金田喜稔

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金田 喜稔
名前
愛称 キンタ、キンさん
カタカナ カネダ ノブトシ
ラテン文字 KANEDA Nobutoshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1958-02-16) 1958年2月16日(67歳)
出身地 広島県安芸郡府中町
身長 168cm
体重 62kg
選手情報
ポジション MF
ユース
1973-1975 日本の旗 広島工業高校
1976-1979 日本の旗 中央大学
クラブ1
年 クラブ 出場 (得点)
1980-1991 日本の旗 日産自動車 157 (21)
通算 157 (21)
代表歴
1976-1977[1]  日本ユース 9[1] (1[1])
1977-1984[2] 日本の旗 日本 58 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

金田 喜稔(かねだ のぶとし、1958年2月16日 - )は、日本の元サッカー選手。元サッカー日本代表で、「19歳119日」という日本代表最年少得点記録を保持している(2017年時点)[3]。広島県安芸郡府中町出身。現在はTBSなどでサッカー解説者として活躍している。尊敬するサッカー選手はジョージ・ベスト。フチューマ所属。日本サッカー名蹴会会長。いわきFC シニアアドバイザー。一般財団法人日本スポーツ振興会 理事。

経歴

幼少期

サッカーを始めたのは中学に入ってから[4]。小学生のときはソフトボールを主にやっていた[4]。坊主頭になるのが嫌で野球を諦め、中学からサッカー部に入った[4]。週1回の『三菱ダイヤモンド・サッカー』を観て、世界のトップ選手たちのプレイに憧れビデオの無い時代、テレビ放送に目を凝らし、翌朝近くのグラウンドで想像してボールを蹴った[4]。育った府中町は東洋工業(マツダ)の本社があり、中学の校庭にナイター施設があったため、船本幸路や大野毅らがよく来てサッカーを教えてくれた[4]。大野が日本代表と知らず「俺のドリブル、あんたには止められんぜ」と実際に抜いていた。これについて金田は、「まともにタックルを受けたら骨が折れてたろうが」と話している[5][6]。

選手時代

当時、広島で1番強かった県立広島工業(通称・県工)に進学。同校監督は第1回FIFAコーチングスクール(1969年)で実技でトップになり後にJFAの専任コーチも務めた松田輝幸で、さすがに松田からはボールは取れず、徹底した指導を受けドリブルに磨きをかけた[7]。広島工業時代は1年からレギュラーに抜擢され、楚輪博、石崎信弘、木村和司、猿沢茂らとスペクタクルなサッカーを展開[4][8][9]。1975年、関西で開催された最後の高校選手権では優勝候補に挙げられたがベスト4(0-3静岡工)[4]。しかし初戦の新潟巻高校戦10-0は、戦後3度しかない10得点(以上)、2度しかない10点差以上の記録で[注 1]得点のほとんどが金田からの好配球によるものであった。大会優秀選手に選ばれ、日本高校選抜を飛び越え、ユース代表に選ばれた[4]。高校の同級生には広島カープなどで活躍した小林誠二もいる。現にカープファンでもある。

高校卒業後は小城得達の世話で[4]、中央大学に進み、2年生で日本代表に選出されると1977年6月15日日韓定期戦(ソウル運動場)、日本代表ラストゲームとなった釜本邦茂のアシストで新旧交代を象徴するような代表初ゴールを決めた[10]。新時代の旗手が19歳119日で記録したこのゴールは、40年以上たった現在も破られていない日本代表国際Aマッチ最年少ゴールである[11][12]。変幻自在のドリブルの名手として知られ、世界の強豪チームを相手にしても、切れ味鋭いドリブルは充分通用した[13]。大学3年時にはブンデスリーガ・1.FCケルンからオファーが届いた[注 2]。

