鍋島直大

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鍋島 直大
なべしま なおひろ
生年月日 1846年10月17日
(弘化3年8月27日)
出生地 江戸幕府・武蔵国豊島郡江戸外桜田佐賀藩上屋敷(現:東京都千代田区日比谷公園)
没年月日 (1921-06-19) 1921年6月19日(74歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本・東京府東京市麹町区永田町(現:東京都千代田区)
出身校 オックスフォード大学
前職 駐イタリア特命全権公使
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
侯爵
配偶者 鍋島胤子(正室)
広橋榮子(継室)
子女 鍋島直映(長男)
梨本伊都子(次女)
松平信子(四女)
鍋島直縄(四男)
松平俊子(六女)
親族 藤波言忠(義兄)
鍋島直虎(弟)
鍋島直柔(弟)
広橋賢光(義弟)
前田利嗣(娘婿)
松平恆雄(娘婿)
柳沢保承(娘婿)
梨本宮守正王(娘婿)
細川護立(甥)
細川護成(甥)
鍋島直彬(従兄)
在任期間 1890年2月 - 1921年6月18日[1]
在任期間 1882年5月31日 - 1886年2月15日
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鍋島 直大(なべしま なおひろ、1846年10月17日〈弘化3年8月27日〉- 1921年〈大正10年〉6月19日)は、江戸時代末期(幕末)の大名。明治・大正時代の政治家、外交官。位階・勲等・爵位は従一位勲一等侯爵。

肥前佐賀藩第11代藩主(最後)、同藩初代藩知事、駐イタリア特命全権公使、元老院議官、宮中顧問官、式部長官、全国神職会会長などを歴任。第10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。李晋・李玖兄弟は曾孫にあたる。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前は将軍・徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。

来歴・人物

幕末

若い頃

父・鍋島直正(当時は斉正)の正室・盛姫(11代将軍・徳川家斉の十八女)には子がなく、37歳で早逝したため継室として迎えた田安徳川斉匡の十九女・筆姫(1830年 - 1886年)の嫡男として1846年(弘化3年)8月27日に江戸で生まれる。なお、実母は側室・濱(姉川鍋島茂郷)の娘)。幼名は淳一郎、後に直縄、茂実、1868年より直大。後の外交官で洋画家の百武兼行は淳一郎の4つ上のお相手役だった。

嘉永2年(1849年)、当時不治の病とされた牛痘の治療のため、藩医であった伊東玄朴が痘苗の入手を進言し、藩はオランダ商館に種痘苗の入手を依頼した。出島の医師オットー・ゴットリープ・モーニッケがバタヴィアから牛痘苗を入手し、1848年7月に佐賀藩医の楢林宗建の息子に接種した。これを直正は4歳の淳一郎(直大)にも施させた。

文久元年(1861年)、将軍・徳川家茂から茂の偏諱と松平の名字を与えられる[2]。同年11月20日、父の隠居により16歳で佐賀藩主を襲封した。藩政刷新を進め、藩の殖産としてパリ万国博覧会(1867年)に有田焼を出展している。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では政府軍に組みし、佐賀藩兵を率いて指揮を執り、東北に派兵、各地を転戦した。とくに関東に移ってからは上野戦争や野洲梁田で戦い、5月、下総野鎮撫府に任命されると下総国、上総国の監督にあたった。しかし下野国での旧幕軍との戦闘が激しくなり、佐賀藩士を駐屯させたまま6月に鎮撫府を宇都宮城に移すなどして7月まで勤めた。

明治以降

明治前期の鍋島直大

明治政府に出仕すると、軍制改革と海軍創設の急務を説き、議定職外国事務局輔、横浜裁判所副総督、外国官副知事等、江戸開市取扱総督等を歴任した。父の代にオランダから佐賀藩が購入し明治政府が徴発していた軍艦電流丸で、慶応4年(1868年)3月26日、大阪の天保山沖で日本初の「観艦式」に旗艦として臨んだ。翌明治2年(1869年)には版籍奉還の上表書に薩長土肥の1国として連署。また同年、議政官が行政官に統合された折、官吏公選の後に参与を免ぜられ麝香間祗候を命ぜられた[3][4][5]。また戊辰戦争の功績で賞典禄2万石を賞与された。この頃直大は戊辰戦争で亡くなった藩士を奉じて佐賀縣護國神社を建てた。 明治3年(1870年)に、イギリスのオックスフォード大学への留学を政府に申請。留学の許可が下りたが、まもなく父が死去したため、出発は遅れることになった。明治4年(1871年)、廃藩置県により佐賀藩知事が廃される。岩倉使節団に随行してアメリカへ渡り、そこからイギリスへ留学、また明治6年(1873年)には2人の弟直虎・直柔もイギリス留学に加わった。

直大は、オックスフォード大学で文学研究の勉学に励んだ[6]。そのため、この間に起きた島義勇・江藤新平らが起こした佐賀の乱の際には日本に居なかった。直大は一時帰国したが、既に乱は終息した後で、結局妻の胤子と共にイギリスへ留学に戻った。留学中の明治9年には東京府渋谷町大山の紀州徳川家下屋敷を買い、維新で失職した武士を集めて茶園「松濤園」を開いた(現在の松濤や鍋島松濤公園の由来)。

