


船(ふね、舟、英: vesselあるいはboatあるいはship)は、人や物などをのせて水上を渡航(移動)する目的で作られた乗り物の総称[1]。船(船舶)は浮揚性・移動性・積載性の三要素をすべて満たす構造物をいう[2]。
基本的には海、湖、川などの水上を移動する乗り物を指しているが、広い意味では水中を移動する潜水艇や潜水艦も含まれる。動力は人力・帆・原動機などにより得る。
大和言葉の「ふね」「フネ」は広範囲のものを指しており、規模や用途の違いに応じて「船・舟・槽・艦」などの漢字が使い分けられている。船舶(せんぱく)あるいは船艇(せんてい)などとも呼ばれる(→日本語表現参照)。
なお、宇宙船や飛行船などの水上以外を航行する比較的大型の乗り物も「ふね」「船」「シップ」などと呼ばれる。これらについては宇宙船、飛行船などの各記事を参照のこと。また、舟に形状が似ているもの、例えば刺身を盛る浅めの容器[1]、湯舟/湯船、セメントを混ぜるための容器(プラ舟)等々も、その形状から「舟」と呼ばれる[注 1]。これらについても各記事を参照のこと。
日本の国土交通省のウェブページ上の記述では、船(船舶)は浮揚性・移動性・積載性の三要素をそなえた構造物[2]、とのことである。
船体が通常進む方向(進行方向)を見て、先端に当たる部分を「船首」(英語では「バウ」)という。反対に、進む方向を見て「後ろ」の端に当たる部分を「船尾」(英語:スターン)という。進行方向に向かって右側の側面を「右舷(うげん)」といい、左側の側面を「左舷(さげん)という。船体の上面の平らな面を「(上)甲板(かんぱん)」(英語:デッキ)という。
艤装(ぎそう、rig、rigging、outfitting(s))には2つの意味がある。
総称として「艦船」(かんせん)、「艦艇」(かんてい)、「船艇」(せんてい)、あるいは「舟艇」(しゅうてい)などの言い方をする場合もある。
英語では日常的にはboatやshipが用いられ、「boat」(ボート)は比較的小型のものを指し、あえて言えば日本語の「舟」や「艇」に相当する。だが日本人が「結構 大きい」と感じるようなものまで 英語圏では「boat」と呼ばれていることがある。「ship」(シップ)はboatに比べて大型のものを指し、あえて言えば「船」や「艦」に相当する。boat / shipは感覚的な呼び分けがされているのであって、厳密な線引きがあるわけではない。「vessel」は(やや学術用語や行政用語的な表現であり) boatの中の大き目のものおよびshipを指し[7]、(ぴったりの日本語語彙は無いが)あえて言えば「船舶」や「船艇」に相当する。
従来、英語では民間船・軍艦共に代名詞はshe(女性扱い)であって、これに対し飛行機では民間機がshe、軍用機がhe(男性扱い)であるが、最近は、このような用法が少なくなって、他の一般名詞と同様にitを使用することがある。「ふね」を表す性についても、各言語によって異なり一様ではない。 なお、英文表記の航海日誌上では、she(女性扱い)で表記される。
船舶は用途によって商船、漁船、軍艦、特殊船などに分類され、商船は旅客船と貨物船に分類される[8]。
商船(Merchant ship)とは、主として交易品を輸送する船である[9]。







軍事用船舶を指す。大きさ、形態、武装はその用途により様々である。国連海洋法条約によれば保有国が武装に関わらず自国海軍の艦艇であると認めたもの。ただし、海軍の艦艇であっても戦闘に直接寄与しない補助艦艇であれば軍艦でないとされる場合がある。日本では軍艦の管轄官庁は国土交通省だけでなく、防衛省でもある。
日本語では軍事組織の船舶を指す言葉として『艦』を用い、自衛隊や外国軍の使用する船舶に対して使われる。なお警察や沿岸警備隊(海上保安庁)が利用する船舶には使われない。


