隠岐時清

ウィキペディアから、無料の百科事典
 
隠岐時清
時代 鎌倉時代
生誕 仁治3年[1](1242年)
死没 嘉元3年5月4日(1305年5月27日)
改名 時清→阿清(法名)
別名 佐々木時清、二郎左衛門尉(通称)、隠岐判官、隠岐入道
幕府 鎌倉幕府隠岐守護
主君 北条時頼→時宗→貞時
氏族 佐々木氏
父母 父:佐々木泰清、母:大井朝光の娘
兄弟 義重、時清、頼泰、義泰、茂清、基顕、頼清、宗泰、義信、清村、清賀、桃井頼直室、佐々木宗経室、東六郎左衛門室。
妻 大曾禰長経の娘
子 清房、頼清、宗清、清忠、二階堂貞綱妾
テンプレートを表示

隠岐 時清(おき とききよ)は、鎌倉時代中期から後期の武士。佐々木時清。

北条時頼が得宗家当主であった頃(寛元4年(1246年)- 弘長3年(1263年))に元服をし、その偏諱(「時」の字)を授かったとみられる[2]。『吾妻鏡』によると、弘長3年正月十日条で左衛門少尉、検非違使として名前が見え、翌文永元年(1264年)、11月に従五位下に叙爵された。建治元年(1275年)、34歳の時に引付衆に選任され、弘安6年(1283年)には評定衆に任じられる。同10年(1287年)東使を務める。

永仁3年(1295年)、評定衆を辞す。正安3年(1301年)、再び東使を務める。

嘉元3年(1305年)、嘉元の乱で北条宗宣の率いる追討軍に従軍するも、北条宗方と相討ちになり死去した。享年64。

脚注

  1. ↑ 死没時の年齢から逆算。
  2. ↑ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年、p.15系図ほか。

参考文献

  • 「関東評定衆伝」『群書類従 第四輯 補任部』続群書類従完成会、1960年。 
  • 黒板勝美; 国史大系編修会 編『尊卑分脉 第四篇』吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1967年。 
  • 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。