大学卒業後は郷里広島の東洋工業に入る予定だったが、単位を落としてしまい、大学に通いながらプレーできる在京チームを希望[14]。多くのトップチームに声を掛けられたが1980年、加茂周監督に強く勧誘され日産自動車(横浜F・マリノスの母体)に入団。日産入社の理由は、源氏鶏太のサラリーマン小説が大好きで、一企業として良い会社、また本社が銀座にあるし女子社員も美人が多いと評判だったからなどと話している[4]。中大サッカー部からは、日立製作所か古河電工と流れが決まっていて、監督に「日産に行きたい」と言うと問題になったが、有力OBの家を回り「こういうサッカーで日産を5年以内に日本一にさせたい、だから僕は日産に行きたい」と力説し、ようやく日産への入社許可を得た[4]。当時の日産は代表選手もおらず[4]、日本サッカーリーグ (JSL) で2年連続の最下位という結果に終わり再び2部へ降格した時期であった。しかし、翌年県工の後輩、木村和司が入部。日本屈指の才能と技術を持つ2人の加入により、以後、水沼貴史、柱谷幸一、松永成立、長谷川健太、井原正巳ら有力選手が毎年の様に集まり日産黄金時代を形成した[4][14][15][16]。また銀座の本社勤務を入社の条件として出し、地方工場等の勤務を一切拒否し、サラリーマン生活を謳歌したという[4]。

1983年の日本サッカーリーグ(JSL)後期から、それまで中盤でプレーしていた金田と右ウイングの木村を入れ替えた[15]。この試みは大成功しリーグ優勝は読売に逃げ切られるが、第63回天皇杯ではその威力を存分に発揮しチームに初の全国タイトルをもたらした[15]。木村からのパスを金田が受けて決めるパターンがはまり、準決勝の1点目、決勝の2点目はこのパターンだった[15]。この初優勝を切っ掛け日産は強豪クラブに成長していった[15]。

愛称は名字から「キンタ」[4]。がに股気味の独特のフェイントの足さばきは「キンタダンス」と呼ばれた[8][14]。木村和司は「20メートル、30メートルは一番速い。あんなに速い人はいなかった。今の選手でもかなわんだろうね。うまくて速くて、スパッと抜いていってしまう」と評している[8]。週刊サッカーダイジェストは、<日本人ドリブラー列伝 名手の系譜>という企画に於いて、「日本人ドリブラーの系譜を辿るには、金田喜稔を出発点とするのがふさわしい」と論じている[13]。スピードと緩急を自在に使い分けて相手を抜き去るキレ味抜群のドリブルで、日本サッカー史上最高のテクニシャンと評価する声も多い[13][17][18]。

日本代表では1977年、二宮寛監督下で初選出されると、5月30日にドイツカップ再試合を戦い、そのまま飛行機を乗り継ぎ、6月1日昼前に来日し、その日の夜に試合という強行日程で最悪のコンディションの1.FCケルン相手に1アシストを決め、ブンデスリーガ相手の日本代表初勝利 (1-0) に貢献[14][19]。当時の1.FCケルンは名将ヘネス・バイスバイラーが率いるブンデスリーガで常に優勝争いする強豪であり、コンディションが悪く、親善試合だったとはいえ、信じられない大番狂わせに興奮した観衆が一斉にグラウンドに雪崩込み大騒ぎになった。デビュー戦での歴史的な勝利を演出したことで金田の名前は全国的に知れ渡った[14]。この試合は西ドイツの当時のスーパースター・オベラートの引退試合でもあった[14]。以降は代表に定着。1977年6月15日、ソウルで開催された第6回日韓定期戦で、釜本邦茂(同年9月14日ニューヨーク・コスモス戦を最後に日本代表引退発表)のアシストで、後半11分得点を決めた。「19歳119日」で決めたこの得点は、今もなお(2013年時点)、日本代表最年少得点記録である[3]。なお、試合は1-2で敗れている。奥寺康彦、永井良和らと共に、いわゆるメキシコ五輪銅の旧世代メンバーとの入れ替わりを象徴する選手の1人となった。「個人技で劣る部分を走ることでカバーする」という当時の日本サッカーのコンセプトを覆し個人技で見せ、1984年のロサンゼルス五輪予選まで中盤を牽引した。金田・木村のコンビは1980年代日本サッカーの希望[8][20]、二人のコンビで一時代を築いた[8]。ロス五輪予選は組み合わせにも恵まれ、本戦出場に期待が大きかったが、初戦で格下とみられたタイに2-5で敗れるとそのまま全敗[4]。4月のタイの暑さが想像以上で、コンディショニングの失敗や森孝慈監督批判他、多くの批判が出たが、金田は「攻撃の形はワシが作ってたから、ワシがダメだったから負けた」と、直後に26歳の若さで代表を引退した[4][15][21]。ワールドカップ出場にあと一歩のところまで辿りついた1985年ワールドカップメキシコ大会最終予選に金田がいればと、当時のサッカーファンは誰もが思っていた[15]。日本代表154試合出場、国際Aマッチ58試合は歴代28位、6得点40位を記録している。

