法隆寺献物帳

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『法隆寺献物帳』
製作年奈良時代・756年(天平勝宝8年)
種類目録
素材紙本墨書
寸法27.8 cm × 70.6 cm (10.9 in × 27.8 in)
所蔵日本の旗 日本,東京国立博物館、東京都台東区上野公園13-9
所有者国立文化財機構
登録国宝
法隆寺献納宝物(N-5)

法隆寺献物帳(ほうりゅうじけんもつちょう)は東京国立博物館所蔵の古文書である。国宝。756年(天平勝宝8年)に崩御した聖武天皇を弔うため、光明皇后の意向のもと孝謙天皇が法隆寺へ献納した品々の目録である。

内容

『国家珍宝帳』冒頭

献物帳とは、奈良時代において寺社へ物品を施入する際の目録帳であり、後世における施入帳、寄進状などに相当するものである[1]。現存する奈良時代の献物帳は、法隆寺献物帳の他は『東大寺献物帳』全5通のみであり、他のものはすべて現存しない[1]。

聖武天皇は756年(天平勝宝8年)5月2日に56歳で崩御した[2][1]。その娘の孝謙天皇は、光明皇后の意向のもと、弔いのため同年7月8日に勅旨を出し、東大寺を中心に聖武天皇の遺品を計18箇所の寺に献納した[3][1][注釈 1]。そのうち法隆寺に献納した品々の目録が法隆寺献物帳である[2]。文章は全22行で、唐風の楷書体で書かれている[2]。なお、8月7日はすでに七七忌を過ぎており、なんらかの忌日ではない[4]。東大寺、法隆寺の他には、『弘福寺領田畠流記帳』の記述から弘福寺に献納されていた可能性が指摘されている[5]。その他の15寺は不明であるが、米田は、聖武天皇の崩御時に法要が営まれた寺が献納の対象であった可能性を指摘している[6]。また、『続日本紀』天平勝宝元年閏五月癸丑条には、聖武天皇が計12寺に様々な物品を施入した旨の記述があり、法要が営まれた寺と重複している[6]。これらのことから、米田は、先述の3寺と大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺、法華寺、四天王寺、崇福寺、新薬師寺、飛鳥寺らの合計12寺は対象に含まれていたのではないかと推測している[6]。

翻刻・現代語訳

献納品

御帶壹條[緊膜斑犀角金銅裏鉸具以碧■纒]
御帯 一条〔斑文のある犀角を飾り、裏側に金銅製の留め金を備え、碧色の絁を巻いた緊膜〕

本品は現存しない[7]。当時の朝服には腰帯という革製の帯が用いられており、木内はここでいう「御帯」はこれに類するものであろうと推測している[8]。「緊膜」の意味は定かではないが、東大寺献物帳のうち『国家珍宝帳』には腰帯や帯執の文脈で「吉膜」「鞊膜」の語が見られることから、木内は「緊膜」もこれらと同様の意味であろうと推測している[8]。ただし、これらの語がみられる物品はいずれも伝世しておらず、実際にどのようなものだったか定かではない[9]。


御刀子壹口[大沈香把斑竹鞘金銀荘口及鞘口尾以金鏤口邊刃赤紫黒紫繝絛係]
御刀子 一口〔柄は大きな沈香材、鞘は斑竹でつくる。鞘、鞘口、鞘尾を金銀でつくり、刃元には金の象嵌を施す。刀子には赤紫・黒紫の綾模様の平打紐をかける。〕
御刀子壹口[犀角把白牙鞘金銀荘口及鞘口尾以金鏤口邊刃白組係]
御刀子 一口〔柄は犀角、鞘は白い象牙でつくる。柄口、鞘口、鞘尾は金銀でつくり、刃元には金の象嵌を施す。白の組紐をかける〕
御刀子壹口[犀角把金銀荘口水牛角鞘白組係]
御刀子 一口〔柄は犀角で、口金などを金銀で飾り、鞘は水牛の角で作る。白い組紐を付けたもの〕

法隆寺献納宝物中には「孝謙天皇御小刀」三口と「上古小刀」十口が伝来しているものの、それぞれ献物帳記載の内容とは合致せず、本品もまた伝世していない[7]。


青木香貳拾節
青木香 二十節

法隆寺献納宝物中に「孝謙天皇青木香」として、虫損・腐敗した5~8センチメートルの木片130片が蓋の欠けた漆皮箱とともに伝世している[7]。正倉院宝物にも「青木香」(北116)が伝世しているところ、これは現代でいう青木香ではなく、現代における木香にあたるものだとされている[10]。木内は、このことを根拠に本品もまた現代でいう青木香ではなく木香にあたるものだと推測している[11]。


願文

奉今月八日  勅、前件、並是

先帝翫弄之珎、内司供擬之物、各分數種、
謹獻金光明等十八寺、冝令常置
佛前、長為供養、所願、用此善因、奉資冥助、早遊十聖、普濟三途、然後鳴鑾花
蔵之宮、住蹕涅槃之岸、

