祇園別当
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祇園別当(ぎおんべっとう)は、祇園社(現在の八坂神社)の社務を担った僧侶の職。平安時代にはその名称が確認され、11世紀後半には天台座主によって補任される職として制度が整えられた。中世には、座主の出身門跡に属する僧や、その家政を担当する人物が就任した[1]。
祇園社の職制には、別当のほかに祇園検校や祇園執行が存在した。11世紀後半に天台座主の兼帯職として固定したのは検校であり、別当は座主が任命する別の人物によって担われたとされる。別当の人事は、祇園社に対する延暦寺の支配、および座主・門跡の組織の変化と結びついていた[2]。
職制
祇園社では、初期には検校と別当の呼称が同じ人物に用いられることがあった。しかし、延久4年(1072年)の後三条天皇の行幸時には両職が区別されており、その後、検校を天台座主が兼ね、別当を座主が補任する体制が形成された[3]。
| 職名 | 制度上の位置と変遷 |
|---|---|
| 祇園検校 | 祇園社を統轄する職。永保元年(1081年)以降、天台座主による兼帯が制度化したとされる。 |
| 祇園権検校 | 寛治5年(1091年)・承徳元年(1097年)の行幸時に経心が確認される。良真・仁覚の二代の座主にまたがって在任したが、その後の所見はない。 |
| 祇園別当 | 座主の下で祇園社の社務に関わる職。11世紀後半以降は、座主の交替に応じて補任されることを原則とした。 |
| 祇園執行 | 別当とは別の社務職。永保元年(1081年)10月晦日に行円が初代執行に補任されたとされる。 |
権検校については、仁覚の座主在任期以降に消滅したと推定されている[4]。
歴史
興福寺との関係と天台別院化
祇園社の創始について、久保田収の研究は、貞観18年(876年)に興福寺の僧円如が祭祀を行ったことを起点とする。この伝承から、初期の祇園社は興福寺の影響下にあったと考えられている。その後、一般に天延2年(974年)に天台別院となり、延暦寺の支配下に入ったとされるが、その事情は明らかでない[5]。
天台別院となった年月日には史料間の相違があり、天元2年(979年)とする記録もある。いずれの記録でも良源の天台座主在任中に当たることから、970年代に祇園社が比叡山の影響下に入ったと考えられている[注 1][6]。
『今昔物語集』巻31第24には、興福寺を本寺とした祇園社が比叡山の末寺となる説話がある。同話では、山階寺、すなわち興福寺の司とされる別当良算が、良源の派遣した平南坊の僧睿荷によって追放され、睿荷が別当となったと語られる。本寺の交替過程が説話に反映されている可能性が指摘される一方、良算・睿荷は他の記録では確認できず、この説話を後世の通常の別当補任と同様には扱えないとされる[7]。
初期の別当と検校
初期の社務担当者として、天慶3年(940年)に祇園検校の延憲が確認される。ただし、その経歴や興福寺との関係は明らかでない[8]。
11世紀初めには、歌人としても知られる戒秀が別当を務めた。戒秀は寛弘元年(1004年)6月15日の藤原道長の参詣時に別当として禄を受け、長和4年(1015年)閏6月12日に落雷によって死亡した。在任中に天台座主は覚慶から慶円へ交替しており、後代のように別当が座主の交替ごとに任命される体制とは異なっていた[7]。
戒秀の死後、院源を「祇園検校」に任じる宣旨が下された。院源は寛仁2年(1018年)の祇園臨時祭では別当と記されるため、この検校任命は実質的な別当補任と解釈されている。この時期には検校と別当の呼称が混用され、朝廷が社務職の補任に関与していたと考えられる[9]。
これに続く安誉については、延久2年(1070年)10月14日の祇園社火災で焼死したことが知られる。11世紀半ばまでの別当については、補任の経緯や人選、延暦寺との人的関係に不明な点が多い[10]。
延久年間の制度整備
安誉の後の別当として確認できるのが行禅である。行禅は延久4年(1072年)3月26日の後三条天皇の初行幸を迎え、勧賞によって権律師に任じられた。補任時期は不明だが、安誉の死後まもなく補任され、火災後の復旧や組織の整備に当たった可能性が指摘されている[10]。
