飛鳥時代

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飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、難波宮や飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年(ただし旧暦12月8日なので、西暦に換算すると593年))から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての101年間、または推古天皇元年(593年)から和銅3年(710年)にかけての117年間を指す[1]。

歴史

天皇・皇太子と言う名称や、日本と言う国号は7世紀末に成立したと見られている[2][3][4]。そのため、天武天皇より前の天皇に対して、天皇の呼称は本来は不正確であるが、本記事は天皇、皇太子、日本の名称で統一して表記する。

推古朝

聖徳太子(厩戸皇子)像。法隆寺聖霊院。

5世紀には氏姓制度に基づく部民制が普及していたところ、552年(欽明天皇13年)、或いは538年(宣化天皇3年)に、百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝されると、587年(用明天皇2年)、大王の仏教帰依について、大連・物部守屋(排仏派)と大臣・蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化した[注 1][8][9][10][11]。聖徳太子は蘇我氏側につき、武力抗争の末に物部氏を滅ぼした(丁未の乱)[5][6]。物部氏を滅ぼして以降、蘇我馬子が権力を掌握する[12][13]。588年(崇峻天皇元年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始め、596年(推古5年)に完成する[14][15]。

法隆寺金堂(西院伽藍)

587年(用明天皇2年)、馬子は丁未の乱で蘇我氏側についた泊瀬部皇子を天皇に擁立したが(崇峻天皇)、次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、592年(崇峻天皇5年)、蘇我馬子は東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺させた[注 2][11][17][18]。こののち馬子は日本初の女帝となる推古天皇を立てた[注 3][5]。593年(推古天皇元年)、聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子に立てられ、摂政となったといわれている[19][16]。603年(推古天皇11年)には、冠位十二階を制定。聖徳太子が604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた[注 4][21][22]。

600年(推古6年)、日本は隋に対して遣隋使を派遣した[23][24]。これが初の遣隋使である[25]。だが、隋の皇帝である文帝は当時の日本を、政治制度や行政制度も整っていない後れた国として取り合わなかった[24][23]。この遣隋使については、日本書紀には記載がなく、隋書倭国伝の記録に依存している[26][27]。

607年(推古天皇15年)、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝煬帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る[28][24][29]。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた[28][24][30]。この遣隋使に従事した者達には、高向玄理、南淵請安、僧旻がおり、彼らは帰国後、大化の改新で活躍することになる[31][30]。620年(推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した[32][33]。

国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた[34][35]。国造とは、各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、大和朝廷の地方行政的な性格を持つものである[34][35]。

621年(推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、626年(同34年)には蘇我馬子が、さらに628年(同36年)には推古天皇が没した[36][33][37]。日本歴史上初めての女帝の時代は36年間の長期に渡った[38]。

舒明・皇極朝

聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと『日本書紀』には記されている[39]。推古天皇没後、有力な天皇位継承候補となったのは、田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)であった[39][37][40]。蝦夷は推古天皇の遺言を元に田村皇子を舒明天皇として擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる[40]。舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した[41]。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼし、蘇我氏による専横が一層進んだ[42][43][41]。

孝徳朝

牙彫藤原鎌足(宮彫師島村俊明作、1892年)。東京国立博物館

645年(皇極天皇4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌足(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした[注 5][44][47][46]。

乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たに孝徳天皇が即位した。孝徳天皇は、次々と改革を進めていった(大化の改新)。なお、日本で最初の元号は大化とされるが、実際のところどの程度使われたかは議論の余地がある[48][42]。『日本書紀』の記述によると、645年(大化元年)12月には都を難波長柄豊碕宮に移している[29][49]。翌646年(大化2年)正月には、改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた[注 6][53][54][50]。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた[42][55]。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある[56]。 650年(白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する[57][58]。653年頃、中大兄皇子が、孝徳天皇に対して都を飛鳥に戻すと宣言し、自身の一族や臣下の大半を飛鳥へと連れ帰ってしまった[59][60][49]。一時は二重政府状態となるが、中大兄皇子側が有力となり、孝徳天皇は失意のうちに654年(白雉5年)に死去する[49][61]。

天智朝

孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った[54]。中大兄皇子は何らかの理由により天皇位には就かず、退位し皇祖母尊(すめみおやのみこと)を称していた母親・皇極天皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)[62][54][60]。658年(斉明天皇4年)、現在の東北地方に拠点を置いていた蝦夷に対する制圧活動が本格化し、阿倍比羅夫が現在の秋田県から青森県にかけて活動していた蝦夷を征服した[62][63][64]。日本書紀の情報ではあるが、彼は現在の北海道南部にまで進出したとされる[62][64]。斉明天皇没後も数年の間、中大兄皇子は皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)[65]。