1985年夏に恥骨を疲労骨折、次いで内転筋を痛め精彩を欠いたが[15] 1980年代後半にキレが戻り1988年~1989年の日産2年連続三冠(天皇杯、日本サッカーリーグ、JSLカップ)など、日産の国内タイトル7冠獲得に貢献した[22]。

この当時、ブンデスリーガに渡っていた奥寺の帰国に後押しされる形でスペシャル・ライセンス・プレーヤー制度が誕生。木村が国産プロ選手第1号になったが、チームの中で最もプロらしいスピリッツの持ち主であった金田は、選手としてプロになることを頑なに拒んだ。Jリーグが成功しないのではと思った、あるいは、代表選手に全く報酬もない中、会社で仕事をした後、サッカーを続けた多くの仲間たちのストイックな価値観を貫いたともいわれる[23]。金田以外はチーム全員がプロ契約を結んだ。

引退後

1991年、Jリーグ誕生を2年後に控えた熱狂から背を向けるように"異端の天才"は[24] 最後までアマチュアのまま現役を引退。現役時代は日産自動車の人事部に10年籍を置いたが、選手引退後は総務部に2年半勤務しサラリーマン生活を送る[4][21]。送迎係や株主総会の担当などの仕事をこなした。ところが1993年のJリーグ開幕を控えてサッカー関連の仕事の依頼が増え、日産に勤務しながらNHK、TBS、テレビ東京のサッカーコメンテーター他を担当、日本初のプロサッカー解説者となる[25]。当時から唯一続くサッカー長寿番組『スーパーサッカー』(当時は『速報Jリーグ』)でも番組初期にビートたけしと絡み、笑える番組としての下地を作るなど、Jリーグ発足時からの名物解説者の1人として活躍した[14][26][27]。こうして皮肉なことにサッカー関連の仕事が忙しくなり、1993年日産を退社し、自らが社長を務めるフチューマを設立して独立した。

これらの活動と平行し、この後1995年まで日本サッカー協会の強化委員会(現・技術委員会)委員に就任。ドーハの悲劇後の会議でハンス・オフト日本代表監督の経験不足を指摘しセルジオ越後とオフト解任を強く唱えた。また、1995年10月の加茂監督契約更新問題のときも、加藤久や田嶋幸三、今西和男らと恩師でもある加茂解任に動いた[14]。強化委員会には代表監督を"選定する"という役割が与えられ、これが明文化もされていたにも関わらず、この結論を幹部会が退け加茂留任を幹部だけで決めた。こうした対応により、金田ら強化委員会のメンバーは全員が辞任し解散した[28][29]。

その後はサッカーコメンテーター・解説者として活躍。その他サッカーの指導・普及にも当たっている。ゴルフにも凝り雑誌に連載を持つ程の腕前。2000年に行われたサッカー・アジアカップ決勝戦(日本vsサウジアラビア)では、決勝点を決めた望月重良に向けて、「やったなー! モチィ」と極めてフレンドリーな賞賛を送り、中継に花を添えた。サッカー解説者としては比較的知名度は高く、人気はある方である[30]。

若い頃から海外遠征が豊富で、海外のスター選手に憧れてサッカーを始めたこともあって、TBSのUEFA欧州選手権2008の解説も務めた[31]。2010年9月には、プロ野球の日本プロ野球名球会に倣って新たに発足した日本サッカー名蹴会の設立発起人、及び会長に就任した[5][32]。

