東京相和銀行

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株式会社東京相和銀行
The Tokyo Sowa Bank
種類 株式会社
市場情報
東証1部 8534
1999年9月13日上場廃止
本社所在地 日本の旗 日本
〒107-0052
東京都港区赤坂1-6-16
設立 1950年2月
業種 銀行業
金融機関コード 0526
SWIFTコード TSBKJPJT
事業内容 普通銀行業務
資本金 763億円
従業員数 1,811人
支店舗数 101
決算期 3月31日
特記事項:1999年3月末のもの
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株式会社東京相和銀行(とうきょうそうわぎんこう)は、かつて存在した第二地方銀行。本店は東京都港区赤坂に置いていた。

社史

殖産会社から無尽業→相互銀行に

東京相銀の淵源は、都内で殖産会社(日掛金融)を行っていた東京殖産・平和勧業・東京興産の3社に遡る。東京殖産は3社の中で一番規模が大きく、戦前中国大陸で事業展開していた藤本巳喜を中心として創業。平和勧業は、元国鉄職員[1]の長田庄一が戦後の混乱に乗じて得た資金を元手に開業。東京興産は弁護士の小野喜作と田邊義助が中心となって創立された。

その後金融当局によって一定規模を満たす条件で殖産会社には無尽業法の正式な免許を与え、加えて殖産会社の統合・合併を行うる方針を示したことから、1950年2月に前述3社に加えて愛知県で営業していた名古屋殖産の都内営業分などが合同し東京協和殖産無尽株式会社を設立。社長には藤本が会長には元日本電力専務だった内藤熊喜を迎えた。翌1951年10月に相互銀行法が制定・施行されるといち早く相互銀行転換を表明し、東京相互銀行として発足した[2]。

第二地銀のトップバンク

東京相銀発足時に長田は常務であったが早々と経営陣の内紛さらに行内の乱脈不祥事が表面化し、相銀転換直後の1951年に藤本社長・内藤会長が揃って退陣し東急電鉄から尾川武夫を社長に迎える。尾川社長の下で長田も重用され、都銀からの買収攻勢や大蔵省による役員派遣などを跳ね除け1969年5月に46歳で長田が社長に就任。東京相銀の持ち株は既に尾川・長田の両氏で多くを占められていたものの、社長就任後に長田はファミリー企業を介して株を買い占め銀行オーナーの地位を盤石なものとした[3]。これに加えて自分の一族が経営していた朝日建物を中心に淡島ホテル・長泉山荘(現・ウィンダムガーデン長泉)・東京湾トロットクルーズといったファミリー企業への投融資を行わせ、営業店にはゴルフ場やリゾート施設の会員権を融資と組み合わせて顧客に販売させていた[4]。こうした公私混同の目立った営業はローヤルゼリー販売でも行われ、国会でも違法ではないかと追及を受け1975年には社長を退く。しかし、その後も会長として引き続きワンマン体制を維持した[5]。      

長田は山梨県北巨摩郡安都玉村(現:北杜市)出身だが、俗に甲州財閥と呼ばれる一派を形成していた地縁からか平和相互銀行の小宮山英蔵や国際興業グループを率いた(後に国民相互銀行を傘下に収める)小佐野賢治らと知己になったりした。加えて池田勇人元首相ら政治家の知遇を得て、中央政界や大蔵省などにも強い繋がりを持ったとされる。本店を持つ第二地方銀行がない山梨県では、東京相和銀行は県外から進出していた金融機関では最も多い5支店を置いていた[注釈 1]。

長田は手記で、「銀行が、経済界で大きな顔をしていることが間違い。私たちは実業の手伝いをするわき役」と述べていたが、実態はファミリー企業や、交友関係のある不動産会社やアイチなどのノンバンクに対する不透明な融資に傾斜し[6]、「東京・銀座や赤坂の飲食店のメーンバンク」と言われた[7]。また、三井銀行と親密な関係にあったことから、度々合併が噂され、その合意寸前までいったこともある。しかし、長田自身が要求したポストは「新・三井銀行代表取締役会長」職であったため、三井側が難色を示しご破算になった[8]。