船舶は運航形態により自営船、定期傭船、裸傭船、運船委託船に分けられる[8]。
船舶は大分類として以下の3つ船型とそれらの分類外のその他の特殊な船型に類別できる。
単胴船、双胴船、三胴船の違いは水面下に沈む下部船体の数である。 また、双胴船や三胴船での高速船用の船型としてウェーブ・ピアーシング型(波浪貫通型、Wave-piercing)の船舶が2000年代前半から実用化されている。
水面下に沈んで水と直接接する船体が1つである船型である。多くの船が単胴船であり、船舶の歴史においても最も古く、船舶設計や造船技術の基本となった。双胴船や三胴船は単胴船からの派生デザインといえる。1人乗り手漕ぎボートから大型タンカーまでの船舶が単胴船であり、特に高速航行や波浪に対する非常に高い安定性、幅広い甲板を求めない場合には、燃費や建造コストの点で有利である。
水と接する船底部の形によって「ラウンドビルジ型」と「ハードチャイン型」に分かれる。多くの単胴船は船底が丸くスムースなラウンドビルジ型となっているが、船底での揚力を得て水面を滑走するモーターボートのような小型艇は鋭角的な船底を持つハードチャイン型である。また、はしけの仲間は流線型をとらずに四角い箱型の「バージ船型」というものもある。
単胴船での甲板上の上部構造物(上構)の配置によって、更にいくつかの船型に分けられる。上甲板上の建造物の内で左右の両舷に渡って占めているものを「楼」(ろう)や「船楼」(せんろう、Erection)と呼びその位置によってそれぞれ、船首楼(Forecastle)、船橋楼(Bridge)、船尾楼(Poop)と呼ばれる。この楼の配置によって以下のように分かれる。

水面下に沈んで水と直接接する下部船体が細長く左右2つに平行している船型である。上部船体部分はほぼ四辺形に広く取れるため車輌用フェリーや海上作業用プラットフォームに適している。波浪に対しては特に左右方向の揺れ(ローリング)が単胴船に比べて小さくなる利点がある。このことから、ブローチングに対する危険度が減じられる。しかし横波による揺れ(ローリング)の固有振動数が高く、少しの短波長の横波でも波に追従して激しく揺れるという問題点がある。
曳き波の発生が単胴船に比べて小さいことも、高速航行時にも周囲への影響が少ない点で有利となる。センターバウがあればバウダイビングに対する安全性の確保に貢献する。
双胴船は古くから考案されていたが、単胴船に比べて水中表面積が増加し摩擦抵抗や粘性圧力抵抗が大きくなる点や、下部船体を左右に分ける事による強度確保のため船体重量が増すことで造波抵抗と他の2つの抵抗を増やしてしまうなどの不利な要素が排除出来ずにいた。その後、技術の発達により軽量なアルミ合金が普及したことで実用的な双胴船が建造されるようになった。
双胴船や三胴船での下部船体を特に細長くすることで造波抵抗を減少させ、超高速航行を可能にした船型。
その他の船型として水中翼船、表面効果船(側壁型エアクッション船)、ホバークラフト、地面効果翼機などがある。地面効果翼機は、波浪が一切ない状態では水に接触せず空中を飛行している状態であり、厳密には航空機の一種である。
船は船体の主な材料で木造船(木造艇)、アルミ船(アルミ艇)、繊維強化プラスチック(FRP)船、先進複合材料(ACM)船などに分類される[12]。
船は動力により動力船(動力艇)、帆船(帆艇)、手漕ぎ舟(手漕ぎ艇)などに分類される[12]。
なお、公有船・私有船の概念は後述の公用船・私用船の概念とは異なるものである(通説)[3]。
海上運送法では、旅客定期航路事業を行う旅客定期船、貨物定期航路事業を行う貨物定期船、自動車航送貨物定期航路事業を行う自動車航送貨物定期船、不定期航路事業を行う不定期船に分けられる[8]。
