照護寺

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 照護寺
桂島山照護寺
所在地 福井県福井市松本4-7-3
位置 北緯36度04分21秒 東経136度13分09秒 / 北緯36.07250度 東経136.21917度 / 36.07250; 136.21917
山号 桂島山
宗派 浄土真宗本願寺派
寺格 別格寺
本尊 阿弥陀如来
創建年 不詳
開基 良観
別称 桂島照護寺、森本照護寺 (旧称:六角堂)
照護寺の位置(福井市中心部内)
照護寺
照護寺 (福井市中心部)
照護寺の位置(福井市広域内)
照護寺
照護寺 (福井市広域)
照護寺の位置(福井県内)
照護寺
照護寺 (福井県)
照護寺の位置(日本内)
照護寺
照護寺 (日本)
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照護寺(しょうごじ)は、福井県福井市松本にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は桂島山。開基は良観とされ、もとは足羽郡稲津の桂島にあった。15世紀に蓮如の甥の蓮真が住持となった。戦国時代には本願寺の一家衆、江戸時代には院家に数えられ、近代には別格寺とされた。通称は桂島照護寺、森本照護寺。墓地は足羽山西墓地第3号墓にある。

歴史

創建と桂島の時代

創建の年は分かっていない。『稿本福井市史』が寺院明細帳を典拠に記すところでは、開基は良観で、はじめは天台宗の寺だった。1363年(貞治2年)に浄土真宗へ改めたという[1]。『講座蓮如』によれば、良観が真宗に転じたのは貞治元年(1362年)とされる[2][3]。昭和初期の『親鸞上人蓮如上人聖蹟宝典』は、足利義詮の時代に良観が開いたと書く[4]。

寺地は、はじめ現在の福井市稲津町にあたる桂島にあった[5][6]。宮崎清は、桂島の場所を足羽川の右岸、稲津橋の近くとする説を紹介している[7]。『ふくいの歴史遺産』は、照護寺がもと稲津桂島にあり、桂島山と号すると記す[8]。ただし宮崎は、現在の山号を森本山とし、それは寺が加賀の森本に移ったためとみている[7]。

照護寺は、越前の守護代だった甲斐氏と結びつきが深かった。顕誓の『反故裏書』は、桂島の照護寺を「国侍甲斐名字代々住持スル坊跡」と記す[9]。大野郡阪谷の村誌が載せる寺伝では、斯波氏の家臣である甲斐氏の一族の良観が、一族の菩提寺として開いたとされる[10]。『福井市史』は、照護寺の保護者を、斯波氏の守護代である甲斐氏とする[11]。一方、北西弘は、良観が甲斐氏の出身なのか、単に甲斐氏の菩提寺だったのかは、まだ検討が要るとする[12]。宮崎清は、照護寺を甲斐氏の菩提寺とする説が、高道正信『荒川興行寺史』によるものだと注記している[7]。

北西弘は、初代の良観を良空と同じ人とみる[12]。これに対し『講座蓮如』は、貞治元年に真宗に転じたとされる良観と、15世紀前期の住持の良空を分けて書く[2][3]。宮崎清は開基を良空とし、その妻を、荒川興行寺の開基である周覚の娘、良宗尼とする[7]。『福井県史』も、周覚の二女が良空の妻になったと書く。同書によれば、稲津桂島にあった照護寺は六角堂とも呼ばれ、越前の守護代だった甲斐一族が住持する、本願寺系ではない寺だった[13]。

蓮真の入寺と一家衆

『反故裏書』によれば、甲斐氏が代々住持してきた照護寺の住持が還俗して「退転」したため、縁を結んで石田西光寺の永存の長男を住持に迎えた。これが蓮真である[9][12]。

蓮真(諱は玄永)は1443年(嘉吉3年)に生まれたとされる[2]。ただし北西弘は、永正18年(1521年)10月20日に69歳で没したとし、享徳2年(1453年)の生まれとする[12]。父の永存は、本願寺第5世綽如の三男である周覚の長男で、存如の娘の如祐を妻とした[2][14]。母の如祐は蓮如の妹にあたり、蓮真は蓮如の甥になる[9][7]。北西弘は母の名を妙祐(栃川尼公)と書く[12]。

照護寺と本願寺の系図(横線は婚姻)[2][14][7][3][15]