1989年2月、普通銀行への転換により東京相和銀行となり、「東の東京相和、西の兵庫銀行」と呼ばれ、資金量などを巡って第二地銀トップの座を競った。奇しくも両行とも後に経営破綻・営業譲渡の道を歩むこととなる。

バブル崩壊から経営破綻へ

バブル景気が崩壊すると、東京相和銀行も経営不安がささやかれるようになり、1997年より2年の計3回、総額950億円に及ぶ増資を行った。しかしその3割は、取引のある消費者金融業者に増資分を経由させて、関連会社3社に迂回融資したものであり、後に裁判において架空増資との判決に至る[9]。ただし、融資には何れも実態のある担保が設定されていたことが裁判で明らかにされている。弁護側は、「検察側が債務の帳消しを餌に消費者金融業者に見せ掛け融資であったとの偽証をそそのかした」と主張。弁護側証人となった消費者金融の社長は、供述調書を全面撤回し、涙ながら担保を入れた実態融資であったと証言しており、本事件がバブル崩壊後に金融監督庁が検察庁と手を組んで実施した国策捜査の1つとの見方もある[10]。

1998年に入り長田と個人的なつながりがあった三井埠頭、ヤオハン等が相次いで破綻。その後の金融監督庁の金融検査の結果、1998年9月期で1189億円もの債務超過が公表された。株価下落に加え、経営不安から2000億円近い預金流出が止まらず、増資手段も力尽きていた。

1999年6月12日、金融再生委員会が東京相和銀行に金融整理管財人による業務及び財産の管理を命じ破綻認定した。時同じくして国民銀行、幸福銀行、新潟中央銀行といった、オーナー色の強い第二地方銀行が相次いで破綻しており、「ワンマン経営の結果、不良債権が積み上がる」マイナス面を印象づけた。2000年5月11日警視庁捜査2課・東京地検特捜部は不正増資疑惑で長田ら旧経営陣6人を逮捕。2003年2月、東京地裁は長田に、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を言い渡した[11]。翌04年、長田は弁護士の助言によって、東京高裁への控訴を取り下げ、一審判決が確定した[10]。

2000年6月27日、米国のアジア・リカバリー・ファンドが中心となって組成の(仮称)「日本さわやかパートナーズ社」が創設する銀行持株会社傘下の新設銀行子会社の一つに同行の営業譲渡を行う基本合意書が締結された。2001年6月11日、アメリカの投資ファンド会社であるローンスターが設立した、株式会社東京スター銀行に営業譲渡した[12]。同年7月23日付で金融機能の再生のための緊急措置に関する法律第22条に基づく裁判所の許可決定により解散、以後は清算会社となり、清算に9年近くもの歳月を要した末、2010年3月11日付で清算が終了し、完全消滅している。

なお、東京相和銀行の破綻処理には金銭贈与や債権買い取りで約8000億円の公的資金が使われている。

2001年には、実質子会社の東総(旧・相和不動産)が自己破産した[13]。

沿革

  • 1949年(昭和24年):東京興産株式会社、東京殖産株式会社、平和勧業株式会社設立。
  • 1950年(昭和25年):東京興産株式会社、東京殖産株式会社、平和勧業株式会社3社の業務継承のため東京協和殖産無尽株式会社設立。
  • 1951年(昭和26年)
    • 1月、東京殖産無尽株式会社と商号変更。
    • 10月、株式会社東京相互銀行と商号変更。
  • 1953年(昭和28年):東都医師信用組合設立。
  • 1956年(昭和31年):東京慈光信用組合設立。
  • 1961年(昭和36年):東京慈光信用組合、東京貯蓄信用組合と改称。
  • 1970年(昭和45年):東京貯蓄信用組合を合併。
  • 1974年(昭和49年):東都医師信用組合を合併。
  • 1989年(平成元年):金融機関の合併及び転換に関する法律(昭和43年法律第86号)に基づく認可により普通銀行に転換し、株式会社東京相和銀行と商号変更。
  • 1999年(平成11年):金融再生委員会により、金融整理管財人による業務および財産の管理を命ずる処分を受ける(事実上の破綻)。
  • 2001年(平成13年):アメリカの投資ファンド会社ローンスターが設立した、株式会社東京スター銀行に営業譲渡。
  • 2004年(平成16年):長田庄一被告は、東京高裁への控訴を取り下げ、懲役3年・執行猶予5年の一審判決が確定。

