法隆寺
西院
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
位置 北緯34度36分53.06秒 東経135度44分3.02秒 / 北緯34.6147389度 東経135.7341722度 / 34.6147389; 135.7341722座標: 北緯34度36分53.06秒 東経135度44分3.02秒 / 北緯34.6147389度 東経135.7341722度 / 34.6147389; 135.7341722
山号 なし
宗派 聖徳宗
寺格 総本山
本尊 釈迦如来(国宝)
創建年 伝・推古天皇15年(607年)
開基 推古天皇・聖徳太子
正式名 斑鳩山法隆學問寺
別称 斑鳩寺
札所等 南都七大寺第7番
聖徳太子霊跡第14番
大和北部八十八ヶ所霊場第50・51番
神仏霊場巡拝の道第26番(奈良第13番)
文化財 金堂、五重塔、夢殿ほか(国宝)
大湯屋、上御堂、金剛力士像ほか(重要文化財)
世界遺産
公式サイト 聖徳宗総本山 法隆寺
法人番号 3150005003468 ウィキデータを編集
法隆寺の位置(奈良県内)
法隆寺
法隆寺
法隆寺 (奈良県)
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法隆寺(ほうりゅうじ、旧字体:灋隆寺)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる[1]。

法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である[2]。

法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。

歴史

金堂と五重塔
西院回廊と大講堂
銅造薬師如来像(金堂)
銅造釈迦三尊像(金堂)
木造四天王像のうち増長天(金堂)
聖霊院
夢殿
(参考画像)東武ワールドスクウェアにある法隆寺西院伽藍の模型。回廊の南面に中門を配し、回廊内には東に金堂、西に五重塔を配す。これらの背後に見える入母屋屋根・単層の建物は大講堂、その手前左右にある切妻屋根・楼造の小建物は鐘楼(東)と経蔵(西)。
木造観音菩薩像(救世観世音菩薩、夢殿安置)
卍字崩し高欄と人字形割束(中門)
雲肘木(中門)

創建(飛鳥、白凰、奈良時代)

法隆寺がある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳をはじめとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる[3]。

『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来1度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で1度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が1887年(明治20年)頃から出されるようになった(菅政友、黒川真頼、小杉榲邨ら)。これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり(平子鐸嶺、関野貞ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた(論争の詳細については後述)[4][5]。

石田茂作らによる1939年(昭和14年)の旧伽藍(いわゆる若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、1度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。現存の西院伽藍については、持統7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる[6][7][8]。

現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説となっている[9]。また、1939年(昭和14年)、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている[10]。

聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がなされており、『書紀』などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もある。ただし、こうした聖徳太子非実在論に対しては根強い反論もある。また、聖徳太子非実在論説を唱える大山誠一も、厩戸皇子という皇族の存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していない[11]。

金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(前述および後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。

前述の金堂薬師如来像については、1933年(昭和8年)、福山敏男により、

という疑問が提出された。この説はおおむね支持を得ており、薬師像は文字通り607年まで遡る製作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は「623年に聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背銘を持つ釈迦三尊像であり、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審である[5]。

皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。

なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平11年(739年)、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。

養老2年(718年)に県犬養橘三千代(橘夫人)が西円堂を建立したとする伝承がある。また、娘の光明皇后が多額の寄進を行い、孫娘の橘古那可智(聖武天皇夫人)の居所が寄進されて伝法院になったのも、彼女たちの法隆寺への信仰も三千代の影響と考えられる[12]。

中世以後(平安、鎌倉、室町、南北朝、江戸時代)

その後、聖徳太子の弟来目皇子の子孫と伝えられる登美氏の支配下に置かれていたが、平安時代初頭には登美氏からの自立への動きが強まった。この過程で法隆寺側と登美氏との間で発生したのが、善愷訴訟事件である。

延長3年(925年)には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の正暦元年(990年)のことであった。以後、永享7年(1435年)に南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。

近世に入って、慶長年間(17世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄 - 宝永年間(17世紀末 - 18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われた。

近代以降

明治時代になると神仏分離が行われ、鎮守社であった龍田明神(現・龍田神社)と天満宮(現・斑鳩神社)が法隆寺から独立している。1869年(明治2年)には天満宮に法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が移された。

しかし、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となると、1878年(明治11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影、いわゆる聖徳太子二王子像)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された[2]。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館で保管されている。

明治の初め頃には真言宗に所属するようになっていたが、1882年(明治15年)には興福寺と共に法相宗として独立する。

1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。この間、1936年(昭和11年)2月21日には、河内大和地震により金堂の基壇に亀裂が入るなどの被害が生じている[19]。

「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。昭和の大修理の際に裏山に築堤(ちくてい)して貯水池を建設、そこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。1949年(昭和24年)の金堂火災に際して、初期消火に活用された。