663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した[65][66][67]。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった[65][68][67]。664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人や烽を置いた[54][69][68]。 667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された[70][71][72]。前後するが、664年(天智天皇3年)には、甲子の宣を発し、冠位を十九階から二十六階に改め、氏上、諸氏の民部(かきべ)、家部(やかべ)を制定し、支配層や官僚機構の統制を図った[73][74][75]。

668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる[74][76][77]。

670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り[注 7]、人民を把握する国内政策も推進した[74][54][70]。

671年(天智天皇10年)、天智天皇が急死する[78][71]。

天武・持統朝

天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(1870年に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった[79][80]。これが672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である[81][82]。この戦いは、古代史において最大の戦乱となり、戦争は近畿・東海地方にまで及び、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった[51][78][83]。戦いに敗北した大友皇子は逃亡中に自殺した[78]。壬申の乱で大友皇子側に与した者には死罪などの処罰が下ったが、その人数は数名程度であり、大規模な内乱の割には比較的寛大な処分が下されたと言える[82][79]。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた[84][51][85]。この頃、中央集権化に合わせて、天皇の神格化が進んだ[51][84]。

672年(天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した[51][86][87]。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った[76][85]。

681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した[88][89][90]。684年(天武天皇13年)には、八色の姓が制定された[91][88]。これは氏族を格付けしたもので、天皇家から枝分かれした一族が真人と言う風に定められた[92][93]。 翌年685年、冠位が二十六階から四十八階に改められた[92]。686年(朱鳥元年)に、天武天皇は没し、皇后(後の持統天皇)の称制となる[92][94]。689年(持統天皇3年)には、諸氏に全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される[95]。律は編纂されず、唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている[96]。

持統天皇。三英舎『御歴代百廿一天皇御尊影』、1894年。

人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される[95]。皇后が天皇として即位した690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった[95][97]。また畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した[53][95]。702年(大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった[98][99]。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた[98]。

694年(持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した[96][100][101]。藤原京は当時は新益京(しんやくのみやこ)と言われ、その具体的な位置についてはなかなか特定されず、1933年に小学校建設の際にようやく藤原京の発掘調査が開始された[96][102]。

持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世していたため、孫である文武天皇を即位させる[92][103][88]。この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武天皇4年)に律条を制定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武天皇5年)に大宝律令が制定された[98][104]。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した[98]。時期は不明瞭ながら倭に代えて日本の国号を定め、702年(大宝2年)に粟田真人ら遣唐使を派遣して武周にこれを伝えた[3][105] 。天皇と言う呼称については、天武天皇時代に使われ始めたとされる[92][106][107]。これは1998年、飛鳥池遺跡において発見された天武6年の木簡に「天皇」と言う呼称が見られたためである[106][107][91]。

中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制が採られ[注 8]、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった[108][98][109]。また、行政区画としては畿内と七道が確立された[95]。畿内は大和・河内・摂津・山背・後に和泉とされた[95]。七道は東山道、北陸道、東海道、山陰道、山陽道、南海道、西海道から成っていた[110]。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった[110][98][111]。また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた(慶雲3年(706年)以降)[98]。大宝律令では、刑罰も定められ、国家や天皇に対する犯罪は八虐と言われ、これらは大赦されることは無かった[110][95]。刑罰には笞杖徒流死の五刑が定められた[110][95]。大宝律令によって、冠位はそれまでの四十八階は廃止され、正一位から少初位までの30段階の位階に改革され、これが明治初期まで続くこととなった[108]。

文武天皇の死後、母の元明天皇が即位。710年(和銅3年)に、平城京へ遷都した[112][98]。

社会・文化

飛鳥文化

推古天皇時代、仏教の興隆を命じたため、多数の氏寺が建立された[113][114]。624年9月時点では、46寺を数えたと言う[113][115][116]。寺の数に比例して、僧と尼の人数も増え、同じく624年9月時点では、僧の人数は816人、尼の人数は569人とされる[116][29]。氏寺の代表的な寺としては、蘇我氏による飛鳥寺、聖徳太子による四天王寺、法隆寺などがある[114][10]。氏寺が増えたことから、朝廷は寺や僧の統制策を講じ、625年4月には、僧正・僧都を配置して、観勒を僧正に任命した[113][29]。

聖徳太子は611年から615年にかけて、華経、維摩経、勝鬘経の注釈書である三経義疏を記した[117][114][118]。仏像彫刻では、鞍作鳥製作とされる法隆寺金堂釈迦三尊像、中宮寺の半跏思惟像、広隆寺の半跏思惟像が有名である[114][14][113]。