現在のサッカー界では考えられないが、現役の頃から試合後にロッカールームでタバコを吹かすヘビースモーカーで知られ[14]、後輩の木村和司を夜中に呼びつけ広島のお好み焼きを作らせるなど使い走りにしたり[4][14]、フジテレビ721で放送されていた『チャンネル北野eX』に出演した際は、最初から最後まで酒を飲んで、言いたい放題喋るなど、豪放な人物でもある。都並敏史が初めて日本代表の合宿に呼ばれて、夜に金田の部屋に行くと、金田がザブトンを敷いて木村と岡田武史を従えて花札をやっていて"これが代表の実態なのか..."とカルチャーショックを受けたと著書に書いている[33]。「本格的に指導者になったら?」と勧められるが「それはどうかな。何をやっても選手時代の達成感はない。選手をやめてからはワシはただ生きてるだけ。生きる屍さ」と自虐的に話している[34]。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦JSL杯天皇杯期間通算
1980日産12JSL1部1812011212
19817JSL2部1822120223
1982JSL1部1820020222
198318330582611
19841530041194
1985404140121
1986-872140040254
1987-881611030201
1988-89604020120
1989-901950051246
1990-914010
通算日本JSL1部 13919151
日本JSL2部 1822120223
総通算 15721172

・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 3回出場:1980年、1984年、1987年

・JSL選抜チーム(1984年、1990年)2試合0得点


その他の公式戦

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 58試合 6得点 (1977-1984)[2]
日本代表国際Aマッチ その他期間通算
年出場得点 出場得点出場得点
197711252263
1978140112252
1979305080
1980122112234
198160134194
198280141221
198382130212
19846150111
通算 586971115517

出場

No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1977年06月15日大韓民国の旗ソウル 韓国●1-2二宮寛日韓定期戦
2.1978年05月23日日本の旗愛知県名古屋市瑞穂公園ラグビー場 タイ○3-1ジャパンカップ
3.1978年07月13日マレーシアの旗クアラルンプール イラク△0-0ムルデカ大会
4.1978年07月15日マレーシアの旗クアラルンプール インドネシア●1-2ムルデカ大会
5.1978年07月17日マレーシアの旗クアラルンプール シリア○3-2ムルデカ大会
6.1978年07月19日マレーシアの旗クアラルンプール 韓国●0-4ムルデカ大会
7.1978年07月21日マレーシアの旗クアラルンプール マレーシア●1-4ムルデカ大会
8.1978年07月23日マレーシアの旗クアラルンプール シンガポール●1-2ムルデカ大会
9.1978年07月26日マレーシアの旗クアラルンプール タイ○4-0ムルデカ大会
10.1978年11月19日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ソビエト連邦●1-4国際親善試合
11.1978年11月23日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ソビエト連邦●1-4国際親善試合
12.1978年11月26日日本の旗大阪府長居陸上競技場 ソビエト連邦●0-3国際親善試合
13.1978年12月11日タイ王国の旗バンコク クウェート●0-2アジア大会
14.1978年12月13日タイ王国の旗バンコク バーレーン○4-0アジア大会
15.1978年12月15日タイ王国の旗バンコク 韓国●1-3アジア大会
16.1979年05月31日日本の旗東京都国立西が丘サッカー場 インドネシア○4-0下村幸男ジャパンカップ
17.1979年06月16日大韓民国の旗ソウル 韓国●1-4日韓定期戦
18.1979年08月23日朝鮮民主主義人民共和国の旗平壌 北朝鮮△0-0国際親善試合
19.1980年03月22日マレーシアの旗クアラルンプール 韓国●1-3オリンピック予選
20.1980年03月24日マレーシアの旗クアラルンプール フィリピン○10-0オリンピック予選
21.1980年03月28日マレーシアの旗クアラルンプール インドネシア○2-0オリンピック予選
22.1980年03月30日マレーシアの旗クアラルンプール マレーシア△1-1オリンピック予選
23.1980年04月02日マレーシアの旗クアラルンプール ブルネイ○2-1オリンピック予選
24.1980年06月09日中華人民共和国の旗広州 香港○3-1渡辺正広州国際サッカー大会
25.1980年06月11日中華人民共和国の旗広州 中華人民共和国●0-1広州国際サッカー大会
26.1980年06月18日中華人民共和国の旗広州 香港○2-0広州国際サッカー大会
27.1980年12月22日香港の旗香港 シンガポール○1-0川淵三郎ワールドカップ予選
28.1980年12月26日香港の旗香港 中華人民共和国●0-1ワールドカップ予選
29.1980年12月28日香港の旗香港 マカオ○3-0ワールドカップ予選
30.1980年12月30日香港の旗香港 北朝鮮●0-1(延長)ワールドカップ予選
31.1981年02月08日マレーシアの旗クアンタン マレーシア●0-1国際親善試合
32.1981年02月10日マレーシアの旗クアラルンプール マレーシア△1-1国際親善試合
33.1981年02月17日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○1-0国際親善試合
34.1981年02月24日インドネシアの旗インドネシア インドネシア●0-2国際親善試合
35.1981年03月08日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国●0-1日韓定期戦
36.1981年06月02日日本の旗埼玉県さいたま市大宮公園サッカー場 中華人民共和国△0-0森孝慈ジャパンカップ
37.1982年03月21日大韓民国の旗ソウル 韓国●0-3日韓定期戦
38.1982年06月02日日本の旗広島県広島県総合グランドメインスタジアム シンガポール○2-0ジャパンカップ
39.1982年07月15日ルーマニアの旗スチャバ ルーマニア●0-4国際親善試合
40.1982年07月18日ルーマニアの旗ブカレスト ルーマニア●1-3国際親善試合
41.1982年11月21日インドの旗ニューデリー イラン○1-0アジア大会
42.1982年11月23日インドの旗ニューデリー 南イエメン○3-1アジア大会
43.1982年11月25日インドの旗ニューデリー 韓国○2-1アジア大会
44.1982年11月28日インドの旗ニューデリー イラク●0-1(延長)アジア大会
45.1983年03月06日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国△1-1日韓定期戦
46.1983年06月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 シリア○1-0ジャパンカップ
47.1983年09月04日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 フィリピン○7-0オリンピック予選
48.1983年09月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 フィリピン○10-1オリンピック予選
49.1983年09月15日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 チャイニーズタイペイ○2-0オリンピック予選
50.1983年09月20日チャイニーズタイペイの旗台北 チャイニーズタイペイ△1-1オリンピック予選
51.1983年09月25日ニュージーランドの旗オークランド ニュージーランド●1-3オリンピック予選
52.1983年10月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ニュージーランド●0-1オリンピック予選
53.1984年03月06日ブルネイの旗バンダルスリブガワン ブルネイ○7-1国際親善試合
54.1984年04月15日シンガポールの旗シンガポール タイ●2-5オリンピック予選
55.1984年04月18日シンガポールの旗シンガポール マレーシア●1-2オリンピック予選
56.1984年04月21日シンガポールの旗シンガポール イラク●1-2オリンピック予選
57.1984年04月26日シンガポールの旗シンガポール カタール●1-2オリンピック予選
58.1984年05月31日日本の旗埼玉県さいたま市大宮公園サッカー場 中華人民共和国○1-0ジャパンカップ