1950年(昭和25年)に法相宗から独立し、聖徳宗を設立している。

1981年(昭和56年)からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は『法隆寺の至宝-昭和資財帳』として小学館から刊行されている。

法隆寺を巡る論争・研究

再建・非再建論争

明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、歴史学や建築史学の進歩とともに、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が1887年(明治20年)頃から出されるようになった[20]。

焼失と再建が疑われる時代には壬申の乱という大きな内乱が起きており、第38代天智天皇の息子である第39代弘文天皇の朝廷が天智天皇の弟とされる大海人皇子に敗北し、大海人皇子が第40代天皇になっている。その大海人皇子は鮮卑の建てた北魏(帝国)の文化の影響を大きく受けていた人物であるという説もある[21]。

非再建論の主張
再建論の主張

『日本書紀』天智天皇9年(670年)4月30日条には「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」(夜半之後(あかつき)、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)との記述があり、これを信じるならば、法隆寺の伽藍は670年に一度焼失し、現存する西院伽藍はそれ以後の再建ということになる。最初に再建論を唱えたのは旧水戸藩士で歴史家の菅政友とされ、黒川真頼(国学者・東京帝国大学教授)は天智9年(670年)4月に創建法隆寺は焼亡し、現在の西院伽藍は和銅年間(708年 - 715年)に再建したものという説を唱えた[22]。小杉榲邨(国学者)も明治20年代に再建論を唱えている。一方、『書紀』の当該記述は信用できないとして、現存する西院伽藍は推古朝のもので、焼けてはいないとの主張(非再建論)が関野貞(建築史家)と平子鐸嶺(美術史家)により、1905年(明治38年)に相次いで発表された。建築史の研究者である関野は、建築様式や建築に用いた尺度などの観点から、西院伽藍は推古朝のものであるとした。関野によると、法隆寺西院伽藍の建築には、古い尺度である高麗尺が使用されているが、大化元年(645年)を境として以後は唐尺が使用されるようになった。したがって、西院伽藍は大化以前のものでなければならないとする。平子は「干支一運錯簡説」を唱えた。『書紀』は干支による紀年法を採用しているが、干支は60年で一巡するため、『書紀』の法隆寺火災の記事は実年代から60年ずれているとする説である。『聖徳太子伝補闕記』(ふけつき)という書物に「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」という記載があるが、平子はこの「庚午」を西暦670年ではなく聖徳太子在世中の610年のことであるとし、『書紀』の編者は、推古天皇18年(610年)の庚午年に起きた火災の話を誤って60年後の天智9年(670年)の庚午年の条に入れてしまった。また、610年の火災は小規模なもので、現存する西院伽藍は推古朝から焼けていないと主張した[23][24]。

これにただちに反論したのが歴史家の喜田貞吉である。喜田は、焼失した伽藍が元の礎石を用いて再建されたのなら、尺度も古い高麗尺が使われているのは当然だとして関野説を批判した。平子説については、『補闕記』には信用できない記述が多く、これをもって『書紀』の670年法隆寺火災の記事を否定することはできないとして、これをも退けた。こうした再建論者・非再建論者の論争(法隆寺再建非再建論争)は昭和期まで続いた[25]。

昭和期になると、関野貞、足立康らが「二寺説」あるいは「新非再建論」と呼ばれる新説を唱える。関野は従来の自説を改め、「二寺説」を発表した。法隆寺の境内、現・西院伽藍の南東に位置する空地には「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれる場所があり、塔跡の古い礎石が残されていた。関野は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする伽藍(西院伽藍)と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする伽藍(若草伽藍)とは別の寺であり、670年に焼けたのは後者であるとした。二寺説は、古くは北畠治房(法隆寺村出身の元天誅組志士)という人物が唱えていたが、論文として公刊されたものでなかったため、一般には知られていなかった。足立康の「新非再建論」(1939年)は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする仮称「用明寺」と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする釈迦如来を安置する仮称「太子寺」とがあり、670年に焼けたのは前者であるとする。後に足立は、2つの寺院が対立していたのではなく、一つの法隆寺の中に釈迦像を祀る「釈迦堂」があって、その後身が現・西院伽藍であるとした[26][27]。

1939年(昭和14年)に、石田茂作らによって若草伽藍跡の発掘調査が行われた。その結果、この伽藍は現存する西院伽藍(塔と金堂が東西に並ぶ)とは異なり、南に塔、北に金堂が南北方向に配置される「四天王寺式伽藍配置」であること、堂塔が真南に面しておらず、伽藍配置の中心軸が北西方向へ20度ずれていることがわかった。一方、現存する西院伽藍の堂塔は南を正面とし、伽藍の中心軸はほぼ地図上の南北に一致している(正確には北東方向へ3度ずれている)。したがって、仮に「若草寺」と「法隆寺」の2寺が同時に存在していたとすると、中心軸の方角が大きく異なる伽藍が近接して建っていたことになり、不自然である。また、若草伽藍跡から出土した瓦は、単弁蓮華文の軒丸瓦と手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を組み合わせた、古い様式のものであった[28]。こうしたことから、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということは定説となっている[29]。

