与瀬町

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よせまち
与瀬町
廃止日 1955年1月1日
廃止理由 新設合併
内郷村、小原町、千木良村、与瀬町 → 相模湖町
現在の自治体 相模原市
廃止時点のデータ
国 日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 神奈川県
郡 津久井郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 1,326人
(1930年[1])
隣接自治体 神奈川県津久井郡小原町、吉野町、内郷村、日連村、東京都南多摩郡恩方村(飛地が隣接)[1]
与瀬町役場
所在地 神奈川県津久井郡与瀬町大字与瀬
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与瀬町(よせまち)は、かつて神奈川県津久井郡に存在した町。現在の相模原市緑区北部に位置する。

本項では、町制施行前の自治体である与瀬駅(よせえき)についても記述する。

地理

与瀬町は津久井郡北西部に位置し、北側には陣馬山方面へ続く山嶺が連なり、南側は相模川に面していた。相模ダムの完成後、相模川の一部は相模湖となった[1][2]。

主たる集落は相模川北岸の河岸段丘上に形成されていた。1935年の地誌「三、與瀬町」では、この段丘を「桂川第二段丘」と記し、段丘面の標高を約200メートル、相模川の河床からの比高を約70メートルとしている[1]。集落が位置する上位段丘面はローム層に覆われ、北側の山麓に近く日当たりが良好なことから、早くから集落や農地として利用されていた[1]。

水利・地形的特徴

段丘上に集落が形成されていたため、水の確保は重要な課題であった。一方、中位段丘と下位段丘の間の崖線にある砂礫層からは清水が湧出していた[1]。古くは段丘崖に横穴を掘って生活用水を得ていたほか、宿場の街路の両側には幅二尺(約60センチメートル)余りの用水路が設けられ、北側の沢から引いた水が西の上町から東の下町へと流されていた[1]。

主な地形・水系

  • 孫山(まごやま) - 与瀬集落の北側に位置する山で、集落の背後に連なる山地の一部をなす。
  • 陣馬山(じんばさん) - 町域の北方に連なる山地の主峰。昭和初期には、与瀬を拠点とするハイキングの目的地の一つとなっていた[1]。
  • 嵐山(あらしやま) - 相模川の対岸に位置する山で、与瀬から川を隔てて望む周辺の景観をなす。
  • 相模川 - 町域の南側を流れる河川。鉄道開通前には、高瀬舟などによる木材・薪炭の輸送に利用され、夏季には鮎釣り客も訪れた[1]。
  • 相模湖 - 相模ダムの建設によって誕生した人造湖。相模ダムは相模川河水統制事業の基幹施設として1947年(昭和22年)に完成した[2]。

歴史

近世(甲州街道与瀬宿)

江戸時代、与瀬は甲州街道の宿場である与瀬宿として栄えた[1][3]。宿場町は段丘上の街路に沿って形成され、西から上町、中町(中原)、下町(下原)の3区に分かれていた。東西約700メートルにわたって直線的に街並みが延びていた[1]。

東隣の小原宿とは約2キロメートル(26町)離れていたが、両宿は人馬の継立業務を分担する「片継」の関係にあった。与瀬宿は甲府方面から小仏峠越えに備える人馬を、小原宿は江戸方面から小仏峠を越えて西へ向かう人馬を担当した[1][4]。

宿場には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が置かれ、問屋役や名主は坂本家などが務めた。旧家には坂本・石井・清水・荒井・馬場などの姓が多かった[1]。助郷としては文政7年(1824年)以降、千木良、若柳、寸沢嵐、太井などの近隣村が人馬の補充を負担していた[1]。

明治期(自治体「与瀬駅」の発足と町並みの変化)

1880年(明治13年)の明治天皇巡幸の際には、坂本本陣が休憩所となった[1]。現在も、旧本陣跡付近には「明治天皇與瀬御小休所址」の記念碑が残る。

1889年(明治22年)4月1日の町村制施行に伴い、与瀬は「与瀬駅」の名称で自治体となった。この「駅」は鉄道駅を意味するものではなく、江戸時代の宿駅に由来する名称であった[1][5]。

与瀬駅は隣接する小原町および千木良村と町村組合を構成し、「小原町外一駅一ヶ村組合」として行政事務を共同で行った。組合役場は当初、小原町大字小原に置かれ、1930年(昭和5年)に与瀬へ移転した[1]。

1901年(明治34年)8月1日、官設鉄道の駅として与瀬駅が開業した。これは自治体名としての与瀬駅とは別の鉄道駅であり、現在の相模湖駅にあたる[1]。

鉄道開通前は、本陣や問屋のあった段丘西側の上町が宿場と地域の中心であった。駅の開業後は、停車場と街道本通りを結ぶ道路や東側の下町へ商業・生活の中心が移っていった。また、それまで相模川の水運に依存していた木材や薪炭などの物資輸送も、鉄道輸送へと転換していった[1]。