船舶安全規則では、平水区域(湖、川、港内およびこれらに接続する指示された水域)のみ航行できる平水航路船、沿海区域(陸地から距岸20海里以内の水域)のみ航行できる沿海航路船、近海区域(東経175度、東経94度、北緯63度、南緯11度に囲まれた水域)のみ航行できる近海航路船、すべての水域を航行できる遠洋航路船に分けられる[8]。
日本標準商品分類では船舶(分類番号50)は商船(分類番号501)、特殊用途船(分類番号502)、漁船(分類番号503)、艦艇(分類番号504)に分類される(このほか分類番号506以下に軸径及びプロペラ、分類番号507以下に舶用補機、分類番号508以下に航海用機器、分類番号509以下にぎ装品が定められている)[14]。
船舶の歴史を扱う場合に、しばしば、ある時代、ある地域に一般的であったり、大量に製造された船のタイプを指すための分類名が登場する。すべての船舶を網羅的に分類するためのものではなく、特徴的なタイプを分類したものであるが、これも分類の一種であるので、それもここで紹介する。
船の起こりは、水辺に住む人々が木の枝を束ねて荷物をのせたり、人が乗ったりするようになったことに始まるといわれている[15]。やがて工夫や改良により丸太を組みあわせたいかだや、丸太をくりぬいた丸木舟が用いられるようになった[15]。スコットランドで150例、日本で200例などの先史時代の丸木舟の発見例があり、その他獣皮を張った船体に防水を施したシーカヤックに類するものなども存在したと考えられている。
丸太が手に入らない地域では竹やアシが材料になり、動物の皮を縫い合わせて空気を入れていかだにした例もある[15]。
これらの方法は波に弱く大きな船の建造は困難であったが、紀元前4000年ぐらいには船の骨組みを作ってから板を張った組立船が造られるようになった[15]。

古代エジプト時代のつぼに船の絵が描かれており、ナイル川で使われていたとみられているが、パピルスのいかだから発展した継ぎ剥ぎ構造と推定され、この時代の船は海洋での使用には適さなかったとされている。紀元前4,000年頃にはエジプト・ナイル川流域の他、チグリス川・ユーフラテス川流域のメソポタミアでも帆走船が使われていた形跡が残っている。モンゴロイドがアウトリガー付きカヌーで帆走を始めて、東南アジアの島々に広がり始めたのは、紀元前3,000年頃であり、フィジーには紀元前1,500年頃に達したと考えられているが、モンゴロイドの拡散以前の紀元前4,000年頃にはオーストロネシアンとモンゴロイドの混血であるメラネシア人がソロモン、バヌアツ、フィジー、ニューカレドニアの各島々への拡散しており[11]、日本では紀元前4,000年頃(縄文時代前期)の外洋での航海が可能な大型の丸木舟の出土例がある。紀元前4,000年頃から紀元前1,000年頃にはエジプト人やタレス人が地中海に乗り出していた。フェニキア人はアラビア海にも乗り出し、船による交易の範囲が広がっていった。

ギリシャ時代には、帆走船やガレー船が使われ、ローマ時代には、1世紀頃にヒッパロスがインド洋の季節風を利用したアラビア半島からインド南岸までの航路を開いた後はローマ - インド間の海上交易が行われた。
8-10世紀にはヴァイキングと呼ばれたノルマン人たちが独特の丈夫な船を駆って西ヨーロッパの海を支配していた。
一方、日本では、600年からの遣隋使船、618年からの遣唐使船も日本にとって発達した航海術を吸収する機会であったが、1401年からの勘合による日明貿易が開始され、これらの船(遣明船)には羅針盤が備わるなど確実な進歩を遂げていった。中国の鄭和の艦隊が15世紀、30年間に渡って中国沿岸からインド洋を席巻していた。中国の海洋進出が途絶えた後も、東南アジアからインド経由でヨーロッパに至る海のシルクロードが、商人と船乗りの手で長期に渡り維持された。