得点数

#年月日開催地対戦国スコア結果試合概要
11977年6月15日大韓民国、ソウル大韓民国の旗 韓国1-2敗戦日韓定期戦
21980年3月24日マレーシア、クアラルンプールフィリピンの旗 フィリピン10-0勝利モスクワ五輪予選
31980年6月18日中華人民共和国、広東香港の旗 香港2-0勝利広州国際大会
41983年6月7日日本、東京シリアの旗 シリア1-0勝利ジャパンカップ
51983年9月7日日本、東京フィリピンの旗 フィリピン10-1勝利ロサンゼルス五輪予選
61984年3月6日ブルネイ、バンダルスリブガワンブルネイの旗 ブルネイ7-1勝利親善試合

メディア

注釈

  1. ↑ 1957年、浦和西高12-1高知農高
    1975年、広島工業10-0新潟巻高
    2009年、神村学園10-2中京大中京
    2011年、大分10-0北陸
    戦前を合わせると計16回ある(『日刊スポーツ』2010年1月3日、9頁、大分10発 36大会ぶり大差/高校サッカー - 日刊スポーツ、高校サッカー - Jリーグニュース - Number Web)。
  2. ↑ このオファーは金田には直接知らされず、中大OB会の判断で断ったのだという(『キンタのサッカーで遊ぼう』49頁)。

