浅沼稲次郎
淺沼 稻次󠄁郞 | |
|---|---|
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1952年撮影 | |
| 生年月日 | 1898年12月27日 |
| 出生地 |
(現:東京都三宅村) |
| 没年月日 | 1960年10月12日(61歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | 早稲田大学政治経済科 |
| 前職 | 関東木材労組・東京自由労組・東京製糖労組組合長 |
| 所属政党 |
(農民労働党→) (日本労農党→) (社会大衆党→) (無所属→) (日本社会党→) (社会党右派→) 日本社会党 |
| 配偶者 | 妻・浅沼享子 |
| 選挙区 |
(東京府第4選挙区→) (東京府第3選挙区→) (東京第1選挙区→) 旧東京1区 |
| 当選回数 | 9回 |
| 在任期間 |
1936年2月21日 - 1942年4月30日 1946年4月11日 - 1960年10月12日 |
| 在任期間 | 1945年10月 - 1946年4月 |
| 選挙区 | 深川区選挙区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1943年9月13日 - 1946年4月10日 |
| 在任期間 | 1960年3月23日 - 1960年10月12日 |
その他の職歴 | |
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初代 農民労働党書記長 (1925年12月1日 - 12月1日(1時間)) | |
浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体: 淺沼 稻次󠄁郞、1898年〈明治31年〉12月27日[1] - 1960年〈昭和35年〉10月12日)は、日本の政治家。
東京府神着村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任。巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「演説百姓[注釈 1][2][3]」「人間機関車」の異名を取り、また「ヌマさん」の愛称で親しまれた[4]。1960年10月12日(水曜日)、日比谷公会堂で行なわれた3党首立会演説会の演説中に、右翼活動家の山口二矢(17歳)に刺され死亡した(浅沼稲次郎暗殺事件)。
経歴
生い立ち
1898年(明治31年)12月27日、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)に生まれる。父は三宅島神着村(現:三宅村)の名主・浅沼半次郎(1861年 - 1951年)、母は妾の浅岡よし。[5] 母・浅岡よしは三宅島で稲次郎を育て、13歳頃まで島で暮らした。稲次郎の回想録では、幼少期のエピソードとして、いたずらをした際に母に激しく叱られ、恐怖のあまり外に逃げ出し、帰宅後も俵の中に隠れたと記している。母は厳しくも献身的な女性で、島の質素な環境で一人で育てたと振り返っている[6]。
父・半次郎は後に東京府南葛飾郡砂村(現:東京都江東区)で酪農業を始め、稲次郎の母とは別の女性・井上ヒサと再婚。稲次郎を正式に実子として認知し、東京へ引き取った。父は三宅島の村長として徴兵検査を執行する立場にあったが、息子の思想的問題に悩み、辞職を考えるほどだった。[7][5]
東京府立第三中学校(現:都立両国高等学校)を経て、大正7年(1918年)に早稲田大学予科に入学。父の「医者になれ」という希望を拒否したため一時絶縁状態となり、友人の経営する文房具会社で万年筆製作の仕事をして生計を立てた。在学中は雄弁会と体格を活かした相撲部に所属し、漕艇部でもレースに出場。大学創立者の大隈重信から体格を褒められたと語っている[6]。
初期の社会主義運動
大正8年(1919年)秋、学生運動団体建設者同盟の結成に参加し、社会主義運動に本格的に身を投じた。全国の小作争議や労働争議を応援する活動を展開し、軍部協力派の学生団体(早大軍事研究団)への抗議集会では演説を行い、運動部員や右翼から暴行を受ける(早大軍研事件)。関東大震災発生時は群馬県で集会に参加しており、東京に戻った際に兵士に捕まり、騎兵連隊の営倉に拘束され、市ヶ谷刑務所監獄で看守から暴行を受けた[6]。
