本橋明泰

ウィキペディアから、無料の百科事典

本橋 明泰(もとはし あきやす、1939年10月30日 - )は日本の元レーシングライダー、元レーシングドライバーである。

東京都出身。

経歴

ヤマハから世界GP

大学在学中にアマチュアでバイクレースに参戦を開始。1962年にヤマハ発動機と契約、オープンしたばかりの鈴鹿サーキットで行われた第1回全日本ロードレース選手権のノービス250ccクラスに参戦し、決勝こそリタイヤに終わったものの予選でポールポジションを獲得し片鱗を見せつける。

1964年の鈴鹿で開催された日本グランプリにて世界グランプリに初参戦を果たし、125ccクラスで6位入賞。1966年には同じ日本グランプリにて250ccクラスで3位表彰台、1967年のマン島TTでは125ccクラス3位表彰台を獲得する等活躍した。

日産からレーシングドライバーとして

1969年に日産自動車のワークスドライバーのオーディションに合格、大森ワークス所属でレーシングドライバーとして活動を開始。全日本ドライバー選手権や富士1000km等の耐久レースに日産・スカイライン2000GT-Rや日産・ブルーバードSSSを駆り参戦。その一方でFL500等の軽フォーミュラにも参戦し、優勝する等活躍した。

ヤマハに復帰

ヤマハがワークス活動再開に伴い復帰。1977年に引退するまでに、数多くのレーシングマシンの開発や金谷秀夫、高井幾次郎、平忠彦等の後進育成にも貢献した。

戦績

2輪

ロードレース世界選手権

年 クラス 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
1964年 125cc ヤマハ USA SPA FRA IOM NED GER DDR ULS FIN ITA JPN
6
24位 1
1966年 250cc ヤマハ SPA GER FRA NED BEL DDR TCH FIN ULS IOM ITA JPN
3
14位 4
125cc ヤマハ SPA GER NED
5
DDR TCH FIN ULS IOM ITA JPN
4
8位 5
1967年 250cc ヤマハ SPA GER FRA IOM NED BEL DDR TCH FIN ULS ITA CAN JPN
2
9位 6
125cc ヤマハ SPA GER FRA IOM
3
NED DDR TCH FIN ULS ITA CAN JPN 12位 6

4輪

鈴鹿1000km

年 チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1970年 日本の旗SCCN 日本の旗星野一義 日産・ブルーバードSSS T-Ⅱ 136 13位 6位

富士1000km

年 チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1970年 日本の旗SCCN 日本の旗田村三夫 日産・ブルーバードSSS T-Ⅱ 217 6位 1位
1971年 日本の旗柳田春人 日産・フェアレディ240Z 12 R-Ⅲ DNF DNF

その他4輪の戦績

年 レース チーム 使用車両 クラス 結果
1969年 富士スピードフェスティバル富士300kmゴールデンシリーズⅣ 日本の旗SCCN 日産・スカイライン2000GT-R セダンⅢ 5位
1970年 全日本鈴鹿自動車500kmレース 日産・スカイライン2000GT-R T-Ⅱ 3位
第12回全日本クラブマン 日産・スカイライン2000GT-R TS-Ⅳ 8位
北海道スピードウェイ・オープニング・レース大会 日産・ブルーバードSSS T-Ⅱ 3位

エピソード

  • 金谷秀夫や平忠彦等のワークスライダーを育成する等、ライダーやドライバーの能力や素質を見抜くのに長けている。
    • 大森ワークスで同期だった星野一義は本橋が日産ワークス活動休止とヤマハワークス活動再開でヤマハに戻る事になった際、星野も日産を離脱を考えていたが、「お前は残れ。日産で大きくなれ」と言われて残った。その後、星野は「日本一速い男」として国内4輪レースで君臨する事になる。
    • ヤマハのワークスライダーとして1977年のロードレース世界選手権の350ccでチャンピオンを獲った片山敬済を「世界チャンピオンを獲るには、ただレースに速いだけでは駄目で、生活全般にわたって欧米人ライダーと戦えなければならない。そういう意味でも、彼はよくやったと思う」と評価していた[1]。

脚注

出典

  1. ↑ 『グランプリ・ライダー』(p222, p223)より。