行禅以後の別当は、その多くを『天台座主記』『華頂要略』などに確認でき、比叡山との人的な結びつきが明瞭になる。『華頂要略』に収められた二種の別当補任記録が行禅から始まることも、比叡山が別当を通じて祇園社を把握するようになった時期を示すものと解釈されている[11]。
この延久年間、とくに1072年の行幸前後を、祇園別当が天台座主を補任権者とする「座主遷代の職」となった画期と位置づける見解がある。この見解では、祇園社が10世紀に天台別院となったことと、検校・別当以下の末寺組織が11世紀後半に整えられたことを、異なる段階として捉える[12]。
検校の天台座主兼帯
延久4年(1072年)の行幸時には、別当と別に検校が存在した。その人物名は明らかでないが、前年の日吉社行幸に際して検校となった天台座主勝範が、祇園社でも同様の地位に就いた可能性が高いとする説がある[13]。
ただし、検校が直ちに座主の兼帯職として固定したわけではない。承保4年(1077年)12月1日の白河天皇行幸では、別当経寿が法橋に、検校懐空が権少僧都に進んだ。この時の天台座主は覚尋であり、検校と座主は別人であった[14]。
承暦3年(1079年)、懐空による検校職の譲与をめぐって問題が起こり、山門大衆が祇園感神院に群参した。事件の詳細は不明であるが、この混乱を収めるために座主が検校職を吸収して兼帯した可能性が指摘されている。検校の座主兼帯が制度化した時期については、永保元年(1081年)に就任した良真以降とする見解がある。同年10月晦日には、行円が初代祇園執行に補任された[15]。
寛治5年(1091年)の堀河天皇行幸では、検校は天台座主良真、別当は範増であり、さらに権検校経心が確認できる。承徳元年(1097年)の行幸では、検校は座主仁覚、別当は定秀であった。仁覚の時代は、検校・権検校・別当の体制から、座主が兼帯する検校と座主が直任する別当を中心とした体制への移行期と捉えられている[4]。
こうした制度整備の背景には、日吉社への行幸や二十二社への加列と並行した、朝廷の山門に対する宗教政策との関係が指摘されている。また、承徳2年(1098年)には祇園社の経済基盤となる四ヶ保が成立したことから、11世紀末に洛中の大社としての体制が整ったと評価されている[16]。
門流・法流との結びつき
12世紀半ば、比叡山の三門跡が成立する頃になると、別当と座主との門流・法流上の関係が明確になる。別当には、基本的に座主の出身門跡の膝下にある院家の僧が補任された。ただし、ここでいう門流には灌頂や血脈相伝による師資関係も含まれ、所属院家だけで補任関係を説明できるわけではない[17]。
例えば、梶井門跡の承円が座主・検校であった時期に、青蓮院門徒の仁尊、または任尊が別当となった例がある。『華頂要略』の編者で青蓮院坊官の藤原為善は、検校が他門であるため、この別当の事績を青蓮院の事績として扱うべきではないと注記した。この記載は、座主と別当が同じ門流・門室に属することを通常とする認識の表れと解釈されている[17]。
門跡家政機関との結合
座主に近侍する僧を別当に補任する傾向は、行遍の例に早くから見られる。全快以降には、別当が新座主の登山拝堂に扈従僧綱や禄役として加わる事例が現れる。こうした儀式への参加を手がかりに、別当と座主との関係が、同門の師弟関係から、門跡とその家政機関の構成員との関係へ変化したとする見解がある[18]。
この傾向が明確になる例として、正応2年(1289年)に別当に補任された公什が挙げられる。公什は青蓮院門跡の執事として祇園別当を兼ねた。南北朝時代には門跡執事と別当を兼ねる例が多くなり、両職がともに譲与される事例も見られるようになった[19]。
この変化の理由は、具体的史料が乏しく明確ではない。背景として、祇園社が座主の経済基盤の一端を担っていた可能性や、山門大衆の群訴・神輿動座に対処するために座主政所による直接的な把握が重視された可能性が指摘されている[20]。
補任と職掌
補任権と任期
11世紀後半以降の別当は、原則として天台座主一代につき一人が補任されたとされる。座主の交替に伴う人事であり、補任権者は座主で、官符などを必要としなかった[11]。
補任の実態を示す例として、寛喜元年(1229年)の貞雲の就任がある。『明月記』によると、良快の天台座主還補に際し、藤原定家は人事の適正化などを申し入れた。しかし良快は、貞雲の祇園別当、聖覚の但馬国務、成源の西塔院主という人事を同時に進め、定家や九条道家の異論にもかかわらず実行した。これは、座主による山門運営に属する人事として別当補任が行われた例とされる[21]。
