高 浟(こう ゆう、533年 - 564年)は、中国の北斉の皇族。彭城景思王。字は子深。高歓の五男[1][2][3]。母は大爾朱氏[4][5][6]。
元象2年(539年)、通直散騎常侍に任じられ、長楽郡公に封じられた[1][2][3]。武定6年(548年)、滄州刺史として出向した。後に都督・定州刺史に転じた[7][8][9]。
天保元年(550年)5月に北斉が建てられると、6月に高浟は彭城王に封じられた[10][11][12]。天保4年(553年)、定州から鄴に召還されて侍中となった[7][8][9]。天保7年(556年)、司州牧に転じた[7][8][9]。天保9年(558年)4月、特進を加えられ、司州牧のまま司空・太尉を兼ねた。太妃が死去すると、解任された。まもなく司州牧にもどった。天保10年(559年)閏4月、司空に任じられ、太尉を兼ねた[10][13][12]。乾明元年(560年)2月、開府儀同三司・尚書令・大宗正卿に任じられた[14][15][16]。皇建元年8月、孝昭帝が即位すると、高浟は大司馬となり、尚書令を兼ねた[17][18][19]。皇建2年(561年)10月、太保に転じた[17][20][19]。大寧元年11月、武成帝が即位すると、高浟は太師・録尚書事となった[21][22][23]。
武成帝が巡幸に向かうたびに、つねに高浟は鄴に留まった。河清3年(564年)3月、田子礼ら数十人が高浟を拉致して皇帝に擁立しようと計画した。田子礼らは使者と偽って高浟の邸に向かい、内室に入り込むと、勅と称して高浟を引っ張って乗馬させ、白刃で脅して南殿に向かわせようとした。高浟は大声で叫んで抵抗したため、殺害された。享年は32[24][25][26]。仮黄鉞・太師・太尉・録尚書事の位を追贈された[27][25][26]。
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