白鳳文化

白鳳文化は、7世紀後半の文化である。仏教が朝廷で信仰されるようになった天皇が祈願をかけた寺としての最初の寺は舒明天皇の百済大寺である[39][119]。百済大寺は九重塔があったとされ、天武天皇時代の676年に大官大寺と名前を変えて完成した[119][120][76]。天智天皇による川原寺や天武天皇が皇后(持統天皇)の病気の平癒のための薬師寺も建立された[119][121][122]。天武天皇は、仏教布教を推し進め、日本の全土に寺を建造することを発案し、持統天皇時代になると寺はほぼ日本全域に及び、529寺に達した[123]。天武天皇は金光明経を重んじ、地方にも仏教が広まったため、現地の豪族は寺院を建立するようになる[51]。だが、寺院や僧侶については朝廷が管理監督し、これが大宝律令の僧尼令へとつながっていくことになる[51][124]。白鳳文化の仏教芸術としては、薬師寺金堂薬師三尊像や法隆寺金堂壁画が有名である[105]。

古墳については、646年に発せられた墳墓の規模を制限した薄葬令が発令されて以降廃れていくことになる[57][29]。火葬については、遺体を傷つける行為であるとして忌避されていたが、仏教と共に火葬が伝来し、天皇経験者として持統太上天皇が初めて火葬によって葬られた[105][125]。

古墳終末期で代表的な古墳としては、高松塚古墳やキトラ古墳が知られる[105][51]。両古墳共に内部に壁画があり、東の壁には青龍、西の壁に白虎、南の壁に朱雀、北の壁に玄武の四神図が描かれている[105][126][119]。ただし、高松塚古墳の南壁は、盗掘孔となっていたため破壊されている[119]。高松塚古墳では男性と女性の群像が描かれている[126][126][119]。キトラ古墳には天文図が描かれており、これは世界最古とされる[126][105][119]。

通貨について

通貨については、天智天皇時代に無文銀銭が使われ、683年4月に銅銭の使用を命じる詔がだされ、これが富本銭とされる[91][127]。だが、富本銭は畿内でわずかにしか発掘されていないことから、広く流通していなかったと見られている[127]。その後、709年和同開珎が発効され、これは760年に万年通宝が発効されるまで鋳造された[128][127]。

民衆の生活について

飛鳥時代の民衆は、食事は朝・夕方の2食で、食事は雑穀や野菜が中心となっていた[117]。海岸、河川付近の民衆は魚介類を食していた[117]。8世紀に入ったころには建築技術が向上したため、竪穴建物から柱を建て、外壁も備えた建物が構築されていた[117]。

年表

関連する人物

画像

脚注

注釈

  1. ↑ 物部氏は排仏であったというのは日本書紀によるものであるが、これは後世による潤色である可能性が高く、実際は物部氏は渋川廃寺(現在の八尾市)の設立に関与した可能性があり、完全な排仏ではなかったとされる[5][6][7]
  2. ↑ 天皇暗殺と言う一大事件であるが、蘇我氏は暗殺後もその地位は安泰であったことから、これが蘇我氏が主導したかは疑問視する意見もあり、額田部皇女(後の推古天皇)ら様々な人物の支持があった上で事を起こした可能性がある[16][6]
  3. ↑ 推古天皇をはじめとする、女性天皇が即位した理由については、次期天皇候補者の年齢が若すぎることに起因し、「中継ぎ」による即位の意味合いが強い[16]
  4. ↑ 聖徳太子の業績については疑問視する説もあり、聖徳太子の生年が574年とすると、丁未の乱当時は14歳、推古天皇即位時は20歳となり、実際の政治権力は蘇我馬子が掌握し、聖徳太子はその補佐だったのではないかと言う説もある[19][16][20][10]
  5. ↑ ただ、これによって蘇我氏が全て滅亡したわけではなく、蘇我氏の傍系は存続した[44][45][46]
  6. ↑ 改新の詔については、信ぴょう性に疑義があるとされる[50][51][52]。例として、改新の詔には地方行政組織として国・郡・里を定めたとあるが、当時の史料には「郡」と記したものはなく、「評」と記したものばかりである[50][51][52]。このことから、改新の詔は日本書記編纂時の大宝律令によって文飾を受けているとされる[50][51][52]
  7. ↑ 庚午年籍は現存しておらず、詳細は不明な点が多い[70][71]
  8. ↑ 八省は中務省、式武省、治部省、民部省、大蔵省、刑部省、宮内省、兵部省からなる[108][95]

