材木座海岸

材木座海岸(ざいもくざかいがん)は、神奈川県鎌倉市材木座にある海岸で、相模湾に面する。海岸のほぼ中央に河口を持つ滑川(なめりがわ)を境に、東側を材木座海岸、西側を「由比ヶ浜」と呼ぶ。東端付近からは藤沢市の江の島を望むことができる。鎌倉市内の代表的な海岸の一つであり、夏季には海水浴場が開設される[1][2]。
歴史・由来
地名の由来と中世の港
材木座の地名は、鎌倉時代に存在した商工業者の座の一つである「材木座」に由来するとされる。鎌倉七座には、米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座があったとされ、材木座は材木などの取引に関係する集団の名称であった。
鎌倉時代、材木座周辺の海岸は船舶の寄港地として利用され、和賀江津と呼ばれた。鎌倉市の景観資料によると、和賀江嶋に船着場が築かれた後、材木などの建築資材の集散地として一層にぎわったとされる[3]。
材木座海岸は遠浅であり、波や風の影響を受けやすかったことから、船の停泊や荷揚げには困難が伴った。1232年(貞永元年)、往阿弥陀仏の発願を受けて築かれたとされる和賀江嶋は、船舶の安全な停泊と荷揚げを助けるための築港施設である。現在も鎌倉市と逗子市にまたがる海域に遺構が残り、国の史跡に指定されている。文化庁の資料では、現存する日本最古の築港遺跡として紹介されている[4][5]。
材木座の名称は、鎌倉時代の商工業者の座に由来するという説のほか、材木の集散地として栄えたことと結び付けて説明されることもある。
江戸時代には、現在の材木座周辺は材木座村と内陸側の乱橋(みだればし)村に分かれていた。のちに両村は合併して大字「乱橋材木座」となり、住居表示の実施に伴って材木座一丁目から六丁目に分かれた。
また、源実朝が宋(中国)に渡るために大船を建造させたものの、海岸が遠浅であったため船を進水させられなかったという伝承が残る。鎌倉観光公式ガイドでも、この逸話が材木座海岸の歴史に関する伝承として紹介されている[6]。
海水浴場の成立と近現代
明治時代には海水浴場となり、夏目漱石の小説『こころ』に描かれたことでも知られるようになった。
2013年、鎌倉市は材木座・由比ガ浜・腰越の市内3海水浴場について、命名権(ネーミングライツ)のスポンサーを募集した。『鳩サブレー』で知られる地元の菓子店・豊島屋が命名権を取得し、10年間の契約を結んだ[7][8]。
その後、海水浴場の愛称が公募されたが、従来の名称を維持してほしいという意見が寄せられたことから、材木座海水浴場・由比ガ浜海水浴場・腰越海水浴場という名称が引き続き使用されることになった[9][10]。
2014年、鎌倉市は公共の場所におけるマナー向上に関する条例を制定し、海水浴場での飲酒や喫煙、音響機器、裸火の使用などを規制した。
2020年は、新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、海水浴場の開設が見送られた[11]。 2021年も、地域住民から寄せられた不安の声などを受けて開設が見送られた。一方、海岸ではライフガードによる監視、看板や警備員による注意喚起などが行われ、約8万人の観光客や海水浴客が訪れた。2022年には、感染拡大以前の開設状況に復帰した[12]。
近年は、海水浴場の安全確保や利用方法の多様化への対応が進められている。鎌倉市は2023年から、ソフトサーフボードなどを使用してマリンスポーツを始めるための「ソフトボードエリア」を設置している。海水浴場の開設期間には、ライフガードによる監視や遊泳区域の設定などの安全対策が行われる[13]。
海岸の利用と景観
材木座海岸は、鎌倉市内の海岸のなかでも東側に位置する。遠浅の砂浜が広がり、海岸からは相模湾を望むことができる。鎌倉市の景観百選にも選定されており、季節や時間帯によって変化する海と空の景観が紹介されている[14]。
海岸の西端には和賀江嶋があり、干潮時には石積みの遺構の一部が海面上に現れる。和賀江嶋は、鎌倉時代の港湾・交易活動を伝える史跡である[15]。
材木座海岸では、貝殻やシーグラスのほか、陶磁器片などを探すビーチコーミングも行われる。和賀江嶋周辺は中世の港として利用された歴史を持ち、海岸に陶磁器片が漂着することがあると逗子市の文化財資料でも紹介されている[16][17]。
海水浴場の開設期間は例年7月から8月であり、鎌倉市では材木座・由比ガ浜・腰越の3海水浴場を開設している。2026年も7月1日から8月31日までの開設が案内された。海岸の利用に当たっては、遊泳区域や現地の掲示、監視員の指示に従う必要がある[18][19]。
遺跡
1953年、鶴岡八幡宮の一の鳥居と海岸の間に位置する材木座遺跡で発掘調査が行われ、約650体の人骨と大量の馬や犬の骨が出土したとされる[20][21]。
東京大学総合研究博物館の資料によると、材木座遺跡では1953年と1956年に発掘調査が行われ、大量の中世人骨が出土した。現在、同館ではこれらの人骨資料をデータベース化して公開している。博物館の解説では、出土した人骨の多くは全身骨格ではなく、頭骨や四肢骨などの一部であり、複数の骨坑に集められていたとされる[22][23]。
この遺跡は、鎌倉時代末期の14世紀前半に形成されたものと考えられている。調査に当たった鈴木尚は、人骨に認められた損傷などから、新田義貞による鎌倉攻めの戦死者との関連を推定した。出土した人骨は東京大学総合研究博物館に所蔵されている[24]。