『資財帳』によれば、持統天皇7年(693年)、法隆寺にて仁王会が行われ、天蓋等が施入されていることから、現・西院伽藍のうち、少なくとも金堂はこの年までには建立されていたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群と、中門安置の金剛力士(仁王)像が完成しており、同年頃までには五重塔、中門を含めた西院伽藍が建立されていたとみられる。以上のように、「再建非再建論争」に関しては再建論に軍配が上がった形である。ただし、創建法隆寺の焼失は『書紀』のいう670年であったのか否か、皇極天皇2年(643年)の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのか、現存の西院伽藍が創建法隆寺とは別の位置に建てられ、建物の方位も異なっているのはなぜか(現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している)、金堂、五重塔などの正確な建立年はいつか、現・西院金堂安置の釈迦三尊像と薬師如来像は本来どこに安置されていたのかなど、未解明の謎はまだ残っている。現・西院伽藍のある土地は、かつて存在した尾根を削り、両側の谷を埋めて整地した後に建てられたことがわかっており、なぜそのような大規模な土木工事をしてまで伽藍の位置を移したのかも謎である[30][31]。

非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、石田茂作によって聖徳太子当時のものであると考えられる前身の伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことで、再建であることがほぼ確定した[32]。また「昭和の大修理」で明らかになった新事実(現在の法隆寺に礎石が転用されたものであること、金堂天井に残されていた落書きの様式など)もそれを裏付けている。

2004年12月、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表された[33]。この破片は1,000℃以上の高温にさらされており、建物の内部にあった壁画さえも焼けた大規模な火事であったと推察される。壁と共に出土した焼けた瓦は7世紀初頭の飛鳥様式であり、壁画の様式も線の描き方が現・法隆寺のものより古風であるという。出土した場所は、当時深さ約3メートルほどの谷であったところで、焼け残った瓦礫としてここに捨てられたと見られている。実際に焼失を裏付ける考古遺物が多数発見された。

最近の研究

2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年の年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが改めて裏付けられた。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採とみられることである[34]。伐採年が『日本書紀』における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する[35]。

なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年に極めて近いと発表されている。他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った[36]。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。

また、川端俊一郎は法隆寺の物差しは高麗尺ではなく、中国南朝尺の「材」であるとしている[37]。

『隠された十字架』を巡る論争

1972年(昭和47年)に梅原猛が発表した論考『隠された十字架』は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫(山背大兄王ら上宮王家)を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないかとの説を主張した。歴史学研究者の間では、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。

梅原は、夢殿本尊の救世観音には背中がなく、体は空洞であるとした上で、この像は「前面からは人間に見えるが、実は人間ではない」「人間としての太子でなく、怨霊としての太子を表現」したものだとした。しかし、これは事実誤認で、実際には救世観音像は丸彫り像であり、背中の部分も造形されている。これはアーネスト・フェノロサの『東亜美術史綱』中の救世観音に係る記述に「背後は中空なり」とあり、フェノロサの誤記をそのまま引き継いだための誤解であろうと指摘されている[38][39][40]。

また梅原は救世観音の光背が「直接、太い大きな釘で仏像の頭の真後ろにうちつけられている」としたうえで、「釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである」とした。実際は、救世観音の後頭部にあるのは「太い釘」ではなく、単なる光背取り付け用の金具である。このように、仏像の後頭部に設けた金具や枘によって光背を固定している例は、法隆寺金堂四天王像、法隆寺献納宝物の四十八体仏(東京国立博物館蔵)などに例が見られ、「呪詛の行為」等の解釈は当たらない[38][41]。このように、梅原の『隠された十字架』の所説は基本的な事実誤認に基づいて推論を重ねている部分が多いため、美術史家からは厳しい評価を受けており、ほとんどの美術史家はあえて正面から反論しなかった[38][42]。

とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸凉子は本書に直接のインスピレーションを得て『日出処の天子』を発表したという。また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じのためであるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トゥアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげるために考案されたものであり、先行する百済大寺(武澤は吉備池廃寺を百済大寺に比定して論を展開している)や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている[43]。

金堂

国宝。入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみである。二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたものであるが、その年代については諸説ある。金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年(昭和24年)、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画(重要文化財)と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。なお、解体修理中の火災であったため、初層の裳階(もこし)部分と上層のすべて、それに堂内の諸仏は難を免れた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財防火デーになっている(金堂壁画については別項「法隆寺金堂壁画」を参照)。堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。

1949年(昭和24年)に焼損した壁画については「法隆寺金堂壁画」を参照。金堂の焼損した壁画と内陣の部材は、大宝蔵殿裏の収蔵庫に保管され、長年非公開となっている。収蔵庫の耐震性に問題がないことが判明したことから、法隆寺では焼損壁画を将来公開する方向であり、2021年(令和3年)を目途に公開の時期と方法が検討されている[46]。