今月八日の勅命を承った。
前に記した品々は、いずれも、先帝が生前に愛玩された珍宝であり、宮中で御用に供されていた品々である。
これらをそれぞれ数種類ずつに分け、東大寺をはじめ十八の寺院に献納する。
常に仏前に安置し、末永く供養のよすがとせよ。
願うところは、この善き行いを因縁として、亡き先帝の冥界における助けとし奉り、速やかに十聖の境地に進まれ、また広く三途に苦しむ者たちを救済されることである。

そしてその後には、御車の鈴を華蔵世界の宮殿に響かせ、御車を涅槃の岸にとどめられんことを。

願文の内容は『国家珍宝帳』の願文とほとんど同一であり、光明皇后の個人的感情を記した文章のほかはほとんど一致している[4]。


署名

従二位・大納言兼紫微令・中衛大将・近江守 藤原朝臣仲麻呂

従三位・中務卿兼左京大夫・侍従 藤原朝臣永手
従四位上・紫微少弼兼武蔵守 巨萬朝臣福信
紫微大忠・正五位下、兼左兵衛率・左右馬監 賀茂朝臣角足

従五位上・紫微少忠 葛木連戸主


末尾の署名者は藤原仲麻呂、藤原永手、巨萬福信、賀茂角足、葛木戸主で、いずれも当時の朝廷の有力者であった[2]。署名者はいずれも『国家珍宝帳』と『種々薬帳』と同じ面々であるが、藤原永手と巨萬福信については役職が変わっており、この間なんらかの異動があったとされる[12]。

署名者5名は、藤原永手のほかは全員紫微中台の官職をもっている[13]。紫微中台は令外官のひとつで、皇后宮職を改め、聖武天皇ののちに政治の実権を握った光明皇后が則天武后にならって設置した行政機関である[14]。皇后宮職と中務省を兼ねたものだと考えられており[15]、藤原仲麻呂政権下で重要な位置を占めた[16]。これらの署名はいずれも本人の直筆であり、正倉院宝物のほかにこの時代の朝廷の重臣の署名が残っているのは貴重である[17]。これらのことから、東大寺及び法隆寺への献物事業に、紫微中台を通じて光明皇后が深く関与していたであろうことが窺える[18]。なお、この中で唯一紫微中台と関係のない藤原永手が署名した理由について、柳は公式令の各官職の職掌に関する記述に、侍従が勅を奉じること、中務卿が詔勅の起草を行うとされていることを根拠に、侍従または中務卿として本件に関与したのだろうと推測している[13]。

書体

本書の書体は楷書で書かれており、これは当時の行政府で一般に用いられていたものである[19]。また、唐初期の書家・欧陽詢の影響が窺える[19]。正倉院宝物の雑集一巻(北3)も同様に欧陽詢や褚遂良の書法の影響を受けており、これら種々の正倉院文書と合わせて、中国の書家の書法がひろく規範とされていたことが窺える[19]。文体は四六文であり、特に願文は、漢文学の素養に基づいた修辞技法が用いられている[19]。

なお、本書と『国家珍宝帳』の筆跡は同一人物によるものとされており、かつ願文の内容もほぼ同一であることから、関根は本書と『国家珍宝帳』は一連の事業のもとで制作されたのだろうと推測している[20]。また、筆者は写経生という書写の専門家の手によるものである可能性が指摘されている[21]。一部に書き直しの痕跡がみられ、三行目の「鞘」は書き直したあと訂正印が捺されている[22]。

外観

法隆寺献物帳

寸法は縦27.8センチメートル、横は44.4センチメートルと26.2センチメートルの2枚をつないで計70.6センチメートルである[1]。

制作当初の装丁は失われている[23]。もともとは巻子本であったが[2]、のちに桐の板(縦39.3センチメートル、横81.6センチメートル)に袋張りされ、周囲は金箔押紙で装飾されていた[24]。1997年には岡墨光堂による修復で、改めて巻子本に仕立てられた[25]。修復時、軸首は東大寺献物帳を参考に京都黒田工房が制作し、紐はこの時代の紐の残欠を参考に京都広信織物が紫・藍・赤の糸を用いた織紐を制作した[26]。

なお、江戸時代の補修痕に罫線がみられることから、その部分は巻子本だったときの軸付紙を転用した可能性がある[22]。なお、巻子本から板張りに改装された際、紙は相剥ぎにされており、本誌の修復時に実物を検められた『屏風花氈等帳』よりも紙が薄く、1998年時点で激しく劣化していた[27]。

額装右上には、「□□寺献物帳」と記載のある本紙と同一素材の紙片(縦12.4センチメートル、横4.6センチメートル)が貼り付けられており、巻子本だった当時の題字だと考えられている[24]。題字と本文とは筆跡が異なり、別人の書によるものだと思われる[22]。また、題字の上には朱印と思われる痕跡がみられるほか、押印の痕跡が認められ、表紙の他の部分を切り取って修理したと推測されている[22]。