綽如
本願寺第5世
巧如周覚
興行寺開基
存如
蓮如如祐永存
石田西光寺
良宗尼良空
照護寺
蓮真
照護寺
如宗尼
実順
照護寺

『講座蓮如』は、蓮真が住持の良空の娘、如宗尼の婿として入ったとし、これで照護寺は本願寺派に属したとする。良空が寺を退いたのは、応仁の乱のなかで甲斐氏と朝倉氏が争い、甲斐方が越前を追われたためであろうと推測している[3]。宮崎清も、良空が娘の如宗に蓮真を迎えて寺を継がせたとみる[7]。これに対して辻川達雄は、無住になっていた照護寺に、存如が周覚の次女良宗の夫として良空を入れて本願寺の末寺とし、のちにその跡を蓮真に継がせたと書く。この再興は宝徳3年(1451年)ごろのことと伝えられるという[16]。

北西弘は、蓮真が父の西光寺を継がず、照護寺に入ってその第2世となった点に注目する。そこから蓮如と甲斐氏のつながりを論じ、照護寺と甲斐氏はきわめて親しい間柄だったとみている[12]。

照護寺は、周覚の流れをくむ本願寺の一家衆に数えられた[17]。証如の『天文日記』は、天文18年(1549年)7月10日の条で、一家衆10人のなかに照護寺を挙げている[18]。

吉崎の多屋と砂子坂

吉崎御坊跡の石碑(福井県あわら市)

1471年(文明3年)、蓮如は越前の吉崎に下り、吉崎御坊を建てた。御坊の周りには多屋と呼ばれる坊舎が建ち並んだ。最盛時には48坊とも伝えられ、近くの本願寺系の大寺の由緒書の多くは、多屋を建てたと記す。一帯は寺内町となった[19]。『真宗懐古鈔』巻之上に収める『吉崎御建立縁起』は、和田の本覚寺、田島の興宗寺、桂島の照護寺、荒川の興行寺、藤島の超勝寺、横根の乗願寺、川島の専勝寺などの大坊主が、山上に多屋を建て並べたと記す[20][21]。大阪市立博物館の報告は、超勝寺・興行寺・照護寺という本願寺の血縁・姻戚の寺が含まれる点に注目しながら、個々の寺名が正しいかどうかは措くとしている[20]。

城端別院善徳寺(富山県南砺市)。蓮真が入った砂子坂の坊舎を草創とする

蓮真は、やがて越前を離れた。加賀の砂子坂に移り、さらに越中の法林寺(福光町)、松寺へと移った[3][22]。砂子坂には、蓮如の越中下向を機に坊舎が建てられ、蓮真がそこに入った。この坊舎が、のちの善徳寺の草創につながった[23]。井上鋭夫は、蓮真が一代のあいだに越前の西田・桂島、京都の六角、中島、加賀の砂子坂、京都の岡崎、越中の法林寺・松寺、越前の吉崎と移ったとする[24]。一方、『城端別院善徳寺史』は『日野一流系図』をもとに、蓮真は砂子坂に住んだのち越前に戻り、岡崎(福井市)に住んだらしいとする。同書は、蓮真が文明6年(1474年)の時点では砂子坂にいて、文明9年ごろには越前に一時戻っていたと推定している[25]。

のちに実如は、第3世の実円に与えたとされる書状で、蓮真が書き残した文書のとおり、加賀・越中・能登の3か国の門徒を善徳寺に付けるよう定めた。『富山県史』と、これに従う『城端別院善徳寺史』は、この門徒を照護寺の門徒とみる。そのうえで、越前の分を除いた3か国の門徒を善徳寺に分けたものと解している。善徳寺はこれを機に本格的な寺として歩みはじめた。のちの城端別院善徳寺である[26]。

一向一揆と加賀森本

照護寺の位置(北陸3県内)
桂島・福井
桂島・福井
吉崎
吉崎
森本
森本
砂子坂
砂子坂
法林寺
法林寺
照護寺と2代蓮真にかかわる北陸の地(位置は町域のおおよその中心)

近世の軍記『朝倉始末記』は、1506年(永正3年)の九頭竜川の戦いで九頭竜口に向かった江沼郡・能美郡の一揆勢の将の中に「森本照護寺」の名を挙げる。越中の大坊主や越前の牢人を合わせた九頭竜口方面の軍勢を、8万8千余人としている[27]。一揆勢は、朝倉貞景と一族の朝倉教景(宗滴)の軍勢に敗れた[28]。