ヨーロッパでは、それまでのガレー船のラティーン・セイル(三角帆)に加えて、ヴァイキング船の横帆を取り入れた「キャラック船」を生み出した。15世紀初頭にはポルトガル人が、ラティーン・セイルと横帆を持つ小型の「キャラベル船」を生み出し、「エンリケ航海王子」の支援も受けて、外洋への航海に乗り出していった。
16世紀にはキャラック船を元にガレオン船が登場し、大航海時代になった[11]。ガレー船は18世紀末まで地中海で、北欧のバルト海では19世紀初頭まで使用された。1807年にロバート・フルトンが作った外輪蒸汽船がニューヨークとオリバニー間で運航を開始した後は、多数の帆船に蒸気機関が搭載され、また、帆船も港での操船は蒸気エンジンを備えたタグボートに任せることができるようになったため、外洋航行に最適化した高速大型帆船が作られ、「クリッパー」と呼ばれる高速帆船も登場した。1858年に英国人アイザム・K・ブルーネルが発明したスクリュープロペラを備えた外洋定期客船「グレート・ブリテン」が作られた。英海軍が海上公開実験によってその性能を確認し、軍艦の標準としたため、各国海軍もそれに倣った。海底ケーブル網が充実した1860年代から、軍艦だけでなく商船でも、航行スケジュールが確実な蒸気船が帆船を駆逐するようになっていった。スエズ運河は開通してから当分の間、通行可能な船のサイズに制限があったり、運賃が高かったりして、商船がしばしば利用を敬遠した。
蒸気船の歴史については蒸気船#歴史を参照のこと。
この後、多数の蒸気船が登場して徐々に海運の主役となった。1892年のディーゼルエンジンの登場によって多くの大型船舶が内燃機関を備えるようになった。
帆船は今日でも練習船や競技用ヨットなどとして用いられているが、多くがエンジンを備えた汽船である。
日本の先史時代の丸木舟の発見例はおおよそ200例ほどである。その中には1989年に東京都北区上中里の中里遺跡で発見された全長5.79mの丸木舟や、1995年に千葉県香取郡多古町で発見された全長7.45mの丸木舟など大型のものの出土例もある。また1998年に京都府舞鶴市の浦入遺跡で出土した丸木舟は、現存長は4.4mであるが、幅85cm、長さ8m以上あったと推測され、一本の巨木を刳り抜いた堅牢なモノコック構造の刳舟であり、縄文時代前期には外洋での航海が可能な丸木舟が存在した。
縄文時代以後も日本船はモノコック構造の刳舟が主流であった。古墳時代以後の大型の刳舟の出土例は大阪湾周辺に多く、単材刳舟ばかりではなく複材化した準構造船と呼べるものも出土している。単材刳舟としては大阪市西淀川区大仁町鷺洲で古墳時代のものと推定される全長11.7mの刳舟が出土しており、複材刳舟のうち前後継ぎのもの出土例として、大阪市今福鯰江川の三郷橋(現・城東区今福西1丁目)で大正6年(1931年)5月に全長13.46m、全幅1.89mの刳舟が、同市浪速区難波中3丁目の鼬川で明治11年(1878年)に残存長12mほどの刳舟がある。他に天保9年(1838年)愛知県海部郡佐織町(現・愛西市)で出土した前後継ぎの刳舟は残存していた長さが十一間二尺 (20.6m) あったといわれている。
飛鳥時代には平底のジャンク船のような箱型構造の船が遣隋使船として用いられた。
室町時代の後期から江戸時代初期にかけて安宅船などが、軍船として用いられた。 江戸時代初期の1604年から1635年の間は朱印船貿易が行われ、そのための船として中国等の海外だけでなく日本国内においても600人乗り、貨物積高2,500石(約375トン)のものが建造されていた。