一方、東京大学総合研究博物館の英語版解説では、1953年と1956年の発掘で910人を超える個体が確認されたとされる。また、頭蓋骨に見られる損傷について、すべてを戦闘による負傷と解釈することはできないと説明している。したがって、出土人骨の数量や損傷の原因については、調査報告ごとの集計方法と解釈を区別する必要がある[25]。
出土した馬骨の大半は軍馬とみられている。四肢骨の最大長から推定された体高は平均129.5センチメートルで、日本在来馬の中型馬に相当し、小型馬も含まれていたと考えられている[26]。
史跡
座標: 北緯35度18分22.5秒 東経139度32分55秒 / 北緯35.306250度 東経139.54861度
脚注
- ↑ “7 材木座海岸”. 鎌倉市. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “海水浴場”. 鎌倉市. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “7 材木座海岸”. 鎌倉市. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “史跡和賀江嶋”. 文化庁. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “逗子市内の重要文化財”. 逗子市. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “材木座海岸”. 鎌倉市観光協会. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “海水浴場のネーミングライツ、スポンサーを募集/鎌倉”. 神奈川新聞. 2013年4月4日. 2021年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2021年3月9日閲覧.
- ↑ “鎌倉の海水浴場、鳩サブレー老舗・豊島屋が命名権者に/神奈川”. 神奈川新聞. 2013年5月16日. 2021年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2021年3月9日閲覧.
- ↑ “海水浴場名は変えず 命名権で豊島屋「市民の親しみ」優先”. 神奈川新聞. 2014年5月16日. 2020年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2021年3月9日閲覧.
- ↑ “豊島屋のトピックス”. 豊島屋. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “独自ルールで異例の夏へ 市が海岸安全対策を決定”. タウンニュース (2020年7月14日). 2025年1月16日閲覧。
- ↑ “3年ぶりに海水浴場開設 感染対策し7月1日から”. タウンニュース (2022年5月27日). 2025年1月16日閲覧。
- ↑ “令和7年度鎌倉市海水浴場の開設について”. 鎌倉市 (2025年6月12日). 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “7 材木座海岸”. 鎌倉市. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “30 和賀江嶋”. 鎌倉市. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ https://www.bepal.net/archives/203728
- ↑ “逗子市内の重要文化財”. 逗子市. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “令和8年鎌倉の海水浴場特集”. 鎌倉市観光協会. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “海辺でのバーベキューについて”. 鎌倉市. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ 茂原信生・小野寺覚「鎌倉材木座遺跡出土の中世犬骨」『人類學雜誌』第95巻第3号、1987年、361–379頁、doi:10.1537/ase1911.95.361。
- ↑ 平田和明・長岡朋人・星野敬吾「鎌倉市由比ヶ浜地域出土中世人骨の刀創」『Anthropological Science (Japanese Series)』第112巻第1号、2004年、19–26頁、doi:10.1537/asj.112.19。
- ↑ “鎌倉材木座中世遺跡出土人骨”. 東京大学総合研究博物館. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ “中世人骨データベース:材木座遺跡(由比ガ浜中世集団墓地遺跡)”. 東京大学総合研究博物館. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ 日本における槍の出現とその受傷痕‐鎌倉材木座遺跡出土人骨の例から 東京大学人類学演習IV談話会[リンク切れ]
- ↑ “Medieval human skeletons from Zaimokuza, Kamakura”. The University Museum, The University of Tokyo. 2026年10月14日閲覧。
- ↑ 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究』講談社学術文庫、2010年、50頁(原著1996年)。