1878年(明治11年)に帰国すると、翌年外務省御用掛となり、1879年(明治12年)には渡辺洪基、榎本武揚らと東京地学協会設立、徳大寺実則、寺島宗則らと共同競馬会社設立などに動き、1880年(明治13年)駐イタリア王国特命全権公使となる。妻の胤子と死別していた直大は、広橋榮子と再婚し、ローマで結婚式を挙式した。次女の伊都子はこのとき産まれた子で、名前は出生地のローマ(“イタリアの都”)にちなむ。公使としての活躍は、横浜の豪商・伏島近蔵の渡伊日記などに記録が残っている。

1882年(明治15年)に帰国し、元老院議官、宮中顧問官等を歴任。明治天皇・大正天皇の信頼も厚かった。1883年(明治16年)には数少ない洋行帰りの名士として鹿鳴館や上野不忍池の競馬場の運営、外国人居留地や避暑地の整備、鉄道建設、音楽推進など井上馨とともに近代化政策を牽引した。

イタリア帰りであることから、夫人栄子とともに鹿鳴館建設時にダンスを踊れた数少ない華族の一人であり、鹿鳴館のダンス練習会も直大が幹事長をやっていた[7]。

1884年(明治17年)に侯爵に列する[7]。1886年(明治19年)には、大日本音楽会設立、会長となる(副会長には伊澤修二、幹事に村岡範為馳ら)。

1890年(明治23年)2月には貴族院議員となった[1]。同年11月29日の開院式の日には臨御した明治天皇を式部官長として先導して議場に入った[8]。

東京音楽学校開校式、並びに「奏楽堂」落成を記念して開校記念歌「都の春」の作詞を行った。早稲田大学の大学部設置や理工科増設に係る募金計画に協力し、特に理工科新設の際には直大が華族中の筆頭額を申し出、これにより1908年(明治41年)11月に安田善次郎とともに最初の早稲田大学校賓となった[9]。1911年(明治44年)、皇典講究所第4代所長、國學院大學学長に就任した。1921年(大正10年)6月19日、薨去。享年76。墓地は菩提寺の賢崇寺ではなく青山霊園だったが、鍋島家が平成27年(2015年)に青山霊園の墓所を墓じまいし[10]、佐賀市の春日山御墓所に改葬された。佐嘉神社には父・直正とともに祀られている。

年表

栄典

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1886年(明治19年)5月29日 勲二等旭日重光章[24]
1887年(明治20年)12月27日 金製黄綬褒章[25]
1889年(明治22年)4月27日 日本赤十字社有功章[26]
1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章[27]
1895年(明治28年)7月23日 勲一等瑞宝章[28]
1897年(明治30年)6月30日 旭日大綬章[29]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[30]
1915年(大正4年)4月20日 御紋付銀杯[31]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章[32]
1920年(大正9年)11月1日 銀杯一組[33]
1921年(大正10年)6月18日 旭日桐花大綬章[22]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1882年(明治15年)6月16日 イタリア王国の旗 イタリア王国 サンモーリスエラザル第一等勲章[34]
1885年(明治18年)5月8日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 神聖スタニスラス第一等勲章(英語版)[35]
1885年(明治18年)5月30日 ハワイ王国 王冠勲章(英語版)ナイトグランドクロス[36]
1888年(明治21年)3月6日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 神聖アンナ第一等勲章(英語版)[37]
1891年(明治24年)5月1日 タイ王国 シャム王国 王冠第一等勲章[38]
1907年(明治40年)1月17日 清 大清帝国 頭等第三双龍宝星(中国語版)[39]
1908年(明治41年)12月11日 大韓帝国 大勲位李花大綬章[40][41]