出典

  1. ↑ 三訂版, デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,日本大百科全書(ニッポニカ),改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,山川 日本史小辞典 改訂新版,旺文社日本史事典. “飛鳥時代(アスカジダイ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年5月9日閲覧。
  2. ↑ 佐藤 & 佐々木 2013, p. 53.
  3. 1 2 鐘江 2008, p. 50.
  4. ↑ 佐藤 & 佐々木 2013, pp. 1–5.
  5. 1 2 3 4 大石 2026, pp. 18–20.
  6. 1 2 3 4 瀧音 2026, pp. 22–25.
  7. ↑ 佐藤 & 佐々木 2013, pp. 37–42.
  8. ↑ 和田 2003, pp. 45–49.
  9. 1 2 佐藤 & 佐々木 2013, pp. 33–37.
  10. 1 2 3 4 5 6 網野 et al. 2008, pp. 199–202.
  11. 1 2 3 4 大津 et al. 2022, pp. 25–27.
  12. ↑ 瀧音 2026, pp. 18–21.
  13. ↑ 和田 2003, pp. 53–59.
  14. 1 2 吉川 2011, pp. 2–8.
  15. ↑ 直木 2007, pp. 92–93.
  16. 1 2 3 4 佐藤 & 佐々木 2013, pp. 89–95.
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  18. ↑ 田村 2010, pp. 15–17.
  19. 1 2 瀧音 2026, pp. 60–61.
  20. ↑ 和田 2003, pp. 82–83.
  21. ↑ 大石 2026, pp. 39–41.
  22. 1 2 吉川 2011, pp. 23–28.
  23. 1 2 吉川 2011, pp. 18–23.
  24. 1 2 3 4 5 網野 et al. 2008, pp. 219–223.
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  27. ↑ 倉本 2019, pp. 87–91.
  28. 1 2 3 大石 2026, pp. 33–39.
  29. 1 2 3 4 5 五味 2023, pp. 68–72.
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  32. ↑ 鐘江 2008, p. 47.
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  36. ↑ 吉川 2011, pp. 29–35.
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  38. ↑ 和田 2003, pp. 68–73.
  39. 1 2 3 4 大石 2026, pp. 50–56.
  40. 1 2 3 吉川 2011, pp. 36–42.
  41. 1 2 瀧音 2026, pp. 92–94.
  42. 1 2 3 倉本 2019, pp. 96–99.
  43. ↑ 和田 2003, pp. 104–112.
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  69. ↑ 五味 2023, pp. 72–75.
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  73. ↑ 網野 et al. 2008, pp. 309–312.
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  76. 1 2 3 五味 2023, pp. 76–81.
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  79. 1 2 大石 2026, pp. 101–103.
  80. 1 2 佐藤 & 佐々木 2013, pp. 195–203.
  81. 1 2 大石 2026, pp. 95–100.
  82. 1 2 網野 et al. 2008, pp. 319–330.
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  85. 1 2 3 網野 et al. 2009, pp. 12–19.
  86. ↑ 瀧音 2026, pp. 74–77.
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  92. 1 2 3 4 5 大石 2026, pp. 112–120.
  93. ↑ 五味 2023, pp. 81–83.
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参考文献

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  • 大津透、久留島典子、藤田覚、伊藤之雄『もういちど読みとおす山川新日本史』 上、山川出版社、2022年7月。ISBN 978-4-634-59126-4。 
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  • 網野善彦、大津透、鬼頭宏、熊谷公男『日本の歴史 大王から天皇へ』 3巻、講談社〈講談社学術文庫〉、2008年12月。ISBN 978-4-06-291903-6。 
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  • 門脇禎二『飛鳥 : その古代史と風土』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2012年7月。ISBN 978-4-642-06381-4。 
  • 瀧音能之『飛鳥の古代史 : 大化の改新と日本国誕生の謎を解く』宝島社〈宝島社新書〉、2026年2月。ISBN 978-4-299-07476-8。 
  • 五味文彦『明日への日本歴史』 1巻、山川出版社、2023年5月。ISBN 978-4-634-15221-2。 
  • 佐藤信、佐々木恵介『日本古代の歴史 飛鳥と古代国家』 2巻、吉川弘文館、2013年9月。ISBN 978-4-642-06468-2。 
  • 田村圓澄『飛鳥時代倭から日本へ』吉川弘文館、2010年4月。ISBN 978-4-642-08033-0。 
  • 直木孝次郎『飛鳥 : その光と影』吉川弘文館、2007年5月。ISBN 978-4-642-06335-7。 
  • 和田萃『飛鳥 : 歴史と風土を歩く』岩波書店、2003年8月。ISBN 4-00-430850-X。 
  • 網野善彦、大津透、鬼頭宏、渡辺晃宏『日本の歴史 平城京と木簡の世紀』 4巻、講談社〈講談社学術文庫〉、2009年1月。ISBN 978-4-06-291904-3。 
  • 西山良平、勝山清次『日本の歴史 古代・中世編』ミネルヴァ書房、2021年6月。ISBN 978-4-623-09219-2。 

関連項目

外部リンク