1923年に早稲田大学政治経済科を卒業後、1925年(大正14年)、26歳で日本初の統一無産政党農民労働党の書記長に就任したが、結党からわずか1時間で政府により解散させられた。
国家社会主義への傾倒
1926年、労働農民党が結成されるが、右派・中間派・左派の三派に分裂。浅沼は日本労農党に参加した。1932年、分裂した無産政党を糾合して社会大衆党が結成されると浅沼も参加。書記長の麻生久の人柄に心酔し、麻生が軍部との協力による社会変革を目指す国家社会主義路線を打ち出すとこれを支持。以後、浅沼は軍部の戦争政策を支持する立場となる。1933年に東京市会議員、1936年に衆議院議員に初当選。1940年、斎藤隆夫が日中戦争の泥沼化を批判する反軍演説を行った際、その除名に賛成した。
1940年に大政翼賛会が発足すると臨時選挙制度調査部副部長に就任[8]。同年、麻生久が急死し、精神的支柱を失った浅沼は深い苦痛を感じ、1942年の翼賛選挙への立候補を辞退し、国政から一時離れた。このことが戦後の公職追放を免れる理由となった。同年、東京市会議員選挙に立候補するが、官憲の妨害により落選。東京都制施行後の初の都議会議員選挙に立候補し当選、副議長に就任した[9]。玉音放送は深川の自宅アパートで聴いた[6]。
1939年の海外視察と内面的変化
1939年(昭和14年)、浅沼は衆議院議員として列国議会同盟派遣団に参加し、アメリカ・ヨーロッパを視察(6月30日~10月2日)。この旅行中、船上や各地で北一輝の弟・北暦吉(団員)と頻繁に議論し、北一輝の『支那革命外史』などを熱心に読んだ。また大川周明の『日本二千六百年史』を読み、「その愛国思想が体に染み込む」と記している。これらの読書と思想交流は、浅沼の東亜新秩序構想を強化し、「超国家的な地域主義」として帝国主義ではない形でのアジア連帯を模索する。基盤となった[10]。
ヨーロッパ滞在中、ドイツの戦争準備を観察し、9月1日にベルリンでポーランド侵攻のニュースを知る。ヒトラーの演説力やドイツ社会の規律を当時の状況下で事実的に記録しているが、これらは旅行中の瞬間的な印象であり、後の思想的転換とは区別される。
天皇制に関する見解

社会主義者として西洋帝国主義を鋭く批判した一方で、浅沼は昭和天皇および皇室に対して深い敬意を抱いていたことで知られる。アパートの居間に神棚を飾り、毎朝それに向かって拍手を打つなど、日常的な信仰の姿を見せていた[11]。また、学者の梅澤昇平によれば、浅沼は毎朝皇居に向かって遥拝を行っていたという[12]。この姿勢は、日本共産党が唱える「天皇制打倒」とは対照的であり、浅沼はそれを嫌い、積極的に拒否していた[11]。
1945年の日本社会党結党時、浅沼は民主化された天皇制のもとでの国体護持を主張した。1945年11月2日の結党大会で、組織部長として進行を務めた浅沼は、「今、皇居に向かって遥拝をしよう」と宣言し、出席者に起立して拝礼するよう呼びかけた。半数以上がこれに応じて起立して遥拝したが、一部から野次も飛んだ[13]。その後、賀川豊彦らとともに「天皇陛下万歳!」を三唱した[14][15]。
社会党右派の書記長として、浅沼は天皇の退位問題について「天皇ご自身が決めるべき事柄」と述べ、戦後の敏感な問題における皇室の自律性を尊重する姿勢を示した[16]。浅沼の天皇への敬意は、右派社会主義者の一部の見解と一致しており、天皇制を外国の君主制のような抑圧の装置ではなく、国民統合と民族的調和の象徴とみなしていた。これは、アジアに対する外部支配への一貫した反対と、日本の伝統的な国民性への愛着という、浅沼の思想の連続性を示している。彼は天皇制を搾取的でないものと捉え、社会的均衡を促すものとして「理論を超えた自然な国民感情」の表れだとみなしていた[11]。これが、急進的な共産主義的反帝国主義との乖離につながった。
浅沼は、雑談の中で天皇を揶揄する発言をした新聞記者を激しく叱責したことがある[17]。このエピソードは、浅沼が日本の国体を理解し、社会主義の枠内で「愛国者」としての資質を持っていた証拠として引用されている[18]。
日本社会党時代


1945年、日本社会党の結成に際し、組織部長に就任した。中間派の指導者だった河上丈太郎・三輪寿壮らが公職から追放されたため、自然と浅沼が中間派の中心人物となった。