照護寺が加賀の森本へ移った時期は、資料によって違う。阪谷の村誌が載せる寺伝では、蓮如が吉崎を去ったあと、照護寺は加賀国森本の庄砂子に移った。さらに天文年間に大野郡阪谷へ移り、その地を森本と名づけたという[10]。北西弘と宮崎清は、5世顕秀のときに乱を避けて寺基を加賀国の森本へ移し、6世准周の代に越前へ戻ったとする[12][7]。『ふくいの歴史遺産』は、一揆の時代の玄尋(証祐)と玄流(顕秀)のころに、照護寺が加賀森本にあったとする[8]。近世の地誌『越藩拾遺録』は、元祖が京都に住み、加賀の森本にも住んだので森本照護寺とも呼ぶ、と説明する[1]。

天正2年(1574年)8月、専修寺の賢会は書状のなかで、鉢伏山の要害に西光寺・正闡坊・今小路・照護寺と自分の5人で詰めていると書いた[29]。柏原祐泉は、このころの一揆で、西光寺・専修寺・照護寺といった一家衆は戦いを主張する側に立ったと論じる。軍費や労役を負わされた坊主衆・門徒衆は、離れていったという[30]。

1575年(天正3年)、織田信長は越前に攻め入った。『越賀雑記』や軍記『明智軍記』は、これを迎え撃つ一揆方のうち、三国湊(三里浜)を守る大将として杉浦玄任・和田本覚寺・森本照護寺・荒川興行寺・宇坂本向寺を挙げ、吉崎の湊の大将を七里三河・藤島超勝寺・久末の照巌寺とする[31][32][33]。岩佐巧も、三国湊の大将に森本照護寺を挙げている[34]。

石山合戦では、照護寺が大坂や紀州で顕如を守り、戻ってから再び桂島にとどまったと寺伝はいう[10]。照護寺の由緒書も、顕秀が顕如の紀州在住中に父子でそばに仕えたと記す[35]。

文禄3年(1594年)6月の日付をもつ「砂子坂末寺ノ覚書」(富山県の光徳寺蔵)は、光徳寺の加賀・越中・能登にわたる末寺の道場を書き上げたもので、能登の項に照護寺の名が見える[36]。

福井城下と近世の寺格

照護寺の位置(福井市中心部内)
桂島(稲津町)
桂島(稲津町)
柳町(春山)
柳町(春山)
現在地(松本)
現在地(松本)
福井市内での寺地の移り変わり(位置は町域のおおよその中心)

照護寺の由緒書によれば、准周の代に、福井の旧領主堀左衛門尉から30間四方の土地を寄進された[35]。『福井市史』は、一家衆・院家の照護寺が堀秀政から北庄の柳町に30間四方の寺地の寄進を受けて移ったとする[37]。山下春溪も、この寄進者を秀政とみる[38]。柳町の寺町の跡は、現在の春山地区にあたる[39]。

『慶長日記』には、照護寺殿(42歳)が毫摂寺や瑞泉寺の住持と同じ日に院家を許された記事がある[40]。慶長から寛永のころの西本願寺の末寺帳は、越前の院家衆として、福井照護寺・藤島超勝寺・三国勝授寺・吉江西光寺・大野教願寺・東郷照恩寺を挙げる[41]。

本願寺が東西に分かれたとき、越前の有力な末寺の多くは西派に入った。照護寺もその一つで、興宗寺・真宗寺・興行寺・西光寺と同じく西派に属した[42]。大谷派に残った大野郡の蓮照寺の書き上げも、周覚の一族の4か寺のうち、興行寺・西光寺・照護寺は分派のときに本願寺派へ移ったと書く[43]。

本願寺福井別院(西御堂)。照護寺と同じ福井市松本にある

近世の初めに福井の柳町へ移ったのち、照護寺は西御坊(いまの西別院)の後見役となり、末寺を多く抱える大坊になったという[8]。柳町の照護寺は、西別院の隣の寺町にあった。1659年(万治2年)の大火でこの寺町が焼けると、照護寺は本覚寺・真宗寺・興宗寺などとともに城下の北へ移り、西御堂の寺町をつくった[39]。現在の寺地は、このとき移った場所である[8]。

近現代

足羽山西墓地(照護寺)

