真崎城

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真崎城(まさきじょう)は、常陸国那珂郡(現在の茨城県那珂郡東海村村松)および出羽国仙北郡(現在の秋田県仙北市田沢湖神代)にあった日本の城(城館)。

常陸源氏佐竹氏の一門である真崎氏が本拠・拠点とした。常陸時代の真崎城(別名:天神山城)は、真崎浦の水運掌握と水軍編成、塩田経営を担う軍事・経済・行政の要衝であった[1]。関ヶ原の戦い後の佐竹氏の秋田転封に伴い、出羽国において真崎氏が築いた平地の居館「真崎兵庫頭ノ館」および出城・見張台「真崎館(通称:大蛇山)」についても本項で併せて解説する[2]。

常陸における真崎城

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真崎城
(茨城県)
別名 天神山城
城郭構造 連郭式平山城
築城主 真崎義連
築城年 弘安年間(1278年 - 1287年)
主な城主 真崎氏
廃城年 慶長7年(1602年)
遺構 土塁、空堀、堀切、曲輪
埋蔵文化財
包蔵地番号
0301(茨城県)
位置 北緯36度26分59.4秒 東経140度35分27.1秒 / 北緯36.449833度 東経140.590861度 / 36.449833; 140.590861座標: 北緯36度26分59.4秒 東経140度35分27.1秒 / 北緯36.449833度 東経140.590861度 / 36.449833; 140.590861
真崎城の位置(茨城県内)
真崎城
真崎城
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立地・環境

真崎城は、かつて照沼と村松の間に広がっていた入海「真崎浦」の北西岸、浦へ半島状に真っ直ぐ突き出た台地の先端部に位置する[1]。「真崎」という地名自体が、入海に真っ直ぐ突き出した崎(岬)の意に由来するとされる[3]。

城が所在する台地下には「館岸(たてぎし)」と呼ばれる小字があり、真崎城の船着場(舟付場)として機能していた[3]。真崎浦は外海(太平洋)に面した村松の港や白方の河口港を通じて久慈川・那珂川水系と直結しており、水上交通・物流の結節点であった[1]。周辺には「洲浜」に由来する須和間(海夫の海上安全を祈願する住吉神社が鎮座)や「船場」(船だまり)などの地名が残り、入海の入口北側には村松虚空蔵堂(村松山日光寺)、南側の高台には如意輪寺が相対して配置され、真崎浦の水域を防護・鎮護する景観を形成していた[3]。

また、城の立つ台地端には前期前方後円墳である権現山古墳(全長約80m)が存在し、須和間にも前期の方形周溝墓が確認されていることから、古代より真崎浦の水域支配と結びついた政治的要衝であったと考えられている[4]。

縄張・構造

久慈川河口南方の低地帯に臨む標高約20-25m前後の台地先端を利用した連郭式平山城である。三方を真崎浦および細浦の水域に囲まれた天然の要害であり、陸続きとなる後背(北西の台地基部)を大規模な空堀および堀切によって遮断している。陸上からの進入路を厳重に遮蔽する一方、城内へは真崎浦から船を用いて出入りすることを前提とした、水運直結型の防衛体制が構築されていた[5]。