その他

普通銀行転換後の商号を「東京相和銀行」とした理由の一つに、略称を相互銀行時代と同じ「東京相銀」とする目的があったとされる[8]。また、同様の改称を行った第二地銀として広島総合銀行(旧広島相互銀行、略称は普銀転換前後で共に「ヒロソー」、現:もみじ銀行)が挙げられる。

長田は個人的にフランスに人脈をもち、レジョンドヌール勲章を受章、ジャック・シラク前大統領と親密だと喧伝していた。東京相和銀行破綻後の2002年、仏国諜報機関対外治安総局(DGSE)が、長田との関係を調べる動きを見せていたと報道されたことがある[14][注釈 2]。 また、2007年5月には、シラクが同行に口座を所有し、謎の「文化財団」から定期的に巨額の振込みを受け、預金残高が3億フラン(約65億円)に達していたとする情報当局者の証言が報道された[15][注釈 3]。さらに、前述の疑惑は同年5月のフランス大統領選挙が終了した直後にも「大統領退任により免責特権が無くなったシラクに司直が及ぶのではないか?」、との報道がなされている。

1967年8月、板橋支店において1億円の小切手がすり替えられる事件が発生。金融ブローカーが指名手配された[16]。

脚注

注釈

  1. ↑ 甲府支店、甲府昭和通支店、石和支店、竜王支店、富士吉田支店。いずれも閉店している。
  2. ↑ DGSEは国防大臣の指揮下にある。当時は第3次コアビタシオンによる社会党内閣で、リオネル・ジョスパン首相は、その年の大統領選挙におけるシラクの対立候補であった。
  3. ↑ これに関して、シラク側近筋は「大統領は東京相和銀行に口座を持ったことはない」と直ちに報道を否定した。前回同様、次期大統領選挙候補をめぐる、ドミニク・ガルゾー・ド=ビルパン首相とニコラ・サルコジ内相との政争に絡む証言との見方もある。

出典

  1. ↑ 『銀行の墓碑銘』p.82
  2. ↑ 『銀行の墓碑銘』p. 83
  3. ↑ 『銀行の墓碑銘』pp. 85‐86
  4. ↑ 『銀行の墓碑銘』pp.86‐87
  5. ↑ 『銀行の墓碑銘』p. 86
  6. ↑ “NHKの籾井会長が社外取締役を務めたグローバルアジアホールディングスの事件史(後)”. データ・マックス NETIB-NEWS. 株式会社データ・マックス (2016年3月15日). 2026年7月4日閲覧。
  7. ↑ 『銀行の墓碑銘』p.89
  8. 1 2 『銀行の墓碑銘』p.88
  9. ↑ “189億円支払い命令 東京相銀架空増資で”. 共同通信. 47NEWS. 2006年5月25日. 2013年10月6日閲覧.
  10. 1 2 『銀行の墓碑銘』p.97
  11. ↑ 東京地判平成15年2月18日刑集59巻10号1957頁
  12. ↑ “金融担当大臣談話 - 東京相和銀行の譲渡先の選定及び営業譲渡契約の締結について -”. 金融庁. 2001年1月25日. 2013年10月6日閲覧.
  13. ↑ 三谷忠之法律事務所/倒産事件情報(archive版)
  14. ↑ “仏治安総局のトップ更迭 大統領の疑惑背景か”. 共同通信. 47NEWS. 2002年7月24日. 2013年10月6日閲覧.
  15. ↑ 『銀行の墓碑銘』p.99
  16. ↑ 捜査陣を増強『朝日新聞』昭和42年9月1日朝刊、12版、15面

参考文献