『稿本福井市史』(1941年)は、寺院明細帳などをもとに、照護寺を尾上上町にある真宗本派の寺で、京都の本派本願寺の末寺とする[1]。1930年刊の『親鸞上人蓮如上人聖蹟宝典』は、照護寺を西本願寺の別格寺としている[4]。

住職の武田澤心は河内の顕証寺の出身で、安政2年(1855年)に生まれた。1917年(大正6年)6月に本願寺派の管長代理となった[44]。1921年(大正10年)まで務め、同年に宗正となった。1936年刊の『仏教年鑑』昭和12年版は、照護寺の前住職として、澤心が2月24日に82歳で没したと伝える[45]。

1944年(昭和19年)9月から、大阪市城東区の聖賢国民学校の児童が福井に集団疎開した。1945年(昭和20年)3月以降、1年生から6年生までの児童は、照護寺を含む6寺院に収容された[46]。

1945年(昭和20年)の福井空襲で戦災を受け、1948年(昭和23年)の福井地震で震災を受けて、寺は壊滅的な被害を受け、のちに建て直された[8]。1999年時点の本堂は、向拝のついた一層の鉄筋コンクリート造で、イスラム風の意匠をもつ[8]。

良観和讃

『良観和讃』という題の写本を、大谷大学図書館が所蔵する。奥書には「六角堂照護寺之門弟薊田之良観房述之」とあり、応永14年(1407年)4月27日の年記をもつ[47]。多屋頼俊によれば、大谷大学本は応永の原本ではなく、近世の写本である[47]。

親鸞奉讃・法然上人奉讃・上宮太子奉讃を、それぞれ上下2巻に分けた6篇からなる。上巻と下巻は内容が続かず、6篇は互いに独立している[48]。

上宮太子奉讃の上巻は、法隆寺に伝わる太子和讃と重なる。この和讃は叡尊(思円上人)の作と伝えられる。下巻は、高野山の金剛三昧院に伝わる聖徳太子和讃と重なる。ただし、どちらも句の出入りがある[49][48]。高野山の和讃には正和3年(1314年)に写したという奥書があり、奥書の年だけで比べれば、法隆寺や高野山の和讃のほうが古い。それでも多屋は「良観房述之」を偽りとは言い切れないとし、結論を後日に持ち越した[47]。

作者の良観房について、多屋は真宗系統の談義僧であろうと推測した[50][51]。また多屋は、良観房の経歴は全く分からないとし、奥書の「六角堂照護寺」の所在も不明だとする。京都の六角堂は頂法寺だとも述べている[52]。一方、日下無倫は、良観を越前の生田にあった照護寺の門弟とみる[53]。日下は『真宗法彙左券』をもとに、良観を、南北朝期から室町期に生きた天台宗の学僧ともする[54]。宮崎円遵は、蓮如が和讃を勤行に取り入れたきっかけは北陸の本願寺の教線のなかにあったと推測し、その例としてこの和讃を挙げている[55]。

親鸞奉讃の上巻は、親鸞の幼名を「十八公若」と記す。日下は、これが親鸞の幼名の見える最初の文献であろうとした[56]。同じ内容をもつ異本の『親鸞聖人御俗姓奉讃』は「十八公君」と書くが、日下はこれを写し誤りとみる[56]。日下はまた、親鸞の母を吉光女と呼ぶ最初の文献も、おそらく良観房の親鸞奉讃だとした。存覚の作とされる書にも吉光女の記事があるが、日下は、この書は存覚の真作とは決められず、江戸時代初期の作とみるほかない節もあるとして外し、良観和讃こそ吉光女の伝説の起こりを示す有力な史料だとした[54]。

歴代住職

歴代の数え方は資料によって違う。以下は開基を初代とし、顕秀を5代とする数え方で、北西弘や宮崎清と同じである[12][7]。照護寺の由緒書は蓮真を初代とし、顕秀を4代、准周を5代とする[35]。没年月日は主に『真宗年表』による[57]。

