紀賢円
紀賢円(き の けんえん、賢円、賢圓、1094年 - 安元3年7月7日〈1177年〉)は、平安時代後期に活動した祇園社(現在の八坂神社)の僧。紀氏一族に属し、初代祇園執行行円の子、顕玄の父にあたる。祇園社の執行を務め、大別当・権長吏としても史料に名が見える。『建内家蔵系図』には「社務四ヶ度 二十二年」と記される。[1][2][3]
系譜
行円を父とし、子に実円・玄有・顕玄がいる。小杉達の「祇園社社僧系図」、野地秀俊の「紀氏一族略系図」、下坂守の「執行系図」は、いずれもこの父子関係を示している。顕玄からは円意・顕秀らへと系統が続く。[2][4]
兄弟姉妹
『建内家蔵系図』による兄弟姉妹は次のとおりである。[1]
| 続柄 | 人物 | 記載内容 |
|---|---|---|
| 兄 | 応円 | 執行・権長吏を兼帯し、蒲生保司を務めた。祝(はふり)職を7度務め、「社務七ヶ度七十年」と記される。保元3年(1158年)4月28日没とされる。 |
| 姉 | 女子(名不詳) | 持明院基家の室。 |
| 姉 | 女子(名不詳) | 藤原朝方(堤大納言)の室。 |
| 妹 | 女子(名不詳) | 待賢門院に仕えた女房。下野局と称した。 |
| 妹 | 女子(名不詳) | 詳細不詳。 |
| 弟 | 隆円 | 式部大別当。 |
| 弟 | 基仁 | 執行大別当。社務の在職は4年とされる。 |
応円についての「社務七ヶ度七十年」という記載は、長期の在職を伝える。ただし、この年数は享年ではない。また、保元3年5月18日・11月11日付の感神院所司等解にも「大別当大法師応円」の名があるため、系図に記された没日との関係は検討を要する。[1][5]
経歴
保元3年(1158年)の感神院所司等解には、「大別当大法師賢円」として名が見える。同年4月5日・5月18日・11月11日の文書は、祇園社の御供保である丹波国波々伯部保に課された夫役・相撲役などの免除を求めるものであり、賢円は基仁・応円らとともに所司の一員として記載されている。小杉達は、これらの史料から、行円の子らが祇園社の僧の上位を占めていたことを指摘している。[5][4]
『増補八坂神社文書』所収の「社僧系図」では、賢円に「三郎大別当」「権長吏」「執行」の注記が付されている。[3]
『建内家蔵系図』では「社務四ヶ度 二十二年」とされ、社務を4度、通算22年にわたって務めたと解される。同系図によれば、安元3年(1177年)7月7日に数え84歳で死去した[1]
保延5年の両院御幸
『祇園社記』第一によれば、保延5年(1139年)正月18日、鳥羽上皇と藤原得子(後の美福門院)が祇園社に御幸した。同書は二人を「両院」とし、「御一宿」と記しており、宿泊を伴う参詣であったことが分かる。[6]
このとき「貫首青蓮院行玄御参社」とあり、青蓮院の行玄も参社した。また、「別當俊惠律師参御祝申」と記され、祇園社の別当俊恵律師が参上して祝意を申し上げたことが伝えられる。その末尾に「執行賢圓」とあり、賢円が当時、祇園社の執行の職にあったことを示している。賢円に「執行」の肩書を付す「社僧系図」の記載とも符合する。[6][3]この記録からは、賢円が受け持った接遇や儀礼の具体的な内容までは明らかではない。
同記事には「是御幸始歟」(これ御幸の始めか)という小字注がある。「鳥羽院」の見出しの下に置かれた注であり、鳥羽院についての初御幸の可能性を示すものと読めるが、「歟」は疑問を表すため、初回であることを断定した記述ではない。祇園社への天皇行幸そのものの初例は、延久4年(1072年)の後三条天皇の行幸に遡り、『祇園社記』もその記事に「是當社行幸始也」と明記している。したがって、保延5年の記事は、祇園社への天皇行幸全体の初例とは区別される。[7]
また、得子が「美福門院」の院号を受けたのは久安5年(1149年)8月3日であり、保延5年の記事に用いられる「美福門院」は後の呼称である。この記事の「両院」という表記は、そのことを踏まえて読む必要がある。[8]