五重塔

国宝。木造五重塔として現存世界最古のもの。裳階付きで、高さは32.55mであり、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は『維摩経』(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨すなわち仏舎利を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。その弟子集団の中の3体は、耳の無い、口先のとがった、眼のつりあがった頭部をしており、それぞれ馬頭形、鳥頭形、鼠頭形とよばれる。これらは十二支をかたどっているとも、薬師如来をまもる十二神将であるともいわれる。五重塔初層内部にも壁画(現在は別途保管、重要文化財)があったが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまっている。心礎(心柱の礎石)は、地下3メートルにあり、心礎内からは1926年(大正15年)にガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる舎利容器が発見された。なお、舎利容器は、調査後、元の場所に納められている。

大宝蔵院

百済観音像をはじめとする寺宝を公開している。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)に完成した。

銅造観音菩薩像(夢違観音)
玉虫厨子

また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随時展示替えをしつつ公開されている。保存上の理由から常時公開されていない寺宝として四騎獅子狩文錦(唐時代、国宝)、黒漆螺鈿卓(平安時代、国宝)などがある。

伽藍

法隆寺伽藍の空中写真(1985年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

諸堂に安置される仏像についての詳細は「法隆寺の仏像」を参照。

西院伽藍

中門
金堂
五重塔
大講堂
木造毘沙門天(右)・吉祥天(左)像(金堂)
塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像(左)、北面菩薩像(右)
木造聖徳太子像(聖徳太子及び侍者像のうち、聖霊院)
木造観音菩薩像(百済観音)

西院伽藍は南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の廻廊が囲む。廻廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた廻廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。廻廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、廻廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。金堂・五重塔・中門にみられる建築様式は、組物(軒の出を支える建築部材)に雲斗、雲肘木と呼ばれる曲線を多用した部材を用いること、建物四隅の組物が斜め(45度方向)にのみ出ること、卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)などが特色である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔(焼失)のみにみられる様式で、飛鳥様式とされる。

東院伽藍

東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。『法隆寺東院縁起』によると、天平11年(739年)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧行信により創建された。廻廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、廻廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。

伝法堂
東院鐘楼

子院

文化財

法隆寺献納宝物

詳細は「法隆寺献納宝物」を参照。

明治維新以後の廃仏毀釈により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。

法隆寺は、1878年(明治11年)に貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移された後、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。第二次世界大戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)。

国宝

建造物

  • 南大門
  • 金堂
  • 五重塔
  • 中門
  • 回廊 2棟
  • 経蔵
  • 鐘楼
  • 大講堂
  • 聖霊院(しょうりょういん)
  • 東室(ひがしむろ)
  • 三経院及西室
  • 西円堂
  • 綱封蔵
  • 食堂(じきどう)
  • 東大門
  • 夢殿
  • 伝法堂
  • 東院鐘楼

美術工芸品

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
銅造阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)
  • 銅造釈迦如来及両脇侍像 止利作(金堂安置)
  • 銅造薬師如来坐像(金堂安置)
  • 木造四天王立像(金堂安置)
  • 木造毘沙門天・吉祥天立像(金堂安置)
  • 木造天蓋3箇[48][49]
  • 塑造塔本四面具 78躯・2基(五重塔安置)
  • 木造薬師如来及両脇侍坐像(大講堂安置)
  • 乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)
  • 木造釈迦如来及両脇侍坐像(上御堂安置)
  • 銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(所在大宝蔵院)
  • 銅造観音菩薩立像(夢違観音)(所在大宝蔵院)
  • 木造観音菩薩立像(九面観音)(所在大宝蔵院)
  • 木造観音菩薩立像(百済観音)(所在大宝蔵院)
  • 木造地蔵菩薩立像(所在大宝蔵院)。明治初期まで大神神社の神宮寺である大御輪寺に伝来。
  • 木造聖徳太子・山背王・殖栗王・卒末呂王・恵慈法師坐像(聖霊院安置)
    • 附 銅造観音菩薩立像1躯 木造蓬莱山及亀座付
    • 附 紙本墨書妙法蓮華経二・維摩経並勝鬘経一 3巻(木製経筒入)
  • 木造観音菩薩立像(救世観音)(夢殿安置)
  • 乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)
  • 塑造道詮律師坐像(所在夢殿)
  • 玉虫厨子
  • 黒漆螺鈿卓
  • 四騎獅子狩文錦

