江別のれんが(えべつのれんが)は、北海道遺産のひとつ。北海道江別市で生産されている煉瓦で、野幌地区がその中心となってきたため「野幌れんが」としても知られる。
江別産の煉瓦は、市内ほか周辺地域の土壌に多く含まれる野幌粘土を原材料としており、褐色及び赤い色が特徴である。鉄道や道路のトンネル・橋などのインフラ、サイロ、学校、民家、駅舎や倉庫建物などに用いられ、北海道の近代化に貢献した。 現在も市内には江別市「歴史的れんが建造物保存活用事業」の一環として、400棟を越える煉瓦造りの建造物が保存されている。なお江別では現在でも3か所の煉瓦工場が稼働し、国内の20パーセント以上のシェアを占める、日本有数の煉瓦生産地となっている。
1994年(平成6年)に開館した同市内の建築施設「江別市セラミックアートセンター」[1]には、れんが資料展示室が設置されており、江別ならびに北海道における煉瓦の歴史を学ぶことのできる資料が多く展示されているほか、数々の関連イベントも行う「北のやきもの展示室」も設けている。
煉瓦と共に、西暦300年ごろのものとされる「江別式土器」も市内の遺跡から掘り出されていることなどもあって、江別市は陶芸の中心的な地域のひとつとしても知られている。
明治時代の北海道では、内陸における開発用の建築資材に煉瓦の使用が、開拓使によって推し進められた。
江別で煉瓦製造が開始されたのは1890年(明治23年)。現在の東光町にある覚良寺境内内に存在した江別太煉化石工場で作られた。石狩川が近郊にあり資材の輸送に便利で、現在の野幌駅から野幌森林公園にかけての野幌丘陵に煉瓦の原料となる「野幌粘土」を豊富に含んだ土壌を持ち、最需要地で大きな都市である札幌市、小樽市にも近く、平坦な工業用地や薪材の確保が比較的容易だったことなどが考慮された。
1898年には北海道炭礦鉄道が野幌煉瓦工場を開設。後に札幌商工会議所会頭を務める久保兵太郎(作家久保栄の父)が経営者となる。以降も煉瓦工場の進出が相次いだ江別は、一躍煉瓦の町として栄えることとなった。
大正時代の初め頃、煉瓦工場で労働者たちによるストライキが起こった記録がある。これは江別で起こった最初のストライキとされる。当時の煉瓦工場の労働条件はあまり好ましいものではなく、一日に支払われる賃金に対して、12時間もの長時間労働を強いられてことが原因の一つとされている。
1918年(大正7年)頃には、北海道炭礦鉄道の後継である北海道炭礦汽船の煉瓦工場が、職工500人、年間煉瓦生産1,200万個の規模を持ち、他に館脇煉瓦工場(職工800人、煉瓦・土管・瓦・甕1,500万個)、岩田煉瓦工場(150人、煉瓦・土管・甕300万個)、馬場崎煉瓦工場(50人、煉瓦80万個)、沢村煉瓦工場(20人、煉瓦40万個)があり、さらに北海道煉瓦株式会社の工場が建設中であった[2]。
1990年(平成2年)、江別市で本格的に煉瓦造りが開始されてから100周年を記念して、第1回目の「えべつやきもの市」が開催された。
1994年(平成6年)4月、「旧石田邸」と呼ばれる建物を、江別市が野幌代々木町の野幌グリーンモール(遊歩道)沿いに移築し修繕を施した。この建築物は1945年(昭和20年)ころに北海煉瓦の社員・石田惣喜知が建設した、3階建て・107坪の煉瓦造りの邸宅である。半円形に突き出た窓やマンサード屋根など、特徴ある建築様式で知られ、写真の被写体や絵画の題材にも選ばれるなど、多くの人に親しまれた。現在は「ガラス工芸館」としてガラス工芸家たちの作品を常設展示し、5月から10月まで一般市民に無料開放されている[3]。
江別市内で現在稼動している工場は
東野幌町3番3号にある旧ヒダ煉瓦は商業施設EBRIとして利用されている。
最盛期は昭和25年の15社。明治24年から延べ30社存在した。※年度は操業年度
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