家族

出典

  1. 1 2 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』20頁。
  2. ↑ 村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、208頁。村川浩平「肥前佐賀藩、鍋島氏への松平氏下賜」『駒沢史学』87号、2017年。
  3. ↑ 柏原 2024, pp. 230, 232, 234–235.
  4. ↑ 「蜂須賀茂韶以下六名ニ国事諮詢ノ為メ隔日出仕セシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070054000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第八巻・制度・種族三(国立公文書館)
  5. ↑ 「蜂須賀池田亀井鍋島池田ノ五諸侯ニ令シ国事諮詢ノ為メ隔日出仕セシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070108500、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十六巻・官制・文官職制二(国立公文書館)
  6. ↑ 佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳~香月経五郎
  7. 1 2 小田部雄次 2006, p. 4.
  8. ↑ ドナルド・キーン下巻 2001, p. 119.
  9. ↑ 早稲田大学総長奥島孝康『早稲田大学校賓名鑑 - 早稲田を支えた人々』、早稲田大学事業部、2002年、50頁。
  10. ↑ 森下香枝 (2023年3月29日). “「無縁遺骨」を追う 第7回 : 青山霊園から消えた旧華族の「無縁墓」 守る人のいない遺骨の漂流先”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2023年3月29日閲覧。
  11. ↑ 打越孝明 2012, p. 41.
  12. ↑ 打越孝明 2012, p. 131.
  13. ↑ 打越孝明 2012, p. 137.
  14. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 「なべしま・ちょくだい(侯爵鍋島直大)」『日本現今人名辞典』訂正3版。
  15. 1 2 3 4 5 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』287-293頁。
  16. ↑ 7月の官員名簿だと「式部寮」(217頁)の頭は空白だが、「元老院」以下に「議官兼式部頭 従三位 鍋島直大」とある(彦根, 正三 (Hikone, Shōzō) 編『改正官員録. 明治15年7月』博公書院、1880年 - 1884年、21頁。 (NDLJP:779311)。そして彦根, 正三 (Hikone, Shōzō), ed (1880-1884). 改正官員録. 明治15年8月. 博公書院. p. 219 (NDLJP:779312)で「式部寮」の部に頭として明記
  17. ↑ 爵位#1884年(明治17年)7月7日の叙任を参照。
  18. ↑ 式部寮を式部職に再組織の際、職名を「長官」と改名。大蔵省印刷局, ed (1884年10月3日). 官報. 1884年10月03日. 5. 太政官第80号: 日本マイクロ写真. pp. 2-. NDLJP:2943586. "宮内省中式部寮を廃し更に式部職を被置、職制・俸給、左の通り被定候。条此旨相達候事(左大臣)"
  19. ↑ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
  20. ↑ 『官報』第2707号「叙任及辞令」1892年7月7日。
  21. ↑ 『官報』第4200号「叙任及辞令」1897年7月3日。
  22. 1 2 『官報』第2665号「叙任及辞令」1921年6月20日。
  23. ↑ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  24. ↑ 『官報』第872号「叙任」1886年5月31日。
  25. ↑ 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
  26. ↑ 『日本赤十字社史稿』1911年12月。付録 p47
  27. ↑ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  28. ↑ 『官報』第3620号「叙任及辞令」1895年7月24日。
  29. ↑ 『官報』第4198号「叙任及辞令」1897年7月1日。
  30. ↑ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  31. ↑ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
  32. ↑ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  33. ↑ 『官報』第2712号「叙任及辞令」1921年8月15日。
  34. ↑ 「元老院議官鍋島直大伊国勲章佩用」 アジア歴史資料センター Ref.A15110035300 
  35. ↑ 『官報』第554号「賞勲叙任」1885年5月9日。
  36. ↑ 『官報』第573号「賞勲叙任」1885年6月1日。
  37. ↑ 『官報』第1403号「叙任及辞令」1888年3月7日。
  38. ↑ 『官報』第2350号「叙任及辞令」1891年5月4日。
  39. ↑ 『官報』第7079号「叙任及辞令」1907年2月6日。
  40. ↑ Interview with Naohiro Nabeshima, the march of Japanese court treasurer
  41. ↑ 『官報』第7643号「叙任及辞令」1908年12月16日。
  42. ↑ 梅渓通善コトバンク
  43. ↑ 『明治日本のナイチンゲールたち』今泉宜子、扶桑社、2014
  44. ↑ 北島伊登子デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  45. ↑ 菊御紋付桑煙草盆文化遺産データ
  46. ↑ 南部信孝『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年

参考文献

  • 打越孝明 著、明治神宮 編『明治天皇のご生涯』新人物往来社、2012年。ISBN 978-4404042095。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年。ISBN 978-4121018366。 
  • 柏原宏紀「「官吏公選」に関する一考察」『法學研究 : 法律・政治・社会』第97巻第1号、慶応義塾大学法学研究会、東京、2024年1月、219-249頁、ISSN 0389-0538、国立国会図書館書誌ID:033434959、2025年7月7日閲覧。 
  • 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 「なべしま・ちょくだい(侯爵鍋島直大)」『日本現今人名辞典』(訂正3版)日本現今人名辞典発行所、1903年。NDLJP:782773。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782773/377。 
  • ドナルド・キーン下巻『明治天皇』 〈下巻〉、新潮社、2001年。ISBN 978-4103317050。 

関連項目

公職
先代
坊城俊政(→欠員)
(式部頭)
大日本帝国の旗 式部長
1889年7月23日 - 1895年7月23日
式部長官
1884年10月3日 - 1889年7月23日
式部頭
1882年5月31日 - 1884年10月3日
次代
三宮義胤
先代
東久世通禧
天皇の旗 外国官副知事
1868年
次代
小松清廉
その他の役職
先代
辻新次
伊学協会会長
1896年 - 1921年
次代
鍋島直映
先代
榎本武揚
東京地学協会会長
1909年 - 1921年
次代
徳川頼倫
先代
佐佐木高行(→欠員)
皇典講究所副総裁
1918年 - 1921年
次代
(欠員→)江木千之
先代
伊達宗城
華族会館長
1885年 - 1886年
次代
三条実美
日本の爵位
先代
叙爵
侯爵
(佐賀)鍋島家初代
1884年 - 1921年
次代
鍋島直映