重要文化財

建造物
  • 西院大垣 3棟
  • 西院西南隅子院築地 2棟
  • 西院東南隅子院築地 2棟
  • 西園院唐門
  • 西園院上土門(あげつちもん)
  • 西園院客殿
  • 新堂
  • 大湯屋
  • 大湯屋表門
  • 中院本堂
  • 宝珠院本堂
  • 薬師坊庫裏
  • 地蔵堂
  • 上御堂(かみのみどう)
  • 細殿
  • 妻室(つまむろ)
  • 律学院本堂
  • 福園院本堂
  • 旧富貴寺羅漢堂
  • 宗源寺四脚門
  • 東院四脚門
  • 東院南門
  • 東院回廊 2棟
  • 東院礼堂(らいどう)
  • 東院絵殿及舎利殿
  • 東院大垣 3棟
  • 北室院本堂
  • 北室院太子殿
  • 北室院表門
絵画
  • 金堂外陣旧壁画 20面(飛天図)
  • 金堂内陣旧壁画 12面
釈迦浄土図(第1号大壁)、菩薩像(第2号小壁)、観音菩薩像(第3号小壁)、勢至菩薩像(第4号小壁)、菩薩像(第5号小壁)、阿弥陀浄土図(第6号大壁)、観音菩薩像(第7号小壁)、文殊菩薩像(第8号小壁)、弥勒浄土図(第9号大壁)、薬師浄土図(第10号大壁)、普賢菩薩像(第11号小壁)、十一面観音像(第12号小壁)
  • 五重塔初層旧壁画 18面(菩薩像6、山水図12)
  • 絹本著色五尊像
  • 絹本著色孔雀明王像
  • 絹本著色十六羅漢像 八曲屏
  • 絹本著色星曼荼羅図(1902年重文指定)
  • 絹本著色星曼荼羅図(2004年重文指定)
  • 絹本著色法華曼荼羅図
  • 絹本著色聖皇曼荼羅図 尭尊筆
  • 絹本著色聖徳太子像
  • 絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図
  • 絹本著色毘沙門天像
  • 絹本著色蓮池図(旧舎利殿須弥壇後壁貼付) 二曲屏風
  • 紙本著色扇面古写経
彫刻
安置場所ごとに区分して示した。同一名称でまぎらわしいものに限り、像高、重文指定年度などを注記した。
  • 塑造金剛力士立像 2躯(吽形躰部木造)(中門安置)
  • 銅造阿弥陀如来及び脇侍像 2躯(康勝作)(金堂安置)[注釈 2]
    • 附:像内納入品(万坏供養摺札325枚、阿弥陀如来及両脇侍摺仏103枚)[50]
  • 木造伝観勒僧正坐像(経蔵安置)
  • 木造四天王立像(大講堂安置)
  • 木造地蔵菩薩立像(聖霊院安置)
  • 木造如意輪観音坐像(聖霊院安置)
  • 木造阿弥陀如来坐像(三経院安置)
  • 木造持国天・増長天立像(三経院安置)
  • 木造十二神将立像(西円堂安置)[注釈 3]
  • 木造千手観音立像(西円堂安置)
  • 木造地蔵菩薩半跏像(地蔵堂安置)
  • 木造四天王立像(上御堂安置)
  • 塑造薬師如来坐像(食堂安置)
  • 木造薬師如来両脇士像(新堂安置)
  • 木造四天王立像(新堂安置)
  • 木造不動明王及二童子立像(護摩堂安置)
  • 木造弘法大師坐像(護摩堂安置)
  • 木造文殊菩薩騎獅像(宝珠院本堂安置)(宝珠院所有)
  • 木造聖観音立像(夢殿安置)
  • 木造聖徳太子立像(夢殿安置)
  • 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1909年重文指定、中の間本尊)
  • 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1902年重文指定、西の間本尊)、
  • 乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1902・1909年重文指定、東の間本尊)[注釈 4]
  • 木造梵天・帝釈天立像(伝法堂安置)
  • 木造四天王立像(伝法堂安置)
  • 木造薬師如来坐像(伝法堂安置)
  • 木造釈迦如来坐像(伝法堂安置)
  • 木造弥勒仏坐像(伝法堂安置)
  • 木造阿弥陀如来坐像(伝法堂安置)
  • 木造阿弥陀如来及両脇侍像(北室院本堂安置)(北室院所有)
  • 金銅釈迦如来文殊菩薩像一座(戊子年銘)(大宝蔵院所在)
  • 塑造吉祥天立像(大宝蔵院所在、旧金堂)
  • 金銅薬師如来坐像(伝西円堂薬師如来胎内仏)(大宝蔵院所在)
  • 木心乾漆弥勒菩薩坐像(大宝蔵院所在)
  • 木造文殊・普賢菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)
