISBN 978-4810406597。
  16. ↑ 一海知義『漢詩放談』藤原書店、2016年、129-130頁。ISBN 978-4865780994。
  17. ↑ 春の夜の魅力は宵と曙の中間にもあるものだ、といった意
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