歴史・沿革

  • 築城と真崎氏の進出:鎌倉時代末期の弘安年間(1278年 - 1287年)、佐竹氏第4代当主・佐竹義重の孫にあたる真崎義連(岡田義澄の子)が、岡田郷(現・常陸太田市)から真崎浦に進出して城館を構え、真崎氏を称したことに始まる[4][6]。義連は入海に出入りする船舶の監視や掌握、沿岸漁民の統制を担った[4]。
  • 水運管理・水軍編成と製塩支配:佐竹宗家は太田城下への物資輸送路として久慈川水運を重視しており、水木港や白方港と並び、真崎城を水上交通の要地として掌握した[7]。真崎氏は単なる在地領主にとどまらず、佐竹氏の水軍(船手・水上兵力)を編成・統括する役割を担っていたと推測される[6]。また、近隣の村松に置かれた佐竹氏の塩竈(製塩所)の管理にも関与し、生産された塩は白方の河口港や真崎浦を経て久慈川・山田川を遡り、太田城下へ運ばれた[6]。
  • 戦国期の攻防:文明17年(1485年)、陸奥国の岩城常隆が多珂郡へ侵入した際、岩城方の水軍が久慈川河口や真崎浦へ侵入して村松を強襲した[8]。この攻撃によって村松山日光寺の堂塔が焼き払われ、佐竹軍は水陸両面からの攻撃を受けて一時敗退するなど、真崎浦一帯は佐竹・岩城両氏の軍事的最前線となった[8]。
  • 豊臣政権下と船奉行としての活動:
    • 文禄の役(1592年)に際し、佐竹軍が肥前国名護屋城に滞陣した際、一族の真崎豊後守季俊は大和田重清らとともに豊臣氏の舟奉行衆から軍船約100艘の受領交渉を行い、兵糧米760石や楯707丁の積込み・管理を担当した(『大和田重清日記』)[9]。これは真崎氏が代々佐竹氏の水軍を預かり、「船奉行」を務めていた実績によるものとされる[9]。
    • 文禄2年(1593年)、水戸城の修築に伴い太田から建築資材や家財を水運で輸送した際にも、大和田重清は真崎兵庫(宣広)から舟の貸与(借舟)を受けている[9]。
    • 文禄5年(1596年)の「御蔵江納帳」(秋田藩家蔵文書)によれば、真崎豊後は那珂川の重要渡船場である「勝倉」(937石余)、真崎本家の真崎兵庫助宣広は那珂川河口港である「湊」(那珂湊、2,113石余)の蔵入地代官に任じられており、真崎浦で培われた水運統括の職掌が継承されていた[10]。
  • 廃城と地形の変遷:慶長7年(1602年)、佐竹氏の秋田転封に伴い廃城となった。近世以降、砂丘の発達と砂の移動によって真崎浦の開口部が閉塞・陸化し、照沼と村松が陸続きとなったことで、港湾・水運拠点としての歴史的役割を終えた[3][10]。

秋田時代における真崎城(真崎館・真崎兵庫頭ノ館)

慶長7年(1602年)の佐竹義宣の秋田転封に従い、真崎兵庫助宣広ら真崎一族が出羽国仙北郡(現・秋田県仙北市田沢湖神代)に移住した際、新領地の統治と防衛のために築いた拠点群である[2]。移封先の地名(卒田字真崎、神代字真崎野)には常陸時代の「真崎」の名が冠され、一族の由緒が受け継がれた。

当地の中世城館群は、山上の要害・見張台である「真崎館」と、平地の居館である「真崎兵庫頭ノ館」の2つで構成されていたことが確認されている[11]。

真崎館(通称:大蛇山)

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真崎館
(秋田県)
別名 大蛇山、真崎城
城郭構造 山城
築城主 真崎氏(真崎兵庫)
築城年 慶長7年(1602年)以降
主な城主 真崎氏
遺構 土塁、空堀
埋蔵文化財
包蔵地番号
215-50-45(秋田県)
位置 北緯39度37分55.5秒 東経140度39分3.1秒 / 北緯39.632083度 東経140.650861度 / 39.632083; 140.650861北緯39度37分55.5秒 東経140度39分3.1秒 / 北緯39.632083度 東経140.650861度 / 39.632083; 140.650861座標: 北緯39度37分55.5秒 東経140度39分3.1秒 / 北緯39.632083度 東経140.650861度 / 39.632083; 140.650861
真崎館の位置(秋田県内)
真崎館
真崎館
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  • 所在地:仙北市田沢湖町神代字真崎野(上真崎野)(秋田県遺跡番号:215-50-45、城館番号:105)[12]
  • 立地・構造:国道46号に沿う真崎野集落と出口集落の中間東方、標高557mの小影山から西南西に延びる尾根の先端部(標高約190m)に位置する山城である[11]。南西を流れる才津川に迫り、山と川の間に田沢湖線および国道が走る要害の地にある。通称「大蛇山(おろちやま)」と呼ばれ、地元古老の伝承では「見張台」であったとされる[11]。
  • 機能・遺構:田沢湖町明平から谷地ノ沢へ抜ける古道を押さえる位置にあり、山地が最も張り出して谷が狭隘となる地点を利用して防禦のために築かれたと推定されている[11]。山中には湧水がないため、出口集落の尻にある湧泉から水を汲み上げたとの言い伝えが残る[11]。現在も山林内に土塁や空堀などの遺構が良好に残存している[12]。