出典

  1. 1 2 3 国吉好弘『日本サッカーユース代表の誇り-アンダーを紐解く』ベースボール・マガジン社、2013年、351頁。ISBN 978-4583106113。
  2. 1 2 “金田 喜稔”. サッカー日本代表データベース
  3. 1 2 日本サッカー協会編「日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011」
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 “元祖・天才ドリブラー、金田喜稔が明かす今ではあり得ないアマチュア時代の飯【サッカーとメシの回顧録】- メシ通”. RECRUIT. (2018年9月6日) 2018年9月16日閲覧。
  5. 1 2 日本サッカー名蹴会 | ニュース | 2010.10.06 「日本サッカー名蹴会 発足記念記者会見」開催レポート
  6. ↑ 『週刊サッカーマガジン』ベースボール・マガジン社、2008年1月6・13日合併号、56-57頁
  7. ↑ 『週刊サッカーマガジン』ベースボール・マガジン社、2008年1月6・13日合併号、56-57頁
  8. 1 2 3 4 5 #sm201310、(上)p.70
  9. ↑ #smsm20110426、p.70
  10. ↑ 『日本サッカー史・資料篇』後藤健生、双葉社、2007年1月、141頁
  11. ↑ 『日刊スポーツ』2008年10月10日、9頁
  12. ↑ #批評56、p.80“異端の天才 金田喜稔の「超常識」(前編) - フットボールチャンネル”. フットボールチャンネル (2012年12月20日). 2014年11月15日閲覧。
  13. 1 2 3 『週刊サッカーダイジェスト』2010年8月17日、22頁
  14. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 『東京スポーツ』2008年8月8日14面 <日本代表を作った男たち>
  15. 1 2 3 4 5 6 7 8 #sm201310、(下)p.68
  16. ↑ 『モダンサッカーへの挑戦』加茂周、講談社、54-63頁、1994年、『週刊サッカーマガジン』ベースボール・マガジン社、2008年1月20日号58-59頁、1月27日号56-57頁
  17. ↑ 『週刊サッカーマガジン』ベースボール・マガジン社、2008年1月6日・13合併号、57頁
  18. ↑ 出版芸術社/サイドアタッカー 〝キンタ流〟突破の極意
  19. ↑ 時事ドットコム:サッカー今むかし - 時事通信社セルジオさん、金田さん、風間さんのデビュー戦
  20. ↑ 『財団法人 日本サッカー協会75年史』同編集委員会 ベースボール・マガジン社、1996年、p.241
  21. 1 2 #批評56、p.82
  22. ↑ #批評56、p.83
  23. ↑ 『週刊サッカーマガジン』ベースボール・マガジン社、2008年1月20日号57頁、1月27日号56頁
  24. ↑ #批評56、p.79
  25. ↑ 金田喜稔プロフィール 講演依頼.com|講演会の講師紹介
  26. ↑ 『週刊サッカーダイジェスト』2007年2月20日
  27. ↑ 2002ワールドカップインタビュー
  28. ↑ 『週刊サッカーマガジン』2006年11月21日
  29. ↑ 『キンタのサッカーで遊ぼう』朝日ソノラマ、2002年2月
  30. ↑ 南アフリカW杯は、この解説者でTV観戦したい!:言わせろ!ナンバー
  31. ↑ “ベッケンバウアーに壊されたサッカーのセオリー 金田喜稔が語るユーロの記憶”. スポーツナビ. Yahoo! JAPAN (2008年6月7日). 2008年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月5日閲覧。
  32. ↑ 日本サッカー名蹴会・金田会長「先輩の思いや経験を伝える」 - スポーツナビ・2010年9月27日
  33. ↑ 『日本代表に捧ぐ』都並敏史、ザ・マサダ、1998年3月、44、45頁
  34. ↑ 『週刊サッカーマガジン』ベースボール・マガジン社、2008年1月27日号、57頁

書籍・参考文献

  • 『キンタのサッカーで遊ぼう』自著、朝日ソノラマ、2002年2月
  • 『週刊サッカーマガジン』2006年11月21日
  • 国吉好弘「我ら最後の関西大会世代」『週刊サッカーマガジン』2011年4月26日。  
  • 国吉好弘「私が出会った和の匠:金田喜稔(上・下)」『週刊サッカーマガジン』2013-10-08、15。  
  • 『日本サッカー史・代表篇』後藤健生、双葉社、2002年11月
  • 『日本サッカー史・資料篇』後藤健生、双葉社、2007年1月
  • 『歴代日本代表パーフェクト名鑑』ベースボール・マガジン社、2007年8月10日
  • 『モダンサッカーへの挑戦』加茂周、講談社、1994年12月
  • 海江田哲朗「異端の天才:金田喜稔の『超常識』」『サッカー批評』56、、2012年5月10日。  

関連項目

外部リンク