鎖国以前には徳川家康の命によってウィリアム・アダムス(三浦按針)が建造した2隻の小型ガレオン[注 5]や、慶長遣欧使節団のサン・ファン・バウティスタ号などの例があるが、1635年には「大船建造禁止令」が施行され、船の500石積以上の建造が禁止されることになる。ただし、これはすぐに商船は対象外になる。鎖国を行ったために、外航船を建造する必要が無くなった日本では軍船は関船が、商船は帆走専用に改良された弁才船が中心となった。特に後者は江戸時代の近海海運を大いに発展させた。
ペリー来航から3か月後の1853年9月に、大船建造禁止令が大名に対して解除された。同時に幕府の手で浦賀造船所の建設が開始され、翌年には最初の西洋式軍艦の木造帆船「鳳凰丸」を竣工した。水戸藩も1853年に江戸隅田川河口に石川島造船所の建設を始め、薩摩藩の桜島造船所や加賀藩の七尾造船所が次々と開設された。
1854年、ペリー来航の翌年に通商を求めて日本に来たロシアのディアナ号が下田で安政東海地震の津波により大破の後、嵐に遭い沈没、多くの船員が日本に取り残された(下田で座礁したという情報も複数あり)。当時、日本では外航に耐える船を持たず、これらのロシア船員は船を作らなければ帰れなかったため、君沢郡戸田村(現・沼津市)の日本人を指導して2本マストのスクーナー「ヘダ号」を作り上げた。その後、幕府は同型船多数の建造を命じ、君沢形と命名した。この西洋式造船を実地で指導されながら学んだ経験は、今日の日本造船業にとって近代船建造の礎となった。
1855年、幕府はオランダ人技師から大船建造と鋳砲製造の技術を習得することを目的に、「海軍伝習所」を長崎に開設した。幕府は1857年には長崎の飽の浦に溶鉄所の建設を開始し、1861年に長崎鎔鉄所(現三菱重工長崎造船所)として開所させた。1865年には横須賀・横浜製鉄所が着工され、その後、国内最大の横須賀海軍工廠となった。横須賀海軍工廠では、フランス人技師の指導を受けて木造船から鉄鋼船へ技術の切り替えが行われ、1890年に最初の全鋼鉄軍艦「八重山」(常備排水量1,609トン)が完成した。江戸湾に設けられた石川島造船所はその後の石川島播磨重工の、浦賀造船所は浦賀重工業を経て住友重機械工業の礎となった。
1861年、7月26日(旧暦)。これまで幕府により禁止されていた大型船の建造と外国商船の購入が民間に許可される[16]。
1865年、日本で初めての外輪蒸気船「凌風丸 (佐賀藩)」(10馬力)が佐賀藩により建造され、この年に進水する[17]。
1890年には三菱造船所で最初の全鋼鉄船「筑後川丸」(694総トン)が建造された。1896年には造船奨励法と航海奨励法[18]が公布され、1897年には船舶検査法[19]も施行された。この頃、多数の国内外新規航路が開設された。1898年には、それまでの平均的な国内造船能力であった1,500総トン級を大幅に上回る、「常陸丸」(6,172総トン級)が三菱造船所で完成された[注 6][20]。
1899年には、船舶法が制定され、日本船舶としての国籍要件、船籍港、船舶登録等、日本船舶としての国籍を証明し、船舶の個性を識別する事項を登録し、あるいは、船舶の所有関係を公示する船舶国籍証書等について規定がなされた[21]。
第二次世界大戦の期間中、喪失した船舶は100総トン以上の商船だけで約2500隻(約800万総トン)、漁船や機帆船も含めると7000隻を超えた。また、船員の犠牲者は6万人あまりにのぼった[22]。日本は商船の80%を失った。しかし、造船業と海運業は他の多くの産業同様に終戦直後から着実な復活を開始した。
終戦時にはGHQによって造船能力を年15万トンに制限され、100総トン以上の全ての船がGHQの管理下に入れられたが、1947年(昭和22年)からは規制が順次緩められ、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争と1956年の第二次中東戦争(スエズ動乱)をきっかけに日本に長期の造船ブームをもたらした。