1947年、書記長だった西尾末広が片山内閣に入閣すると書記長代理となり、翌年には正式に書記長となった(国会内では初代衆議院議院運営委員長)。1949年の第24回衆議院議員総選挙で委員長の片山哲が落選すると、特別国会の首班指名で社会党は浅沼に投票した(実際に指名されたのは吉田茂)。一時、書記長を離れるが、1950年に書記長に復帰した。1951年、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約ともに反対の左派とともに賛成の右派が対立すると、浅沼は講和条約賛成・安保条約反対の折衷案で、党内の対立をまとめようとするが、左右分裂を食い止めることができなかった。その後、右派社会党書記長となった浅沼は寝る間を惜しんで全国の同志たちの応援に駆け回り、そのバイタリティから「人間機関車」の異名を取った。
1955年10月13日に社会党再統一が実現すると、書記長に就任する[19]。書記長という役職柄、党内で対立があると調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれた。また長年にわたって書記長を務めてきた実績と、長年書記長を務めていながらトップである委員長のポストが巡ってこない境遇をかけて「万年書記長」とも呼ばれた。
1959年、第2次中国訪問団の団長として中国を訪問した浅沼は中華人民共和国の「一つの中国」論に賛同し、「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と発言した[20]。草稿は党内左派で、浅沼が「ゴクサ(極左)」と呼んだ広沢賢一に命じた物だった。特に「アメリカ帝国主義」を「敵」と名指しした発言は、国内外に大きな波紋を広げた。自民党の福田赳夫はすかさず抗議電報を打ち、「浅沼の失言」アピールに成功した。特に、帰国時に飛行機のタラップを中国の工人帽を着用して降りてきたことについては右翼はもちろん世論、党内の反発を受けた。団員の一人で右派の曾禰益らからは今回の書記長の態度には同意できないとの主張がなされた[21]。また、左派で委員長の鈴木茂三郎も団員の広沢賢一に対して「君が浅沼の秘書役をやりながら一体どうしたものだ」と怒鳴ったとされている[22]。
2015年9月22日の産経新聞のweb記事によると、帰国後間もなく駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世から詰問を受け、釈明しようとするも怒声を浴びせられてすごすごと引き返したとある[23]。ただし、原彬久が勝間田清一へインタビューをした際にはマッカーサーから詰問された際も取り消さないと応じたため大激論となった結果、当初予定の申し入れもなくなったとのことである[24]。また、日本社会党の機関紙局が発行した「邁進 人間機関車ヌマさんの記録」の「浅沼稲次郎のたたかい」によると、安保闘争の強行採決後の1960年5月24日にアメリカ大使館を訪ねた際、マッカーサーから発言の撤回を強く主張してきたが、「取消す必要はない。アメリカ国民に対してではなくて、帝国主義政策と社会党が闘うのは当然である」として、撤回を拒否したとある[25]。
浅沼発言の背景としては、満州事変以来日本は侵略戦争を行ってきたとの考え方に基づき、自身も政治家の一人として積極的に戦争に加担したことにより中国人に損害を与えた悔悟の念を表したのではないかとされている。また、朝鮮民主主義人民共和国から訪中していた黄方秀は、かつて日本にいたことがあり、さらに浅沼の選挙を手伝ったことがあった。黄は事態打開のために「戦闘的な態度」を取るべきだと浅沼らに主張した。草稿を作成した広沢は、「日中両国人民の共同の敵」の「敵」の部分は「課題」など、より穏やかな単語も用意した。浅沼はその中から「敵」を選んだという[26]。ただし、勝間田清一は「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」は中国側の張奚若の発言であり、浅沼は「まあ、そうですね」などと相づちを打ったのが真相だと主張している[27]。
1960年、西尾末広らが社会党を離党して民主社会党(民社党)を結成すると、鈴木茂三郎委員長は辞任し浅沼が後任の委員長に選ばれた[28]。浅沼は安保闘争を前面にたって戦い、 同年5月24日には在日アメリカ大使館に赴き、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪日延期を要請。また、大使との間で「アメリカ帝国主義」をめぐり激論を交わした[29]。世論の後押しもあり、岸信介内閣を総辞職に追い込むが、安保条約の廃案を勝ち取ることはできなかった。また民社党は続く1960年総選挙に、麻生久の子で浅沼も目を掛けていた麻生良方を浅沼の対立候補として東京1区に立てるといった、全面対決の姿勢を見せた。