  • 初代 良観(?-?):北西弘は良空と同じ人とみる[12]。宮崎清は開基を良空とし、その室を興行寺開山周覚の娘の良宗尼とする[7]。
  • 2代 蓮真(1443-1511):玄永。永存の長男で、母は存如の娘の如祐[2]。良空の娘の如宗尼の婿[3]。永正8年10月20日に69歳で没[35]。加賀の砂子坂の坊舎に入り、のちの城端別院善徳寺の草創に関わった[23]。
  • 3代 実順(?-1534):玄昭。真桂とも[3]。蓮真の子[15]。天文3年4月18日没。隠居したのち照桂坊の号を受けた[35]。
  • 4代 証祐(1499-1557):玄尋。祐正とも[3]。弘治3年5月3日に59歳で没[35]。
  • 5代 顕秀(?-1597):玄流。慶長2年4月23日没。顕如の紀州在住中、父子で顕如に仕えた[35]。北西弘によれば、この代に乱を避けて加賀の森本へ寺基を移した[12]。
  • 6代 准周(?-1654):祐明。承応3年1月12日没[35]。北西弘は、この代に越前へ戻ったとする[12]。由緒書によれば、この代に堀左衛門尉から30間四方の土地の寄進を受けた[35]。
  • 7代 准専(?-1655):昭周。
  • 8代 准良(?-1660):明厳。
  • 9代 良祐(?-1672):円純。
  • 10代 寂祐(?-1720):常宣。
  • 11代 寂慧(?-1735):
  • 12代 住勝(?-1762):
  • 13代 法秀(?-1788):
  • 14代 法巍(?-1836):
  • 15代 本乗(?-1869):
  • 16代 広延(1824-1884):
  • 17代 広洗(?-?):『真宗年表』は没日を昭和12年2月24日とする[57]。
  • 18代 武田淳心(?-1951):1929年刊の村誌は、開基から18代目の現住職とする[10]。
  • 19代 武田照淳(?-2010):1999年時点の住職[8]。
  • 20代 武田照寧:1997年の福井県の宗教法人名簿に、照護寺の代表者として載る[58]。

所在地

  • 福井県福井市松本4-7-3[8]