1946年(昭和21年)、日本郵船は終戦以後の早い段階からGHQの許可を得て、貨客船「氷川丸」の太平洋定期航路が再開された。
1951年(昭和26年)のサンフランシスコ講和条約以後は、米アメリカン・プレジデント・ライン社 (APL) の「プレジデント・クリーブランド」(15,973総トン)と「プレジデント・ウィルソン」(12,597総トン)によって米国シアトルとの定期客船航路が開設された。
1952年(昭和27年)と1953年(昭和28年)には大阪商船会社(現商船三井の母体の1つ)が2隻の南米移民用外航貨客船「さんとす丸」(1952年、8,515総トン)と「あめりか丸」(1953年、8,354総トン)を使って南米航路を再開した。その後、2代目「ぶらじる丸」(1954年、10,100総トン)、「あるぜんちな丸」(1958年、10,863総トン)、「さくら丸」(1962年、12,628総トン)などの5隻の外航貨客船によって日本 - 香港と日本 - 北米の航路が再開された。
1964年(昭和39年)の東京オリンピック以降は、航空機による海外渡航が一般化したため旅客輸送需要は激減し始めた。南米航路も移民の減少と共に需要は減少した。日本に限らず世界的に、これ以降は客船としての船舶の需要は低下を続け、一部のクルーズ船を除けば外航航路の客船は消滅していく。
代わって世界中で海上輸送の需要が増加を続け、戦前戦中の造船技術を背景にブロック工法のような新たな造船技術の開発によって世界の造船業における地位を確実なものにしていった。1956年(昭和31年)には英国を抜いて世界一の造船量となり、1975年(昭和45年)には世界の造船量の50%を越える量を世界の海に送り出した。
1950年代から始まった高度経済成長によって、海運業においても大型石油タンカーや大型コンテナ船のような船が多数登場し、自動車運搬船、鉱石運搬船、LNGタンカーも次々と作られ海外航路に投入されていった。また、内航航路でも大型カーフェリーが多数登場した。
日本でのこの増船の波は、1973年(昭和48年)からの第一次オイルショックによって日本経済が停滞した数年後の1977年をピークに下降線をたどった。特に需要の減った石油タンカーは契約キャンセルされるなど造船需要が激減すると同時に、1980年(昭和55年)の貨載量56.5万トンを最後に巨大化に終止符が打たれた。
日本の船会社が運航する日本籍船の船数は1972年から減少を続け、代わりに外国船籍の船を日本の船会社が借りて運航するようになっている。1978年に外国船籍の船数が日本船籍の数を越えて以後は、日本船籍が減り続け、2006年の統計データではついに95隻で、日本の船会社が運航する全2,223隻の4 %にまでなった。
このように、日本の船会社が日本船として登録を避ける原因は主に、高い税金(登録免許税、固定資産税)、最低2名の日本人乗員の乗組み規定、国際条約での規定を超える日本独自の高いレベルの設備・検査規定などがある[23]。
各船舶は、古来、一艘一艘(一杯一杯)、それぞれ固有の名称(船名)を与えられ、その後、固有の国籍(船籍)を持たされるなど、擬人的な取り扱いがなされてきた。
各国の船舶関連の法規において、船首両舷および船尾に船名を表記するように定められている。IMOの規則では、IMOナンバーも併せて明記し、船籍港も明記し、各文字の高さは最低でも4インチなければならない[24]。
英語圏では蒸気船では船名の前に steam ship の意味で艦船接頭辞「SS」をつけることがあり、21世紀の現在では SS は主機関が蒸気タービンであることを意味している。同様に、ディーゼルエンジン船では船名の前に motor ship の意味で「MS」をつけることがある。同様に「M.V. (motor vessel)」「S.V. (sailing vessel)」(帆船)が使われることもある。