しかし、総選挙の前哨戦として、1960年10月12日に日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した浅沼は、演説中に突然壇上に上がって来た17歳の右翼少年・山口二矢に腹部を刺され、非業の最期を遂げた。61歳没。
エピソード
- 浅沼は東京都江東区白河町の同潤会アパートに30年間居住し、自宅に滞在している時は団地の片隅の猫の額ほどの狭い庭で植木いじりをよく行っていた。また、浅沼の人気は東京の下町では絶大で、地元の労働者の集まる食堂で浅沼の悪口を言った新聞記者がその場から叩き出されたという口碑がある。
- 早稲田大学に入るまで陸軍幼年学校を2回、陸軍士官学校を2回、海軍兵学校を4回受験して不合格となっている。浅沼が早稲田大学在学だった1921年(大正10年)頃に襲来した台風で、漕艇部の艇庫が浸水した際には自ら真っ先に駆けつけ、ボートを守ろうとしたという[31]。
- 妻・享子との馴れ初めは大正末から昭和に改元される頃で、当時の社会主義運動に身を投じた浅沼らは享子が働いていた喫茶店をたまり場としていた。結婚後も恐妻家、愛妻家として知られた。
- 浅沼が刺殺されると、全国で暴挙を非難する抗議集会や抗議デモが行われ、集会に44万5000人、デモに37万人が参加したといわれている[32]。浅沼に魅了されたマスコミ関係者も多く、浅沼の命日には毎年、浅沼にゆかりのある記者たちが一堂に会して浅沼の死を悼んだという。生前は新聞記者から「政界ゴシップの素材が見当たらない時は浅沼を探せ」と言われ、「一日に五回、風呂に入ってくれ」といった無理な要求にも怒らずに対応した。
- 昭和天皇・皇室を敬愛していたことでも知られ、雑談中に昭和天皇を揶揄する発言をした新聞記者をいきなり怒鳴りつけたこともあるという[33]。
- 党外でも調整役として手腕を発揮し、右派ながらも社共共闘を積極的に進めた。日本共産党関係者・支持者の間でも信頼が厚く、社共両党の関係を良好なものにしていた。
- 1960年(昭和35年)10月18日、衆議院本会議で池田勇人が喪章をつけて追悼演説を行った[34][35]。「……私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。……その人を相手に政策の論議を行おうと誓った好敵手の席であります。かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、またある時は大衆の先頭に聞いたのであります。いま、その人は亡く、その声も止みました。私は誰に向かって論争を挑めばよいのでありましょうか……」と死を悼み、「目的のために手段を選ばない風潮を今後絶対に許さない」と宣言した。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、首席秘書官で後に政治評論家となる伊藤昌哉が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった。」と池田は述懐している[36]。
- 浅沼は愛犬家としても知られ、犬にまつわるエピソードも多かった。ディズニーアニメ『わんわん物語』のラジオドラマ版では、ブルドッグ役の声をあてる為に1956年9月6日に有楽町のラジオ東京ホールにある録音スタジオで行われたアフレコに声優として出演したことがある。その浅沼が自宅で飼っていた犬が死んだときには、当時の自民党国会対策委員長の福永健司、民社党国会対策委員長の春日一幸が浅沼を励ますべく秋田犬を贈った。「次郎」と名付けられたこの犬は、浅沼が刺殺された後、主人がいなくなったことを察したのか、何も食べなくなり後を追うようにして死んだという。
- 無類の格闘技好きで、早稲田大学時代は相撲部の副主将を務めた。大相撲とも縁が深く、大内山平吉を大いに後援していた[37]ほか、1957年には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となった[38]。その縁で日本プロレスリング創始者の力道山光浩と親交があった。また日本初のプロボクシング世界王者の白井義男とは縁戚に当たり、白井が結婚した際には媒酌人を務めた。