  • 木造日光・月光菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)
  • 木造観音・勢至菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)
  • 金銅誕生釈迦仏立像1躯・金銅観音菩薩立像5躯(大宝蔵院所在、他)[注釈 5]
  • 塑造梵天・帝釈天立像(大宝蔵院所在、旧食堂)
  • 塑造四天王立像(大宝蔵院所在、旧食堂)
  • 厨子入木造聖徳太子坐像 円快作(大宝蔵院所在)
  • 木造如意輪観音坐像(大宝蔵院所在)
  • 厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像・銅板押出如来及両脇侍立像(板扉貼付)・銅板舟形後屏(銅板押出天蓋付)(大宝蔵院・大宝蔵殿所在)
  • 銅造観音菩薩立像(伝・金堂薬師如来脇侍)2躯(大宝蔵殿所在)
  • 銅造観音菩薩立像(大宝蔵院所在、旧金堂)[注釈 6]
  • 木造薬師如来坐像(大宝蔵殿所在)
  • 木造釈迦如来坐像(大宝蔵殿所在)
  • 木造阿閦如来坐像(大宝蔵殿所在)
  • 木造阿弥陀如来坐像(大宝蔵殿所在)(像高92cm、1906年重文指定)
  • 木造阿弥陀如来坐像(大宝蔵殿所在)(像高34cm、1906年重文指定)
  • 木造聖観音立像(大宝蔵殿所在)(像高165cm、1897年重文指定)
  • 木造聖観音立像(大宝蔵殿所在)(像高182cm、1909年重文指定)
  • 木造普賢延命坐像(大宝蔵殿所在)
  • 木造天鼓音如来坐像(大宝蔵殿所在)
  • 木造千手観音立像(大宝蔵殿所在)
  • 木造弥勒菩薩半跏像(大宝蔵殿所在)
  • 木造弥勒菩薩坐像(大宝蔵殿所在)
  • 木造善女竜王立像(大宝蔵殿所在)
  • 木造光背(大宝蔵殿所在)
  • 磚製阿弥陀如来及脇侍像(大宝蔵殿所在)
  • 金銅僧徳聡等造像記(甲午年銘)(大宝蔵殿所在)
  • 木造伎楽面 1面(大宝蔵殿所在)
  • 木造舞楽面 35面(胡徳楽7、地久7、退宿徳2、石川、抜頭、還城楽、二ノ舞2、新鳥蘇5、皇仁庭2、崑崙八仙4、陵王、納曽利2、附:散手、崑崙八仙)(大宝蔵院・大宝蔵殿所在)
  • 木造行道面(聖霊会所用)10面(獅子頭2、綱引、蝿払、八部衆6、附:八部衆残欠1片)(大宝蔵殿所在)
  • 木造菩薩面3面(附:菩薩面5面)(大宝蔵殿所在)
  • 木造追儺面 3面(大宝蔵殿所在)
  • 木造阿弥陀如来坐像(東京国立博物館寄託、1909年重文指定)
  • 金銅釈迦如来立像(1910年盗難)
工芸品
  • 銅水瓶
  • 銅壺(香水壺)
  • 金銅鉢 3口
  • 金銅装唐組垂飾残闕
  • 無文磬 銘東院
  • 金銅雲形磬
  • 金銅火舎 貞治五年銘
  • 金銅花瓶 乾元元年銘
  • 金銅法具類 一具
火舎(かしゃ)4口、花瓶(けびょう)4口、六器 台皿付24口、飲食器(おんじきき)2口、金剛盤 1面(正安二年銘)、四橛(しけつ) 4本、灑水器(しゃすいき) 1口、塗香器(ずこうき) 1口
  • 鋳銅六器 盞一口欠 12口
  • 銅錫杖
  • 銅錫杖(輪頂五輪塔)
  • 銅錫杖(輪頂宝瓶)
  • 銅鐘(西院鐘楼)
  • 銅鐘(東院鐘楼)
  • 鼉太鼓 一対[注釈 7]
  • 木造鉦鼓台 3基 附:舞台
  • 黒漆華形大壇 正応二年銘(1289年)
  • 黒漆布薩手洗2口・黒漆布薩花器1口・銅水瓶3口
  • 黒漆六角厨子
  • 石燈籠(西院伽藍内所在)
  • 蜀江錦 3面
書跡典籍・古文書
考古資料・歴史資料
  • 百万塔
    • 木造百万小塔100基、木造十万節塔(残欠蓮座付)1基、木造一万節塔(蓮座付)1基[注釈 10]
    • 附:木造組立小塔6基、他に残欠屋蓋3箇、台2箇
    • 附:陀羅尼100巻(自心印陀羅尼39巻、相輪陀羅尼27巻、根本陀羅尼27巻、六度陀羅尼7巻)
  • 十七条憲法板木 弘安八年施入
  • 調布 2枚 内一枚、天平勝宝四年十月常陸国信太郡貢進墨書
  • 法隆寺枡 2口
    • 一升枡 康正二年銘(1456年)(観音講枡)
    • 一升枡 天正二年銘(1574年)
  • 法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 363枚[51]