また海軍艦艇の所属国を表す接頭辞も用いる国もあり、たとえば以下のものがある。
また次のようなものもある。
日本では船舶法施行細則第44条により、船首両舷の外部に船名を、船尾の外部に船名と船籍を表示することが定められている。
日本には船名の最後に「丸」を付ける慣行がある。旧船舶法取扱手続第1条では日本の従来からの慣行をふまえて日本の船には船名の末尾になるべく「丸」を付けるように勧告されていた[注 8]が、この船舶法取扱手続は2001年に廃止された。とはいえ、従来からの慣行により現在でも多くの日本船が「丸」を船名に付けているが、丸をつけない船も次第に増えてきている。フェリー船や外航船では「ジャパン・コスモス」「ペガサス」「あめりかん はいうえい」など「丸」を付けない船名もあり、丸をつけない船名が次第に増えてきている。また海上自衛隊や海上保安庁の艦船は丸をつけていない(例 : 所属は文部科学省だが運用は海上自衛隊が行っている南極観測船など)。
なぜ日本の船にだけ「丸」が付くようになったかという起源については、いくつかの説があるが、いずれも決定的なものは定まっていない。犬や刀など大切なものに「麿」と名付けていたものが船にも付けられるようになり「丸」に変化したとする説や問丸(問屋)が使用した船に使われるようになったからとする説などがある[25]。平安時代の書物には「坂東丸」と名付けられた船がみられる[25]。海外では日本の船を「Maru ship」と呼ぶことがあるが、日本でのマルシップとは「外国人船員が配乗されている日本船」を指す[26]。
日本では山や川などの地名を付けることが多く花の名前なども付けられるが、「ナッチャンRera」のような愛称を除けば、欧米のようなそのままの人名を付けることは少ない。「日石丸」「第七全購連丸」「第十とよた丸」「日産丸」のように日本の会社名をそのまま付ける例も多くなってきている。
世界的にはプレジャーボートなどの操船に免許は不要である[30]。
船籍を日本以外にしておけば、日本の免許を取得する必要はなく[30]、また日本の小型船舶免許は、日本の領域から出たら効力はない[30]。また、大型船においては有資格者が見張りをしている状態で有資格者の指示を受けて操船する場合、無資格者でも操船することができる。かつては操舵長や操舵手は無資格者が多かったが、現代では自動化により多くの船員は必要とされず保険会社の規約も厳しいため国際航海では無資格者は訓練中や資格取得前の船員が中心である。かつては小型船舶においても同様のことが可能であったが、法改正により現在では原則として有資格者が自ら操舵をしなければならない。
次の要件を全て満たしていれば免許不要で船舶検査を受けなくても操船できる。
大海原では舵はオートパイロットによって自動で保針されており、人は海上を監視することが求められる。船の多い海域や狭い海域ではクオーターマスター(操舵手)が舵を手動で操作する。
船舶については、陸上の自動車などのような排ガス規制が存在せず、野放し状態であり、大型船1隻で5000万台の自動車に相当する汚染物質を排出している記事もあった。[32]しかし、最近規制が強化されており、2007年にはそれまで船舶から排出される油、有害液体物質、有害物質、船舶からの汚水及び廃棄物の5項目に関して海洋汚染防止のための規定をしていた海洋汚染防止条約(MALPOL73/78)に船舶からの大気汚染防止に関する附属書を追加するための議定書が採択され[33]、排ガス規制が導入された。この規制は順次強化されており例えばSOxについては、燃料油中の硫黄分濃度が、2020年1月以降、現行の3.50%以下から0.50%以下に強化される[34]。
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