同じ座主の在任中に別当が交替する例もあり、その一部は別当の死亡や辞任によるものと説明されている。また、座主が還補された際に以前と同じ別当も還補されたと確実に認められる例は、確認できる史料の範囲では見いだせないとされ、一見例外となる記録についても信頼性に疑問が示されている[22]。
座主と社家の間の職務
別当は、検校である座主の下で、祇園社の社務に関わった。中世には、入洛した神輿の処理などが別当を介して社家に命じられており、座主側の意向を祇園社に伝える役割を担っていた。治承元年(1177年)には、澄憲が祇園別当として神輿帰座を命じられたことが確認される[23]。
南北朝期の『祇園執行日記』には、座主補任に関して、宣命式の進物料、祇園社諸座神人の見参料、祇園執行の補任料などが座主側から要求された例がある。これは祇園社と座主との経済的な関係を示す。ただし、平安期以来の経済関係は不明であり、これらの負担の開始時期も明らかではない[24]。
主な別当
以下は、制度の変遷に関係する主な別当である。時期は史料上の確認年や関連する出来事の年を示し、すべてが就任年または在任期間を示すものではない。良算・睿荷については説話上の記載である[25]。
| 人物 | 確認時期・関連時期 | 主な記載 |
|---|---|---|
| 良算 | 10世紀後半に関する説話 | 『今昔物語集』に興福寺との関係を持つ別当として登場する。 |
| 睿荷 | 10世紀後半に関する説話 | 同話で、良源の命を受けて良算を追放し、別当となったとされる。 |
| 戒秀 | 1004年・1015年 | 道長の参詣時に確認される。1015年に落雷で死亡。 |
| 院源 | 1015年・1018年 | 「祇園検校」への補任と「別当」としての記載があり、初期の呼称の混用を示す。 |
| 安誉 | 1070年 | 祇園社火災の際に焼死。 |
| 行禅 | 1072年 | 後三条天皇の初行幸時の別当。権律師に進む。 |
| 経寿 | 1077年 | 白河天皇行幸時の別当。検校は懐空であった。 |
| 範増 | 1091年 | 堀河天皇行幸時の別当。検校は座主良真。 |
| 定秀 | 1094年・1097年など | 読経・行幸などの記録に現れ、1097年の検校は座主仁覚。 |
| 行遍 | 1149年 | 座主近侍者の補任の早い例として論じられる。 |
| 澄憲 | 1177年 | 安居院系の別当。神輿帰座を命じられる。 |
| 俊朝 | 1181年 | 院御幸の際の別当として確認される。 |
| 源賢 | 1183年 | 俊堯の座主補任に伴う別当補任と考えられる。 |
| 全快 | 1204年 | 座主真性の登山拝堂に、祇園別当として扈従。 |
| 貞雲 | 1229年 | 良快の座主還補に伴う人事によって補任。 |
| 隆承 | 1238年 | 安居院系。座主慈源の登山拝堂に扈従。 |
| 公什 | 1289年 | 青蓮院門跡執事として別当を兼ねる。 |
| 恒覚 | 1339年 | 祇園別当・青蓮院執事として確認される。 |
| 承忠 | 1361年・1362年 | 両年に別当として確認され、1362年には門跡執事の兼帯が明記される。 |
| 尋慶 | 1365年 | 祇園別当と門跡執事を兼ねる。 |
| 道尋 | 1367年・1371年 | 別当・門跡執事として確認され、1371年には神輿造営・祭礼に関する記事に現れる。 |
史料と研究上の論点
補任記録の問題
別当の補任を知る史料には、『華頂要略』所収の補任記録、『天台座主記』、祇園社に伝わる記録や古文書、公家の日記などがある。既存の補任記録には欠落や他職の混入があり、古記録・文書との照合によって別当の在任が再検討されている[26]。
『華頂要略』巻87の「祇園別当」には、実際には北野社の別当であった頼延の記事が含まれている。また、同巻の「権別当補任次第」「政所補任次第」も、祇園社ではなく北野社に関する記録とされる。附録43の「祇園別当次第」には、別当とは別職の執行法眼円栄が含まれている[27]。
尊長を別当とする記録にも、信頼性に疑問が示されている。これは康永2年(1343年)の綿座訴訟において、元久元年(1204年)の「別当尊長法印外題安堵状」が証拠として持ち出されたことによる。しかし原文書は現存せず、同時期には全快の在任が確認されるうえ、尊長の他の経歴にも祇園社との関係が見いだせないことから、この記録を尊長の別当在任の根拠として採用しない見解がある[28]。