出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

国指定史跡

奈良県指定有形文化財

その他の文化財

主な行事

前後の札所

南都七大寺
6 薬師寺 - 7 法隆寺
聖徳太子霊跡
13 日向寺 - 14 法隆寺 - 15 中宮寺
大和北部八十八ヶ所霊場
49 薬師寺 - 50 法隆寺北室院 - 51 法隆寺西円堂 - 52 法起寺
神仏霊場巡拝の道
25 薬師寺 - 26 法隆寺 - 27 中宮寺

交通アクセス

拝観

西円堂・聖霊院等は無料で拝観可。その他の諸堂および子院は原則として非公開。ただし、下記の諸堂は期日を限って公開。

2024年9月11日、法隆寺は、「昨今の物価、人件費の上昇の中、文化財の保存修理や設備改修を進めるため」拝観料を2025年3月1日から値上げすると発表した。値上げは2015年1月以来。西院伽藍(がらん)、大宝蔵院、東院伽藍の拝観料を現在の「中学生以上1500円」から「中学生1700円、高校生以上2千円」に変え、小学生は750円から1千円に上げる[61]。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ↑ 飛鳥時代から、白鳳、奈良、平安、鎌倉、室町、南北朝、江戸時代までの月日は、旧暦で記載。
  2. ↑ 1899年に「金銅弥陀三尊像 康勝作 3躯」として旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定された。ただし、これら3躯のうち中尊像と左脇侍像(観音菩薩)のみが鎌倉時代の仏師康勝の作で、右脇侍像は時代も作風も異なる奈良時代作の観音菩薩像であった。2009年に前述の「金銅弥陀三尊像」は2件の重要文化財に分割され、旧・右脇侍像は「銅造観音菩薩立像」として別個に重要文化財に指定された(平成21年7月10日文部科学省告示第102号)。本来の右脇侍像(勢至菩薩)は明治時代初期に盗難に遭って日本国外に流出し、パリのギメ美術館の所蔵となっている。なお、現在、金堂にある右脇侍像はギメ美術館像の模造である。
  3. ↑ 12躯のうち、戌神像、亥神像の2躯は他の10躯とは別個に重要文化財に指定されている。正式の指定名称は次の通り。「木造十二神将立像 十二躯の内亥神戌神ヲ除ク(西円堂安置)十躯」(1906年指定)、「木造十二神将立像 戌神、亥神(西円堂安置)二躯」(1929年指定)。
  4. ↑ 中尊像と両脇侍像は別個に重要文化財に指定されている。正式の指定名称は次の通り。「乾漆観音勢至菩薩立像」(1902年指定)、「乾漆阿弥陀如来坐像」(1909年指定)。
  5. ↑ 1902年に6躯一括で重文(旧国宝)に指定されたものだが、誕生釈迦仏と観音像2躯は1903年盗難に遭い、寺に残るのは観音像3躯のみである。
  6. ↑ 旧金堂所在、奈良時代作。1899年に「金銅弥陀三尊像 康勝作 3躯」として重要文化財(旧国宝)に指定されたうちの1躯。この「金銅弥陀三尊像」は2009年に2件の重要文化財に分割され、旧・右脇侍像は「銅造観音菩薩立像」として別個に重要文化財に指定された(平成21年7月10日文部科学省告示第102号)。
  7. ↑ 「鼉」(だ)は、「口」を横に2つ並べ、その下に「田」「一」「黽」。
  8. ↑ 1935年に巻七と巻九が重要文化財(旧国宝)に指定。当時の所有者は内藤湖南(参照:『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、p.212)。巻一は1986年に追加指定(昭和61年6月6日文部省告示第89号)
  9. ↑ 1958年に661巻が重要文化財に指定。1986年に昭和資財帳調査で確認された265巻を追加指定(うち36巻は附指定)。附の勧進状は1970年追加指定(昭和61年6月6日文部省告示第89号、昭和45年5月25日文部省告示第218号)。
  10. ↑ 称徳天皇の発願によって制作された「百万塔」は、昭和資財帳調査の結果、法隆寺内に塔身部4万5千余基、相輪部2万6千余基が存在することが判明した。このうち重文指定を受けているのは1908年に指定された102基のみである(参照:『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、pp.224, 270)。

