顕玄

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紀 顕玄(き の けんげん、生没年不詳〈12世紀後半 - 13世紀前半〉)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の紀氏出身の祇園社(現・八坂神社)執行・感神院大別当。官位は法橋、のちに法眼。

生涯・事績

出自と系譜

紀氏出身で、初代祇園執行であった行円の孫にあたる(父は賢円)[1]。なお、後世の古文書(『足利直義下知状写』等)において「行円の曽孫」と記される例があるのは、行円を法流・社務の祖と仰ぐ文脈による世代表現と考えられる[2]。

当時は後世のような「宝寿院」の門主家名が固定化しておらず、紀氏一族の師資相承(弟子への継承)によって社務職が継承されていた。顕玄の権益は弟子にあたる円意に伝領され、その系譜は顕秀―顕承―顕尊―顕円―顕詮へと受け継がれていった[1][2]。

丹波国波々伯部保を巡る相論と権益確立

祇園社の主要な神供料所であった丹波国波々伯部保の支配・管理において、紀氏社務としての正統性を確立した記録が残されている。

  • 建仁3年(1203年)の相論と勝訴:弁昭という人物が不当に訴え出て(掠訴)権益を奪おうとしたのに対し、顕玄は相伝の古文書を提示して自らの正統性を主張した。審理の結果、顕玄の提示した文書の正当性が認められ、朝廷・幕府より弁昭の妨害を停止して顕玄に従来通り保務(直務支配)を行わせる裁定(「感神院大別当顕玄所」)が下された[3]。
  • 元久2年(1205年)の院庁御下文・国司庁宣の受領:元久2年3月2日、祖父・行円以来の由緒と師資相承に基づき、波々伯部保の管領権を正式に認める院庁御下文を賜った[2]。さらに同年7月には丹波国司庁宣を受け、直務支配の基盤を確固たるものとした[4]。

この元久2年の院庁御下文をはじめとする文書群は、後世において祇園社務執行(のちの宝寿院)が波々伯部保を管領する際の根本法理・正統性の根拠として重視され続けた[2]。

院庁下文にみえる所領相伝と課役免除

『民経記』の紙背に伝わる丹波国在庁官人等宛ての院庁下文には、法橋顕玄の門弟に、丹波国多紀郡波々伯部村の田畠を相伝・領掌させる旨が記されている。対象は公田を除く田畠であり、感神院の日別御供を支える所領とされ、久寿の宣旨と蒲生・坂田両保の先例が根拠に挙げられている[5][6][7]

下文が引用する社所司らの二月の解状では、波々伯部保は、白河院の時代、堀河天皇の治世に、特別な御願のため賀茂社の例に准じて設けられた、日々の「三前御供」の費用を賄う四箇保の一つとされる。また、権長吏行円が「私坪付」に基づいて成立させた保であると説明されている[5][6]。

相伝の経緯については、行円の「弟」隆円が、その「嫡弟」桓円に譲り、文治年間(1185年–1190年)に顕玄が桓円から譲得したと記す。社側は、その後も顕玄が妨げなく相承し、日別御供の勤めを怠らなかったと主張している[5]。渡辺滋は、この下文を、桓円から門弟顕玄へと伝わった波々伯部保の権益を、顕玄がさらに自身の門弟へ譲与しようとしていたことを示す史料としている[8]。

一方、解状は弁昭を「悪僧」と呼び、口実を設けて保内で「謀計奸事」を行ったと非難している。この件について貫主別当への申立てや「糺断」に言及し、さらに「不慮之濫妨」や奏聞にも触れるが、この部分には欠損があり、糺断の具体的な結果は残存本文からは明らかでない[5]。

社側はまた、内裏に関する負担、勢多橋役、貢蘇乳牛、臨時勅事、院事、国役雑事などの免除を求めた。庁下文が下されれば、神事の特別な性格を踏まえ、いっそう太上法皇(後鳥羽院・土御門院か)の安穏と御願円満を祈る旨を述べている[5][6]。

これを受けた下文は、国司庁宣状に従い、対象の料田に対する国衙の入勘、勅院事および伊勢神宮造営の役夫工を永く停止すべきことを命じている。[5][6]。

社務実務

社務執行として日常的な社内事務や買物・手配も管領しており、『八坂神社文書 上』には「百度大路御房」宛てに出された「社務執行顕玄書状」(京都での買い物や用事、紙の調達指示等)が収められている[9]。

脚注

  1. 1 2 『新編 八坂神社記録』「執行系図」827頁
  2. 1 2 3 4 『新修八坂神社文書(中世篇)』8号「足利直義下知状写」111頁
  3. ↑ 『八坂神社記録 6』486頁「建仁三年十二月感神院大別当顕玄所」
  4. ↑ 『八坂神社文書 下1』4頁「元久二年七月丹波国司庁宣」
  5. 1 2 3 4 5 6 竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編第6巻、東京堂出版、1974年、4125号(『民経記』裏文書、院庁下文)。
  6. 1 2 3 4 龍野加代子「伊勢神宮役夫工米免除地について」『法政史学』第40号、1988年、144・150・153頁。
  7. ↑ 渡辺滋は、この文書を「寛喜三年(一二三一)院庁下文」として挙げている。渡辺滋「国立歴史民俗博物館所蔵の古代史料に関する書誌的検討」『国立歴史民俗博物館研究報告』第153集、2009年、252頁。
  8. ↑ 渡辺滋「国立歴史民俗博物館所蔵の古代史料に関する書誌的検討」『国立歴史民俗博物館研究報告』第153集、2009年、252頁。
  9. ↑ 『八坂神社文書 上』130頁「社務執行顕玄書状」

参考文献

  • 『八坂神社文書』(上巻・下巻1)
  • 『八坂神社記録』(第6巻)
  • 『新編 八坂神社記録』
  • 『新修八坂神社文書(中世篇)』