- 巨漢に違わず食欲は天下一品であった。早坂茂三によれば、東京タイムズの記者として浅沼の遊説に同行した際、記者団に用意されたカツ丼が人数の倍も置かれており、これに気付いたある記者が「ヌマさん、他に大勢来るんですか?」と聞くと、既に60代だった浅沼が「えっ、君ら一つで足りるのかい?」と言い、カツ丼2杯、味噌汁、漬物を惜しげもなく平らげたという[39]。
- 浅沼を暗殺した山口二矢は生長の家の思想の影響を受けていたとされるが、浅沼自身も生長の家の初代総裁である谷口雅春の支持者であった。谷口は「『生命の実相』の参業者である鳩山一郎と好一体」「生長の家は社会党に反対しているわけでも自民党に賛同しているわけでもない」と述べていた。
- 浅沼の後輩で、のちに社会党委員長から内閣総理大臣に就任した村山富市は生前、浅沼を「偉大な存在」「社会党に骨を埋める決意をしたのは浅沼さんとの出会い」などと深く尊敬している。
三宅島と銅像
故郷の三宅村神着にあった生家の跡が公園となっており(通称・児童公園)、右手を掲げたポーズの銅像が建っている。しかし、2000年からの雄山噴火による有毒ガスの影響で、上半身の部分が変色している。また、公園自体も手入れがままならない状況となり、雑草が生い茂っている。
社会民主党は、浅沼の胸像を本部に飾っていたが、2013年1月、社会文化会館から民間ビルに本部が引っ越した際、胸像は2トンもある重量のためにビルの底が抜ける恐れがあり、しばらく残されていた。台座部分を削り、一部材質を切り替えるなどして重量を減らし、2013年5月、引越しが完了した[40]。
備考
著書
単著
- 『わが言論斗争録 日本の完全独立と平和のために』社会思潮社、1953年12月20日。NDLJP:2977047。
- 『日中提携への道』商工財務研究会〈アルプス・シリーズ 第28輯〉、1957年5月。
- 『浅沼稲次郎 私の履歴書ほか』日本図書センター〈人間の記録 72〉、1998年8月。ISBN 9784820543176。
編集
共著
目録
- 『浅沼稲次郎関係文書目録(稿)』国立国会図書館、1971年8月。
関連項目
脚注
注釈
出典
- ↑ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年、2頁。
- ↑ 浅沼稲次郎『私の履歴書』:新字新仮名 - 青空文庫
- ↑ 田所輝明『無産党十字街』先進社、1932年、 p. 69.
- ↑ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 24頁。
- 1 2 “浅沼家(衆議院議員・浅沼稲次郎・浅沼享子の家系図)”. 閨閥学. 2026年2月21日閲覧。
- 1 2 3 4 “私の履歴書”. 青空文庫. 2026年2月21日閲覧。
- ↑ “浅沼享子の生涯について知りたい。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2026年2月21日閲覧。
- ↑ 『昭和の代議士』楠精一郎 文春新書
- ↑ “歴代議長・副議長 | 東京都議会”. 東京都議会. 2021年5月8日閲覧。
- ↑ 松本浩延「浅沼稲次郎「列国議会同盟派遣団 訪米・訪欧日記──1939年6月30日~10月2日──」翻刻と解題」『同志社法学』第73巻第1号、2021年、83-145頁、2026年2月21日閲覧。
- 1 2 3 櫻井よしこ (2016年6月30日). “今だから読んでみよう、共産党綱領”. 櫻LIVE. 2026年2月22日閲覧。
- ↑ 梅澤, 昇平 (2011年). “戦後“革新派”の皇室観”. 尚美学園大学リポジトリ. p. 10. 2026年4月6日閲覧。
- ↑ “翼賛選挙無効判決を勝ち取った大衆政治家・冨吉栄二伝”. 鹿児島大学リポジトリ. 鹿児島大学 (2022年). 2026年9月19日閲覧。
- ↑ “社会・民社党の創設者 西尾末広(5) 社会党結成に奔走、書記長に”. 日本経済新聞 (2010年11月7日). 2026年4月2日閲覧。
- ↑ “"また、日本社会党は、結党の際に中間派の浅沼稲次郎は国体護持を訴え、賀川豊彦たちと「天皇陛下万歳」を三唱した"”. 2026年9月19日閲覧。
- ↑ 「講和条約期における天皇退位問題」『日本史研究』第485巻、2003年、2026年2月22日閲覧。
- ↑ 俵, 孝太郎『政治家の風景』学習研究社、1994年、8頁。
- ↑ “ああ!ヌマさんありせば”. Ameblo. 2026年2月22日閲覧。
- ↑ 神沢和敬、横山翼 (2022年6月19日). “政権交代、他弱…与野党区別できない時代に? 戦後政治、野党の歩み”. 朝日新聞. 2023年10月22日閲覧。