出典

  1. ↑ 『国史大辞典』第12巻、p.662(「法隆寺」の項)
  2. 1 2 【美の美】聖徳太子のまなざし(上)釈迦三尊像『日本経済新聞』朝刊2016年10月23日(16-17面)。
  3. ↑ (高田、1987)p.4
  4. ↑ (梶谷、2008)p.42
  5. 1 2 (高田、1987)pp.26 - 28
  6. ↑ (高田、1987)p.28
  7. ↑ (鈴木、1994)pp.256 - 257
  8. ↑ (鈴木、2008)pp.37 - 40
  9. ↑ (高田、1987)p.12
  10. ↑ 『国宝法隆寺展』図録、p. 228
  11. ↑ (曾根、2007)pp.10 - 18
  12. ↑ 木本好信「橘古那可智の入内と藤原氏」『奈良平安時代史の諸問題』、和泉書房、2021年、p. 145
  13. ↑ 災害から文化財を守る会PDF
  14. ↑ NHK『戦争証言アーカイブス』日本ニュース戦後編 第73号 1947年(昭和22年)6月3日
  15. ↑ 斑鳩町が協定 法隆寺を災害時避難所に[リンク切れ]
  16. ↑ 「斑鳩町と災害協定 - 寺内一部を避難所に提供/法隆寺」奈良新聞ニュースサイト(2013年12月11日)2019年6月18日閲覧。
  17. ↑ 「法隆寺金堂壁画、初の科学調査 66年前に焼損 公開の可能性検討」 朝日新聞デジタル(2015年11月12日)2019年6月18日閲覧。
  18. ↑ “法隆寺の駐車場にある植え込み、実は古墳でした 奈良大学などが確認:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2023年9月7日). 2023年9月9日閲覧。
  19. ↑ 家屋倒壊が続出、恐怖に包まれた大阪『大阪毎日新聞』昭和11年2月22日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編pp. 204–205 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  20. ↑ (石田、1959)、pp.106 - 107
  21. ↑ 北魏#日本との関わり。
  22. ↑ 『黒川真頼全集』第3美術篇、工芸篇、196 - 218頁「法隆寺建築説」、国書刊行会、明治43。国立国会図書館デジタルコレクション
  23. ↑ (石田、1959)、pp.107 - 109
  24. ↑ (大橋、1998)、pp.16 - 17
  25. ↑ (大橋、1998)、pp.18 - 19
  26. ↑ (石田、1959)、pp.111 - 112
  27. ↑ (大橋、1998)、pp.23 - 28
  28. ↑ (鈴木、2008)、p.37
  29. ↑ (大橋、1998)、pp.28 - 30
  30. ↑ (鈴木、1994)、pp.256 - 257
  31. ↑ (鈴木、2008)、pp38 - 39
  32. ↑ 高田良信 他、「法隆寺」の項、『国史大辞典』、吉川弘文館、1979-1997。
  33. ↑ 「奈良の法隆寺から最古の壁画片 高熱で変色、焼失・再建説裏付け」朝日新聞ニュースサイト(2004年12月10日)2019年6月18日閲覧。
  34. ↑ 鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 最新の研究から」『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、p.40
  35. ↑ 武澤秀一『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書、2006年)
  36. ↑ 鈴木嘉吉「世界最古の木造建築 法隆寺金堂 最新の研究から」『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、p.39
  37. ↑ 法隆寺の物差しは中国南朝尺の「材」[リンク切れ]
  38. 1 2 3 (森下、1998)、p.106
  39. ↑ (町田、1989)、p.309
  40. ↑ (直木、1994)、pp.256 - 257
  41. ↑ (直木、1994)、pp.72 - 79
  42. ↑ (町田、1989)、pp.309 - 310
  43. ↑ 武澤、2006年。
  44. ↑ 高田良信『法隆寺千四百年』(とんぼの本)、新潮社、1994
  45. ↑ 『国宝法隆寺金堂展図録』(2008年)、pp.179 - 180
  46. ↑ 「法隆寺、金堂壁画の公開提言へ 21年めどに、耐震性問題なし」(共同通信47News(2019年1月28日)2019年6月18日閲覧。
  47. ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝』2号(朝日新聞社、1997); 町田甲一『大和古寺巡歴』(講談社学術文庫、1989)、p.299
  48. ↑ “文化審議会答申 ~国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定及び登録有形文化財(美術工芸品)の登録について~”. 文化庁. 2020年3月19日閲覧。
  49. ↑ 令和2年9月30日文部科学省告示第116号
  50. ↑ 像内納入品は平成21年7月10日文部科学省告示第102号により追加指定。平成25年6月19日文部科学省告示第117号で員数訂正。
  51. ↑ 平成27年9月4日文部科学省告示第142号
  52. ↑ 『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、pp.266 - 267)。
  53. ↑ 『国宝法隆寺展』(特別展図録、1994)、p.160)。
  54. 1 2 3 『法隆寺国宝保存工事報告書 第4冊』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2019年8月16日閲覧。
  55. 1 2 西円堂・薬師如来像 - 法隆寺、2019年8月16日閲覧。
  56. ↑ 『日本経済新聞』朝刊2016年10月30日【美の美】聖徳太子のまなざし(中)。
  57. ↑ 奈良交通サイト
  58. ↑ 法隆寺公式サイト
  59. ↑ お逮夜秘仏と供物を堪能!聖徳太子のご命日にちなんだ法隆寺お会式(Lineトラベルjp)
  60. ↑ 法隆寺公式サイト
  61. ↑ “法隆寺が来春値上げ:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞. 2024年9月13日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

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