大正・昭和期(与瀬町への改称と相模ダム建設)

1913年(大正2年)4月1日、与瀬駅は町制を施行し、与瀬町となった[6]。

明治30年代以降、与瀬は複数回の大火に見舞われ、宿場時代の建物の一部が焼失した。1935年の地誌には、火災を経て町並みや家屋の様子が変化したことが記されている[1]。

昭和初期には、相模川の鮎釣り客や陣馬山方面へのハイキング客が訪れ、駅前から四ツ角付近にかけて旅館、土産物店、飲食店などが集まっていた[1]。

一方、京浜工業地帯の発展などによる水・電力需要に対応するため、神奈川県は相模川河水統制事業を計画した。同事業は1938年(昭和13年)に計画され、相模ダムは1940年(昭和15年)に建設工事が始まり、1947年(昭和22年)に完成した[7][2]。

相模ダムの完成によって相模湖が誕生し、周辺地域の景観や交通、産業にも変化が生じた。戦後には湖上の遊覧や周辺の観光が地域の特徴の一つとなった[2][8]。

1954年(昭和29年)10月8日、相模湖で遊覧船として使われていた「内郷丸」が沈没し、修学旅行中の生徒22人が死亡する内郷丸遭難事件が発生した[9]。

合併とその後

1955年(昭和30年)1月1日、与瀬町は内郷村、小原町、千木良村と合併し、相模湖町が発足した。これにより自治体としての与瀬町は廃止され、与瀬は相模湖町の一部となった[6]。

1956年(昭和31年)4月10日、鉄道駅の与瀬駅は、湖の名称に合わせて相模湖駅に改称された。その後、相模湖町は2006年(平成18年)3月20日に相模原市へ編入され、2010年(平成22年)4月1日の政令指定都市移行に伴い、旧町域は相模原市緑区の一部となった[6]。

寺社・名所・旧跡

  • 與瀬神社(与瀬蔵王権現) - 与瀬の鎮守として信仰されてきた神社。吉野山の蔵王権現を勧請したと伝えられる。古くは相模川近くに鎮座していたが、のちに現在の熊ノ沢へ遷座した[1]。明治5年(1872年)の神仏分離により慈眼寺と分離した。急峻な石段や本殿が残り、境内からは相模湖を一望できる。
  • 慈眼寺 - 与瀬にある高野山真言宗の寺院。天正年間に頼源阿闍梨によって開創されたと伝えられる。江戸時代を通じて與瀬神社の別当寺を務め、津久井観音霊場第20番札所となっている[1]。境内北側には庭園がある。
  • 与瀬宿跡 - 江戸時代の甲州街道の宿場跡。坂本家が本陣を務めた。明治30年代以降の大火などにより当時の建物は現存しないが、明治天皇の小休所跡を示す記念碑が残り、宿場の歴史を伝えている[1]。

交通

与瀬町は、江戸時代には甲州街道の宿場町として栄え、近代には中央本線の駅を持つ交通拠点となった。

鉄道路線

1901年(明治34年)8月1日、官設鉄道の駅として与瀬駅が開業した[1]。駅の開業は、地域の商業や物資輸送にも影響した。自治体としての与瀬町が廃止された後の1956年(昭和31年)4月10日、相模湖駅に改称された。

与瀬駅の開業により、相模川の水運に加えて鉄道が木材や薪炭などの物資輸送に利用されるようになった[1]。

道路

甲州街道は江戸時代から地域を通る主要な街道であり、与瀬宿の町並みは街道に沿って形成された[1]。近代以降も道路交通は地域の生活や周辺地域との往来を支え、戦後には相模湖周辺への観光交通にも利用された[8]。

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 『地理教育』第2増刊、地理教育研究会、1935年1月、16–23頁。
  2. 1 2 3 4 神奈川県「相模ダム」。
  3. ↑ 『日本歴史地名大系 14 神奈川県の地名』平凡社、1984年。
  4. ↑ 神奈川県立歴史博物館「相模国津久井県与瀬村名主・問屋役坂本家文書 与瀬宿絵図」。
  5. ↑ 『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』角川書店。
  6. 1 2 3 相模原市「市町村合併 Q&A」。
  7. ↑ 神奈川県「水資源の開発」。
  8. 1 2 相模原市「第10回 相模湖 高尾登山の定番コース」。
  9. ↑ 国土交通省海難審判所「日本の重大海難(機船内郷丸遭難事件)」。

参考文献

  • 『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』角川書店。
  • 『日本歴史地名大系 14 神奈川県の地名』平凡社、1984年。
  • 『世界大百科事典』平凡社、「与瀬」の項。
  • 『地理教育』第2増刊、地理教育研究会、1935年1月。
  • 寺西昭子「相模国津久井県与瀬村名主・問屋役の由緒」『神奈川県立博物館研究報告―人文科学―』第48号、2022年。

関連項目

外部リンク