- ↑ “浅沼稲次郎の三つの代表的演説”. 青空文庫. 2010年11月26日閲覧。
- ↑ 原, 彬久 (2000). 戦後史のなかの日本社会党-その理想主義とは何であったのか-. 中央公論社
- ↑ 原彬久『戦後政治と国際政治-安保改定の政治力学-』中央公論社、1988年、254頁。
- ↑ “【安保改定の真実(7)】先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決で事態一転…牧歌的デモじわり過激化 そして犠牲者が”. 産経ニュース (2015年9月22日). 2019年1月17日閲覧。
- ↑ 原彬久『戦後日本と国際政治-安保改定の政治力学-』中央公論社、1988年、613頁。
- ↑ 『人間の記録・・・72 浅沼稲次郎 私の履歴書ほか』日本図書センター、1998年8月25日。
- ↑ 沢木耕太郎『テロルの決算』 p161-164
- ↑ 鈴木徹三「戦後社会運動史資料論――鈴木茂三郎」『大原社会問題研究所雑誌』第517号、2001年12月。鈴木徹三は鈴木茂三郎の子。
- ↑ 昭和35年3月 中日ニュース No.324_1「浅沼委員長に決まる」 中日映画社
- ↑ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、99頁。ISBN 9784309225043。
- ↑ 宮内庁『昭和天皇実録第十三』東京書籍、2017年9月30日、115頁。ISBN 978-4-487-74413-8。
- ↑ 早稲田大学漕艇部 伝統 WASEDA CLUB
- ↑ 鶴崎友亀『浅沼稲次郎小伝』新時代社、1998年、p.204
- ↑ 俵孝太郎『政治家の風景』、学習研究社、p.8、1994
- ↑ 文藝春秋編『弔辞 劇的な人生を送る言葉』(文春新書2011年)所収。
- ↑ 1960年 池田総理の追悼演説 刃に倒れた浅沼委員長へ「誰に論争を挑めば…」【映像記録 news archive】 - YouTube(ANNnewsCH)
- ↑ 若宮啓文『忘れられない国会論戦』、p.256·257、中公新書 1206 中央公論社 1994年 ISBN 4121012062
- ↑ 高永武敏・原田宏共著「激動の相撲昭和史」ベースボール・マガジン社、p.190
- ↑ 高永武敏・原田宏共著「激動の相撲昭和史」ベースボール・マガジン社、p.153
- ↑ 早坂茂三『オヤジの知恵』 集英社インターナショナル 1999年、p79
- ↑ “:浅沼胸像、やっと新居へ 重さ2トン→470キロで実現”. 朝日新聞. 2013年5月17日. 2013年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2013年5月17日閲覧.
参考文献
- 浅沼追悼出版編集委員会 編『驀進 人間機関車ヌマさんの記録』日本社会党、1961年6月10日。
- 鶴崎友亀『浅沼稲次郎小伝』(たいまつ新書、1979年)1998年に新時代社より復刻。 ISBN 4167209047(復刻版)
- 沢木耕太郎『テロルの決算』(文春文庫、1982年) ISBN 4-16-720904-7
- 豊田穣『浅沼稲次郎 人間機関車』(学陽書房人物文庫、2004年) ISBN 4-313-75172-6
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、15頁)
外部リンク
- 浅沼稲次郎:作家別作品リスト - 青空文庫
- 米帝国主義は日中両国人民の敵である
- 最後の「浅沼演説」
- 浅沼稲次郎関係文書(その1)(国立国会図書館憲政資料室)
- 浅沼稲次郎関係文書(その2)(国立国会図書館憲政資料室)
- 第3章 議会政治家 | あの人の直筆 - 国立国会図書館
- 早稲田人名データベース 浅沼稲次郎
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 創設 |
初・第2代:1947年 - 1948年 |
次代 山口喜久一郎 |
| 党職 | ||
| 先代 鈴木茂三郎 |
日本社会党委員長 第3代:1960年 |
次代 江田三郎(代行) |
| 先代 左右統一 |
日本社会党書記長 初代:1955年 - 1960年 |
次代 江田三郎 |
| 先代 結成 |
農民労働党書記長 初代:1925年 |
次代 結社禁止 |