桃井直詮

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桃井 直詮
「桃井直詮像 伝土佐光信筆」東京国立博物館所蔵
時代 室町時代
生誕 1360年?/1403年?
死没 1480年?
改名 幸若丸→桃井直詮
別名 幸若大夫
墓所 心月寺
幕府 室町幕府御恩
主君 桃井直和→後小松天皇→後花園天皇→朝倉孝景
氏族 桃井氏
父母 父:桃井直和
兄弟 直詮、尚儀、日存、日道
子 不詳
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桃井 直詮(もものい なおあき[1](なおあきら[2]))は、幸若舞の創始者と伝わる人物。幸若舞太夫家の系譜である『八郎九郎家系図』では、直詮(1403年 - 1480年)の幼名を幸若丸とし、幸若舞の始祖としている[3]。また、系譜によると祖父は桃井直常とされる[1]。ただし、系譜には疑問点があるとし、生没年不詳としている文献もある[1]。

伝承

生涯

後小松天皇
後小松天皇

桃井直和の長男として室町時代に生まれた[要出典]。先述のように『八郎九郎家系図』からは1403年の生まれになるとされる[3]。

『八郎九郎家系図』によると10歳のときに父を失い、縁戚のいた延暦寺光林房に身を寄せた[3]。伝承では光林坊詮信のもとで学んだとされる[1]。出家後、「屋島軍記」に節を付けて歌ったところ評判となった[3]。応永年間には後小松天皇に召されて参内し「満仲」を歌ったとされる[3]。そして後小松天皇のもとで中務大夫となり、禁裏の36冊の双紙に節付けさせたという[3]。『幸若由緒書』によると白山大権現に参詣をして音曲を得たとしている[3]。

さらに、後花園天皇の御前で「日本記ノ曲」を披露し、末代までの太夫の身分を授かったとされる[3]。

その後、足利将軍家に仕えたのち、晩年は朝倉孝景のもとで庇護を受け、越前国で亡くなったという[3]。『八郎九郎家系図』からは1480年没になるとされる[3](異説あり、後述)。

肖像画

土佐光信が描いたと伝えられる肖像画がある。折烏帽子をかぶり、扇を持ち直垂には松喰鶴や亀の絵柄がほどこされており、絨毯に似た敷物を轢いており当時の肖像画としては珍しい形に描かれている。

橋本家始祖

福井藩橋本家の系図は幸若舞の創始者である桃井直詮を祖としている[4]。のちに田代春綱の三男の長綱が橋本家の養子となったが、その子に橋本左内がいる[4]。

諸説

  • 幸若丸は個人名ではなく、舞童(稚児)の芸名として承継されてきた名であるとの説がある[3]。
  • 没年については文明12年(1480年)説や文明2年(1470年)説がある[5]。

脚注

  1. 1 2 3 4 高山茂「桃井直詮」『日本大百科全書』小学館。コトバンクより2026年10月15日閲覧。
  2. ↑ 「桃井直詮」『精選版 日本国語大辞典』。コトバンクより2026年10月15日閲覧。
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 清水眞澄「芸名の系譜――舞童から幸若丸まで――」『日本文学』第62巻第7号、日本文学協会、2013年、37-46頁、doi:10.20620/nihonbungaku.62.7_37。
  4. 1 2 大河内 勇介「研究ノート 田代家文書から見る橋本左内」ふくいミュージアム No.65 4-5頁 、2026年7月12日閲覧。
  5. ↑ 「桃井直詮」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社。コトバンクより2026年10月15日閲覧。

外部リンク