馬坂城
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(茨城県) | |
|---|---|
| 別名 |
間坂城 稲木城 天神林城 佐竹城 |
| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 天神林氏、または佐竹昌義 |
| 築城年 | 平安時代末期(長承2年(1133年)頃など) |
| 主な改修者 | 稲木氏 |
| 主な城主 |
藤姓天神林氏 佐竹氏 稲木氏 源姓天神林氏 |
| 廃城年 | 応永24年(1417年)または慶長7年(1602年) |
| 遺構 | 曲輪、堀切、横堀、竪堀、土塁、櫓台(源氏塚)、水の手(鶴ヶ池) |
| 指定文化財 | 常陸太田市指定史跡[1] |
| 位置 | 北緯36度31分20.0秒 東経140度30分15.0秒 / 北緯36.522222度 東経140.504167度座標: 北緯36度31分20.0秒 東経140度30分15.0秒 / 北緯36.522222度 東経140.504167度 |
馬坂城(まざかじょう)は、平安時代末期から室町時代・安土桃山時代にかけて常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市天神林町字間坂)にあった日本の城(平山城)。別名として間坂城、稲木城(いなぎじょう)、天神林城、佐竹城がある[2][3]。常陸太田市指定史跡[1]。 清和源氏義光流常陸源氏の宗家である佐竹氏発祥の城として知られる[4]。佐竹宗家が太田城に移った後は、庶流の稲木氏の居城(稲木城)となったが、室町時代中期の上杉禅秀の乱(山入の乱)において落城した[5][6]。
概要・立地
馬坂城は、太田城の南西約3キロメートルの距離に位置し、山田川東岸の標高約40メートル(比高約25メートル)の舌状台地端部に築かれた平山城である[6]。西側および南側は山田川が削り出した崖と低地、北側は天然の沼沢地である「鶴ヶ池(鶴が池)」に面しており、東側の台地続きを大空堀で断ち切ることで要害性を確保していた[4][6]。 近隣には佐竹氏の祈願所として崇敬を集めた佐竹寺(旧称・観音寺)が位置し、佐竹氏草創期の本拠地を構成していた[3]。敷地面積は約6,032平方メートルで、台地上に複数の曲輪が連郭式に配されている[4]。
歴史・沿革
築城と佐竹氏の勃興
馬坂城の起源については、藤原北家秀郷流の天神林氏が平安末期に築いた城郭を佐竹氏が奪取したとする説と、佐竹氏の祖である佐竹昌義が自ら築城したとする説がある[2][7]。 新羅三郎源義光の孫である昌義は、父・源義業から相続した常陸国久慈郡佐竹郷へ下向して土着し、「佐竹冠者」と称した[2]。『新編常陸国誌』によれば、長承2年(1133年)頃に昌義が天神林氏の馬坂城を攻め取って居城としたと伝える[2][7]。昌義は近隣の寺院境内で節が一つしかない竹(一節竹)を見つけ、これを吉兆として「佐竹」の家号を定めたという伝承があり、馬坂城は佐竹氏最初の拠点となった[3]。
太田城への移転と稲木氏の居城化
佐竹氏第2代当主・佐竹隆義の時代、天仁年間(1108年 - 1110年)頃に太田通成(藤原通成、小野崎氏の祖)が築いたとされる太田城(舞鶴城)を佐竹氏が譲り受け、佐竹宗家は居城を太田城へ移した[8]。 宗家の移転後、旧本拠である馬坂城は隆義の次男(庶子)である稲木義清に与えられた[5]。義清は周辺の郷名にちなんで稲木氏を名乗り、馬坂城は「稲木城」と呼ばれるようになった[5][7]。義清は後に最愛の子を失ったことから世の無常を感じて出家し、親鸞の直弟子・信願(信願房定信、二十四輩第13番)となって慈願寺を開創したと伝わる[9]。 その後、義清の曾孫・義繁に男子がなかったため、同族である佐竹秀義の三男・南酒出義茂の子である稲木経義が婿養子として入り、稲木氏の名跡を継承した[10][11]。
山入の乱・上杉禅秀の乱と落城
室町時代中期の応永14年(1407年)、佐竹宗家第11代・佐竹義盛が男子なく没すると、関東管領山内上杉家から佐竹義人(上杉憲定の次男)が婿養子に入った[12]。清和源氏の宗家に藤原北家の上杉氏から養子を迎えることに反発した佐竹一族の庶流・山入氏(山入与義)らは宗家に反旗を翻した(山入の乱)[12]。 応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が勃発すると、稲木城主であった稲木義信(義貞)は山入与義、長倉義景(長倉氏)、額田義亮(額田氏)らとともに上杉禅秀・山入氏側に同調し、稲木城に拠って佐竹義人に対抗した[12][13]。 しかし翌応永24年(1417年)、禅秀が敗死すると義人は関東公方・足利持氏の支援を得て反撃を開始した[13]。瓜連城に本陣を置いた義人軍の攻撃を受け、稲木城は落城、城主の稲木義信は討死した(『水海道市史』)[13][5]。これにより武家領主としての稲木氏は滅亡した。