「座主別当」の解釈
『祇園執行日記』などに見える「座主別当」という語については、天台座主が祇園別当を兼ねたことを意味するものではなく、座主の直任による祇園別当を指す表現と解釈する説がある。後には座主の家政を担う人物が別当に就くようになったことも、この解釈の根拠とされる[29]。
この解釈では、久保田収による天台座主と祇園別当の兼任説を再検討し、座主が兼ねる検校と、座主が任命する別当を区別する[29]。
安居院系をめぐる見解
安居院系の僧が祇園別当を多く務めたとする筑土鈴寛の見解に対しては、安居院系と確定できる例が澄憲・隆承などに限られることから、特定の院家に偏った補任の形跡は認められないとする見解がある[30]。
文書署判者の比定
各座主の時代の別当を検討した結果に基づき、寿永2年(1183年)8月4日付の感神院政所波々伯部保々司職補任状の別当署判を俊朝に、建仁3年(1203年)12月日付の別当下文の署判を全快に比定する説がある[29]。
脚注
注釈
- ↑ 福眞は、『華頂要略』『天台座主記』には天元2年(979年)3月26日、『諸社根元記』には天延2年(974年)3月、『日本紀略』同年5月7日条および『社家条々記録』同年3月17日にも関連する記載があると整理している。複数の官符が発給された可能性にも言及するが、これは著者の推測である。福眞(1996年)、66頁注23。
出典
- ↑ 福眞睦城「祇園別当の成立と変遷―比叡山との関係から―」『ヒストリア = Historia : journal of Osaka Historical Association』第151号、大阪歴史学会、1996年6月、46-69頁(引用箇所:49-58頁)。
- ↑ 福眞(1996年)、53-58頁。座主の兼帯職である検校と、座主が任命する別当を区別する同論文の見解による。
- ↑ 福眞(1996年)、50–55頁。
- 1 2 福眞(1996年)、54–56頁。上表の職制の整理および権検校の消滅時期の推定は、同論文による。
- ↑ 福眞(1996年)、49–50頁。久保田収の見解についても同論文の紹介による。
- ↑ 福眞(1996年)、66頁注23。
- 1 2 福眞(1996年)、50頁。
- ↑ 福眞(1996年)、50頁、59頁一覧。
- ↑ 福眞(1996年)、50–51頁。
- 1 2 福眞(1996年)、51頁。
- 1 2 福眞(1996年)、51–53頁。
- ↑ 福眞(1996年)、53頁、56–57頁。
- ↑ 福眞(1996年)、53–54頁。
- ↑ 福眞(1996年)、54頁。
- ↑ 福眞(1996年)、55頁。
- ↑ 福眞(1996年)、55頁、57–58頁。
- 1 2 福眞(1996年)、56頁。
- ↑ 福眞(1996年)、56–57頁。
- ↑ 福眞(1996年)、57頁、61–63頁一覧。
- ↑ 福眞(1996年)、57頁。門跡家政機関との結合の背景については、具体的史料が乏しいため推測にとどまるとされる。
- ↑ 福眞(1996年)、51–52頁。
- ↑ 福眞(1996年)、52–53頁。
- ↑ 福眞(1996年)、57頁、60頁一覧。
- ↑ 福眞(1996年)、68–69頁注66。
- ↑ 福眞(1996年)、50–58頁、59–63頁一覧に基づく。
- ↑ 福眞(1996年)、47–49頁。
- ↑ 福眞(1996年)、48–49頁。
- ↑ 福眞(1996年)、52頁。
- 1 2 3 福眞(1996年)、58頁。「座主別当」の解釈、久保田収の兼任説への批判、および文書署判者の比定は、同論文の見解による。
- ↑ 福眞(1996年)、58頁、60頁一覧。筑土鈴寛の見解に対する批判は、同論文による。
参考文献
- 福眞睦城「祇園別当の成立と変遷―比叡山との関係から―」『ヒストリア = Historia : journal of Osaka Historical Association』第151号、大阪歴史学会、1996年6月、46–69頁。 掲載誌の国立国会図書館請求記号:Z8-95。掲載号の永続的識別子:info:ndljp/pid/12533474。