小童保の相伝
賢円は、祇園社領であった備後国小童保の保司職を領掌した。文暦2年(1235年)正月18日付の感神院政所下文は、円栄の保司職を認める際にその由緒を述べ、賢円権長吏から嫡子の実円権長吏へ、さらに康円法橋へと同職が相伝されたと記している。[9]
同文書によると、康円は建保4年(1216年)に娘の田房女へと権利を譲り、田房女から円栄への継承へとつながった。研究上の系図では、康円は実円の子、円栄は田房女の養子とされる。[9][2]また、「備後国小童保相伝系図」にも、勝尊・賢円・実円・康円らを結ぶ相伝の系統が示されている。[10]
同名人物との区別
江戸時代後期の祇園社執行にも賢円という人物がいる。こちらは行顕の子で、安永5年(1776年)に生まれ、天保4年12月29日に没したとされる宝寿院賢円であり、尊福の父にあたる。行円の子・顕玄の父である本項の賢円とは別人である。[11]
脚注
- 1 2 3 4 建内家蔵系図。
- 1 2 3 4 野地秀俊「『社僧』再考―中世祇園社における門閥形成―」『佛教大学大学院紀要』第26号、1998年、15頁、図1「紀氏一族略系図」。下坂守『中近世祇園社の研究』法蔵館、2021年、11頁「執行系図」。
- 1 2 3 官幣大社八坂神社社務所編『増補八坂神社文書』上巻、臨川書店、1998年復刻第2刷、840号「社僧系図」、642頁。
- 1 2 3 小杉達「祇園社の社僧(上)」『神道史研究』第18巻第2号、1970年3月、38–40頁。とくに39頁「祇園社社僧系図」。
- 1 2 『八坂神社記録』三、「祇園社記」御神領部第二、384–393頁。保元3年5月18日付の文書は384–386頁、同年4月5日付は386–389頁、同年11月11日付は389–393頁。賢円の名は各文書の末尾にある。
- 1 2 竹内理三編『八坂神社記録』三(増補続史料大成45)、臨川書店、1978年、「祇園社記」第一、6頁。見出し・小字注を含む当該記事の全文は次のとおり。〈 〉は小字注を示し、改行は翻刻本文による。「式」は翻刻本文の表記をそのまま残した。
鳥羽院〈是御幸始歟〉
保延五年正月十八日式御幸 両院〈鳥羽院、美福門院、〉御一宿 貫首青蓮院行玄御参社、
別當俊惠律師参御祝申 執行賢圓、 - ↑ 『八坂神社記録』三、「祇園社記」第一、3–4頁。「後三条院」の項の「延久四年三月廿六日」の行幸記事に「是當社行幸始也」とある。なお、八坂神社「八坂神社の歴史」は、最初の天皇行幸を延久4年3月24日としており、同書の翻刻とは日にちが異なる(2026年10月23日閲覧)。
- ↑ 長田郁子「宣陽門院の院号をめぐる議論について―『院号定部類記』を中心に―」『東京大学史料編纂所研究紀要』第33号、2023年3月、28–29頁、表「『院号定部類記』引用書目および条文一覧」の美福門院の項。
- 1 2 『増補八坂神社文書』下巻二附索引、臨川書店、1998年復刻第2刷、増補篇7号「感神院政所下文」、6–8頁。賢円・実円・康円の相伝を記す箇所は7頁。同文書の写しは『八坂神社記録』三、「祇園社記」御神領部第十、521–522頁にも収められる。
- ↑ 『増補八坂神社文書』下巻一、1943号「備後国小童保相伝系図」、630頁。
- ↑ 下坂守『中近世祇園社の研究』、11頁および17–18頁。
参考文献
- 建内家蔵系図。
- 官幣大社八坂神社社務所編『増補八坂神社文書』上巻・下巻一・下巻二附索引、臨川書店、1998年復刻第2刷。
- 竹内理三編『八坂神社記録』三(増補続史料大成45)、臨川書店、1978年。
- 小杉達「祇園社の社僧(上)」『神道史研究』第18巻第2号、1970年3月。
- 野地秀俊「『社僧』再考―中世祇園社における門閥形成―」『佛教大学大学院紀要』第26号、1998年、1–15頁。
- 下坂守『中近世祇園社の研究』法蔵館、2021年。
- 長田郁子「宣陽門院の院号をめぐる議論について―『院号定部類記』を中心に―」『東京大学史料編纂所研究紀要』第33号、2023年3月。