紙の全面に御璽が合計18個押されている[2]。御璽の印影は1辺8.65センチメートルの正方形である[24]。全面に判を押すのは公式令の定めによるもので、また、大きさについても鋳銅製で三寸(天平尺換算で約8.8センチメートル)と定められており、本書の陰影の実測値とおおむね近似している[28]。

紙の材質は縹色の麻紙に墨書きであり[2]、組成は1997年の高知県立紙産業技術センターの調査では藍色の楮が75%、無色の雁皮繊維が25%であった[25]。これは藍紙という藍色の料紙で、奈良時代の藍紙は藍繊維と無着色の繊維を混合してつくられている[29]。繊維の長さは平均1.0ミリメートルで、フィブリル化が激しかった[25]。

付属品として、軸、覆表紙、包裂、桐野 郎箱、漆塗台差箱、旧保存箱がある[22]。

来歴

献納まで

聖武天皇は756年(天平勝宝8年)5月2日に56歳で崩御した[2][1]。その娘の孝謙天皇は、弔いのため勅旨を出し、まずは聖武天皇及び光明皇后とゆかりの深い東大寺への献納品が定められ、同年6月21日に『国家珍宝帳』と『種々薬帳』が作成され、東大寺へ献納が行われた[5]。次いで東大寺のほか17寺への献納品の選定が行われ、同年7月8日に法隆寺への献納が行われた[5]。なお、本書の制作日については、7月8日よりも後に日付を遡って制作されたとする見解もある[30]。

近世以降

本品に付属する保存箱の底裏には1842年(天保13年)に修理が行われた旨が書かれている[24]。木内は、同年6月11日に江戸の回向院で法隆寺御開帳が行われたことを挙げて、出品のために修理されたのだろうと推測している[24]。

孝謙天皇による献納以降、法隆寺の所蔵品であり続けたが、1877年に法隆寺献納宝物のひとつとして皇室に献上され、1882年に帝室博物館(のちの東京国立博物館)に移管され、2018年現在まで東京国立博物館の所蔵下にある[31]。1958年2月8日には国宝に指定された[32]。

巻子本から板張りに改装された影響で紙の劣化が激しかったことから、1997年に修理が行われた[22][27]。修理を担当したのは岡墨光堂の岡岩太郎であり、桐板貼りの額装にされていた本書を、東大寺献物帳を参考に巻子本へ修復した[25][26][33]。また、付属品の桐太巻添軸、桐野郎箱、桐漆塗外は新調された[34]。

評価

木内武男は本書について、正倉院文書とならび奈良時代当時の文化を窺わせる資料として極めて価値の高いものであると評価している[19]。

恵美千鶴子は本書と『東大寺献物帳』とを合わせて「いずれも当時の宝物の内容を検討できる史料として、献物帳の原本が伝わっていることが貴重である」と述べている[21]。

脚注

注釈

  1. ↑ なお、この時東大寺に『東大寺献物帳』と共に献納された遺品は、正倉院宝物の主要部分を構成する品々となる[1]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 木内 1972, p. 4.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 “e国宝 - 法隆寺献物帳”. e国宝. 2026年10月29日閲覧。
  3. ↑ 米田 2018, p. 29.
  4. 1 2 関根 1990, p. 113.
  5. 1 2 3 柳 1979, p. 24.
  6. 1 2 3 米田 2018, p. 24.
  7. 1 2 3 木内 1972, p. 9.
  8. 1 2 木内 1972, p. 7.
  9. ↑ 木内 1972, pp. 7–8.
  10. ↑ 木内 1972, pp. 9–10.
  11. ↑ 木内 1972, p. 10.
  12. ↑ 関根 1990, pp. 113–114.
  13. 1 2 柳 1979, p. 16.
  14. ↑ 木内 1972, pp. 10–11.
  15. ↑ 木内 1972, p. 11.
  16. ↑ 毎日新聞社 1984, p. 147.
  17. ↑ 財津 1957, p. 13.
  18. ↑ 柳 1979, pp. 16–17.
  19. 1 2 3 4 5 木内 1972, p. 14.
  20. ↑ 関根 1990, p. 114.
  21. 1 2 恵美 2019, p. 40.
  22. 1 2 3 4 5 6 安藤 & 島谷 2001, p. 5.
  23. ↑ 樋笠 2022, p. 292.
  24. 1 2 3 4 5 木内 1972, p. 6.
  25. 1 2 3 4 岡墨光堂 1998, p. 48.
  26. 1 2 岡墨光堂 1998, p. 51.
  27. 1 2 岡墨光堂 1998, pp. 48–50.
  28. ↑ 木内 1972, pp. 6–7.
  29. ↑ 高橋 2014, p. 272-273.
  30. ↑ 樋笠 2022, p. 293.
  31. ↑ 米田 2018, pp. 20–21.
  32. ↑ “国指定文化財等データベース 法隆寺献物帳(天平勝宝八歳七月八日)”. 国指定文化財等データベース. 2026年11月2日閲覧。
  33. ↑ 東京国立博物館 1999, p. 50.
  34. ↑ 東京国立博物館 1999, p. 51.

参考文献

関連項目

外部リンク