アクセス

脚注

  1. 1 2 3 福井市役所 編『稿本福井市史』下巻、歴史図書社、1973年、429頁。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ275)。原本は福井市、1941年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ249)
  2. 1 2 3 4 5 6 浄土真宗教学研究所・本願寺史料研究所 編『講座蓮如』第6巻、平凡社、1998年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ151)
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 浄土真宗教学研究所・本願寺史料研究所 編『講座蓮如』第6巻、平凡社、1998年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ152)
  4. 1 2 真宗興隆会 編『親鸞上人蓮如上人聖蹟宝典』真宗興隆会本部、1930年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ931)
  5. ↑ 足羽町史編纂委員会 編『足羽町史』福井市、1976年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ436-437)
  6. ↑ 宮崎清『真宗反故裏書之研究』永田文昌堂、1987年、333-336頁。
  7. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 宮崎清『真宗反故裏書之研究』永田文昌堂、1987年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ184)
  8. 1 2 3 4 5 6 7 8 木村慶一『ふくいの歴史遺産 越前・若狭』木村建築事務所、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ12)
  9. 1 2 3 宮崎清『真宗反故裏書之研究』永田文昌堂、1987年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ183)
  10. 1 2 3 4 福井県大野郡阪谷五箇両村組合 編『福井県大野郡阪谷五箇村誌』阪谷五箇両村組合、1929年、第一付録7頁。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ155)
  11. ↑ 福井市 編『福井市史』通史編1(古代・中世)、福井市、1997年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ439)
  12. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 北西弘『蓮如上人筆跡の研究』春秋社、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ78)
  13. ↑ 福井県 編『福井県史』通史編2(中世)、福井県、1994年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ535)
  14. 1 2 千秋謙治『梅原の以速寺』以速寺、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ87)
  15. 1 2 砺波市史編纂委員会 編『砺波市史』資料編1(考古、古代・中世)、砺波市、1990年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ450)
  16. ↑ 辻川達雄『蓮如実伝』第2部(北陸篇 上)、本願寺維持財団、1996年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ58-59)
  17. ↑ 城端別院善徳寺蓮如上人五百回御遠忌記念誌編纂委員会 編『城端別院善徳寺史』城端別院善徳寺、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ39)
  18. ↑ 千秋謙治『梅原の以速寺』以速寺、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ42)
  19. ↑ 朝倉喜祐『吉崎御坊の歴史』国書刊行会、1995年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ41・45-47)
  20. 1 2 『中世大阪の都市機能と構造に関する調査研究 越前吉崎「寺内」の調査研究』大阪市立博物館、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ26)
  21. ↑ 『蓮如大系』第1巻、法蔵館、1996年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ109)
  22. ↑ 浄土真宗教学研究所・本願寺史料研究所 編『講座蓮如』第6巻、平凡社、1998年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ108)
  23. 1 2 城端別院善徳寺蓮如上人五百回御遠忌記念誌編纂委員会 編『城端別院善徳寺史』城端別院善徳寺、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ29-30)
  24. ↑ 井上鋭夫『一向一揆の研究』吉川弘文館、1988年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ107)
  25. ↑ 城端別院善徳寺蓮如上人五百回御遠忌記念誌編纂委員会 編『城端別院善徳寺史』城端別院善徳寺、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ35)
  26. ↑ 城端別院善徳寺蓮如上人五百回御遠忌記念誌編纂委員会 編『城端別院善徳寺史』城端別院善徳寺、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ34-35)
  27. ↑ 坂井町誌編纂委員会 編『坂井町誌』坂井町、1973年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ302-303)
  28. ↑ 坂井町誌編纂委員会 編『坂井町誌』坂井町、1973年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ296)
  29. ↑ 小泉義博『越前一向衆の研究』法藏館、1999年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ147)
  30. ↑ 柏原祐泉『日本近世近代仏教史の研究』平楽寺書店、1969年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ26)
  31. ↑ 日置謙 校『一向一揆と富樫氏』石川県図書館協会、1934年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ10)
  32. ↑ 二木謙一 校注『明智軍記』新人物往来社、1995年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ114)
  33. ↑ 小田吉之丈『北国の一向宗一揆集』小田吉之丈、1931年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ129)
  34. ↑ 岩佐巧『一向一揆の研究』正文舎出版部、1930年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ85-86)
  35. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 越前・若狭一向一揆関係文書資料調査団 編『越前・若狭一向一揆関係資料集成』同朋舎出版、1980年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ275)
  36. ↑ 石川県図書館協会 編『蓮如上人と一向一揆並富樫氏に関する展観目録』石川県図書館協会、1934年、31頁。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ62)
  37. ↑ 福井市 編『福井市史』通史編1(古代・中世)、福井市、1997年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ455)
  38. ↑ 山下春溪『北荘城主堀秀政』山下文庫、1931年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ77)
  39. 1 2 松原信之『順化地区のあゆみ 町名のゆらい』「うらがまちづくり」順化地区委員会、2000年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ38)
  40. ↑ 首藤善樹 編『慶長日記』同朋舎出版、1980年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ111)
  41. ↑ 福井県 編『福井県史』通史編3(近世1)、福井県、1994年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ371)
  42. ↑ 福井県 編『福井県史』通史編3(近世1)、福井県、1994年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ362)
  43. ↑ 勝山市 編『勝山市史』資料篇第4巻(宗教・武家等)、勝山市、2000年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ98)
  44. ↑ 本願寺史料研究所 編『本願寺史』第3巻、浄土真宗本願寺派宗務所、1969年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ312)
  45. ↑ 仏教年鑑社 編『仏教年鑑』昭和12年版、仏教年鑑社、1936年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ139)
  46. ↑ 福井空襲史刊行会 編『福井空襲史』福井空襲史刊行会、1978年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ302-303)
  47. 1 2 3 多屋頼俊『和讃の研究』法蔵館、1992年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ79-80)
  48. 1 2 多屋頼俊『和讃の研究』法蔵館、1992年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ71)
  49. ↑ 聖徳太子研究会 編『聖徳太子論集』平楽寺書店、1971年、395-396頁。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ205-206)
  50. ↑ 多屋頼俊『和讃史概説』法蔵館、1992年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ129)
  51. ↑ 宇野円空 編『聖典講讃全集』第3巻、小山書店、1935年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ14)
  52. ↑ 多屋頼俊『和讃史概説』法蔵館、1992年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ126)
  53. ↑ 日下無倫『総説親鸞伝絵』史籍刊行会、1958年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ80)
  54. 1 2 日下無倫『真宗史の研究』臨川書店、1975年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ94-95)
  55. ↑ 宮崎円遵著作集編集委員会 編『宮崎円遵著作集』第5巻、思文閣出版、1989年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ43-44)
  56. 1 2 日下無倫『総説親鸞伝絵』史籍刊行会、1958年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ68)
  57. 1 2 大谷大学 編『真宗年表』法蔵館、1973年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ120)
  58. ↑ 『福井県宗教法人名簿』福井県総務部文書学事課、1997年。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ9)