金庾信
金庾信像
各種表記
ハングル: 김유신
漢字: 金庾信
発音: キム・ユシン
日本語読み: きん ゆしん
ローマ字: Kim Yusin , Kim Yushin
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金庾信(キム・ユシン、きん ゆしん、595年 - 673年)は、三国時代の新羅の将軍。上大等。新羅の朝鮮半島統一に最大級の貢献をした。

家系

532年に新羅に併合された金官伽倻の王家の血を引いており[1]、金庾信の妹が武烈王(金春秋)に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王となる。金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っており、新羅の王族ではなかったが王族との関係は親密であった。

『三国史記』金庾信列伝には、金庾信は首露王の後裔であり、その祖先は中国黄帝の子・少昊金天氏であり、それ故、金姓を名乗っていたとある[2]。

生涯

伽耶王家の血を引く金舒玄と 第24代国王 真興王の弟の金粛訖宗の娘である萬明夫人を母にして生まれる。幼い頃の記述はない。 花郎の一人であった。

647年、毗曇の反乱が起こる中で死んだ善徳女王の死後、金春秋と共に真徳女王を立ててこれを補佐し、女王が死ぬと金春秋を武烈王として即位させた。新羅は648年に高句麗と百済の麗済同盟に対抗するために唐に救援を求める。660年、唐と共同で百済へ進軍し(唐・新羅の同盟)、黄山伐の戦い(英語版)で百済の将軍階伯を激戦の末に破り、同年、百済を滅ぼした。その戦中、何度か蘇定方とトラブルを起こす。663年に白村江の戦いで倭と百済の残党勢力を排除した後、668年に高句麗に出兵し(唐の高句麗出兵)、高句麗も滅ぼした。

668年12月、文武王より太大角干の官位を贈られる。それまでの新羅の官位の最上階の大角干を上回る官位として設置されたものである。673年7月1日に79歳で死去したとき、文武王は嘆き悲しみ、帛1千匹と租2千石とを香典として下賜した。のちに興徳王(在位:826年 - 836年)の時代になって、<興武大王>に封じられた[3]。

評価

《金庾信将軍の像》 (ソウル、南山)

『三国史記』においては金庾信に伝記3巻(巻41~巻43)を割り当てているとともに、同伝の末尾では編者の金富軾が、乙支文徳の知略や張保皐の義勇を称えながらも金庾信の功名を図抜けたものと記しており、三国統一の功績を高く評価している。

金庾信を演じた人物

脚注

  1. ↑ 532年に新羅に投降した金官伽倻の最後の仇衡王を金仇亥といい、その末子の金武力は角干(1等官)の位に上った。金武力の子の金舒玄が金庾信の父であり、金舒玄もまた角干の位にまで上った。
  2. ↑
    金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。 — 三国史記、巻四十一
  3. ↑ 追封については『三国史記』43金庾信伝・下による。ただし対応する記事は新羅本紀・興徳王紀には見られない。

参考文献

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