真崎兵庫頭ノ館

  • 所在地:仙北市田沢湖町神代字蟹沢口(城館番号:109)[13]
  • 立地・構造:卒田集落から国道46号をそれて田沢湖線を越えた真崎集落と、東側の山地との間にある平地に位置していた平城(居館)である[11]。周囲に堀をめぐらせた方形館跡であったとされるが、後世の水田化により遺構は消滅している[11][13]。
  • 両館の構造関係:平地に位置する「真崎兵庫頭ノ館」が真崎兵庫(宣広)の平時の居館(本館)であり、背後の山上にある「真崎館(大蛇山)」はその出城・詰城(見張台)として機能する、中世武士団特有の重層的な防衛・統治構造を形成していたと考えられている[11]。

真崎氏の系譜

佐竹氏流真崎氏は、鎌倉時代の佐竹氏第4代当主・佐竹義重の三男である岡田四郎義澄の子、真崎義連を祖とする[4]。

  • 佐竹義重
    • 岡田義澄
      • 真崎義連1(常陸真崎城主、真崎氏祖)
        • (略)
          • 真崎重宗(兵庫助、戦国期の侍大将)
            • 真崎宣広(兵庫助、重宗嫡男、那珂湊代官、秋田真崎館主)
          • 真崎季俊(豊後守、文禄の役船奉行、勝倉代官)
  • 真崎義連:初代。常陸真崎城主。弘安年間に真崎浦に進出して城館を構え、沿岸漁民の支配や湖上水運の監視を行った[4]。
  • 真崎重宗(兵庫助):戦国時代、佐竹義重・佐竹義宣の2代に仕えた侍大将。佐竹宗家の常陸統一戦において武功を挙げ、知行地管理や領内仕置において重きをなした。
  • 真崎季俊(豊後守 ):有力一門。文禄の役において佐竹軍の船奉行として名護屋陣中で軍船約100艘の受領や兵糧米・武具の補給実務を統括した[9]。文禄5年には佐竹義宣の蔵入地である勝倉の代官を務めた[10]。
  • 真崎宣広(兵庫助):重宗の嫡男。佐竹義宣の旗本重臣。文禄期には水戸城下への資材輸送に船を供給し、重要港湾である那珂湊の蔵入地代官を務めた[9][10]。慶長7年(1602年)の秋田転封に従軍し、出羽国神代に真崎兵庫頭ノ館および真崎館を構えて新領地の警備・統治にあたった[11]。

脚注

  1. 1 2 3 志田諄一『佐竹氏とその時代』茨城県常陸太田市〈舞鶴叢書3〉、1980年、28-39頁。
  2. 1 2 秋田県教育委員会編『秋田県の中世城館』秋田県文化財保護協会〈秋田県文化財調査報告書第86集〉、1981年、254-256頁。
  3. 1 2 3 4 志田 (1980), pp. 30-31.
  4. 1 2 3 4 5 志田 (1980), pp. 31-33.
  5. ↑ 東海村教育委員会編『東海村史 通史編』東海村、1991年。
  6. 1 2 3 志田 (1980), pp. 35-36.
  7. ↑ 志田 (1980), pp. 33-35.
  8. 1 2 志田 (1980), pp. 36-37.
  9. 1 2 3 4 5 志田 (1980), pp. 36-38.
  10. 1 2 3 4 志田 (1980), pp. 37-39.
  11. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 秋田県教育委員会 (1981), pp. 254-256.
  12. 1 2 秋田県教育委員会 (1981), 城館一覧表 p. 22 (No. 105).
  13. 1 2 秋田県教育委員会 (1981), 城館一覧表 p. 22 (No. 109).

参考文献

  • 志田諄一『佐竹氏とその時代』茨城県常陸太田市〈舞鶴叢書3〉、1980年。
  • 秋田県教育委員会 編『秋田県の中世城館』秋田県文化財保護協会〈秋田県文化財調査報告書第86集〉、1981年。
  • 東海村教育委員会 編『東海村史 通史編』東海村、1991年。
  • 茨城県教育委員会 編『図説 茨城の城郭』国書刊行会、2006年。
  • 中山信名 著、栗田寛 補訂『新編常陸国誌』積善館、1899-1901年。
  • 真崎貞夫『真崎家の系譜』1979年。