その後の変遷と廃城
稲木氏の滅亡後、馬坂城は佐竹宗家の直轄となり、第14代・佐竹義俊の子である義成が入城して、地名から源姓「天神林氏」を称したとされる[5][6]。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国(秋田藩)へ減転封されると、馬坂城も役目を終えて完全に廃城となった[6]。
城郭構造・縄張り
馬坂城は東西約300メートル、南北約150メートルの範囲に展開する連郭式の平山城である[6]。
- 主郭(Ⅰ曲輪):城の中心となる郭。東側の台地続きからの攻撃を防ぐため、深さ約5〜7メートル、天幅約10〜15メートルの大空堀(堀切)が掘削されていた(現在は一部埋め戻され畑地化)[6]。郭内には「源氏塚」と呼ばれる櫓台状の高まりが存在するが、これは既存の古墳を櫓台として再利用したものと考えられている[6]。
- 西城(Ⅱ曲輪):主郭の西側に位置し、地名に「西城」の字名が残る。数段の帯曲輪・腰曲輪を配して西方低地からの登攀に備えている[6]。
- Ⅲ曲輪:台地西端の先端部に位置する郭。西から南側にかけて横堀が半周し、台地先端部で竪堀となって低地へと落ちている。佐竹系城郭特有の厳重な空堀プランが見られる[6]。
- 押葉平(Ⅳ曲輪):主郭のさらに東側、台地基部側に位置する外郭部。大堀切によって主郭と隔絶されていた(現在は宅地・農地化による改変が進む)[6]。
- 水の手(鶴ヶ池):城の北麓に位置する池沼。天然の水堀として北方の防壁となったほか、籠城時の水源(水の手)として利用された[4][6]。
史跡・周辺情報
城跡は、1967年(昭和42年)8月31日付けで常陸太田市の史跡に指定されている[1]。現状は山林、畑地、住宅地となっており、主郭周辺の堀切や土塁、源氏塚、横堀などの遺構が確認できる[6]。主郭への進入路付近には「馬坂城跡」の石碑および案内板が設置されている[3]。
交通アクセス
脚注
- 1 2 3 「指定・登録文化財一覧」常陸太田市公式HP
- 1 2 3 4 平凡社編『日本歴史地名大系 第8巻 茨城県の地名』平凡社、1982年、「馬坂城跡」の項。
- 1 2 3 4 常陸太田市観光物産協会「馬坂城跡(まざかじょうあと)」公式解説。
- 1 2 3 4 常陸太田市公式ホームページ「馬坂城跡」解説。
- 1 2 3 4 5 常陸太田市史編さん委員会編『常陸太田市史 通史編 上巻』常陸太田市、1984年。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 児玉幸多・坪井清足 監修『日本城郭大系 第4巻 茨城・栃木・群馬』新人物往来社、1979年、175頁。
- 1 2 3 中山信名編『新編常陸国誌』「久慈郡佐竹郷」および「稲木故城」の項。
- ↑ 茨城県立歴史館「佐竹隆義と太田城」解説。
- ↑ 真宗教団連合編「慈願寺(健武) - 二十四輩第十三 信願が開基の寺院」『親鸞聖人を訪ねて』。
- ↑ 太田亮著、上田萬年・三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』角川書店、1934年、442頁「稲木」項。
- ↑ 『佐竹家譜』。
- 1 2 3 茨城県立歴史館「山入の乱」解説。
- 1 2 3 『水海道市史 上巻』「禅秀の乱と常総」(ADEAC所収)。
- ↑ 攻城団「馬坂城の御城印が販売開始」(2021年2月24日)。
参考文献
- 平凡社編『日本歴史地名大系 第8巻 茨城県の地名』平凡社、1982年。
- 常陸太田市史編さん委員会編『常陸太田市史 通史編 上巻』常陸太田市、1984年。
- 水海道市史編さん委員会編『水海道市史 上巻』水海道市、1983年。
- 中山信名編『新編常陸国誌』積善館、1899–1901年。
- 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 第4巻 茨城・栃木・群馬』新人物往来社、1979年。
- 渡部景一『佐竹氏物語』無明舎出版、1980年。
