高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 1954年10月5日)は、日本の実業家、町会議員、中学校教諭。正式な表記は髙瀨 彌一。莫大な土地を相続し、藤沢市の大地主として、住宅地開発、自動車道路、上水道敷設に功労した。和辻哲郎、林達夫の義兄に当たる。
江之島電氣鐵道が開通して間もなく、現在の柳小路駅と鵠沼駅の中間にあった藤ヶ谷停車場から東の百両山砂丘一帯に2万坪を超す敷地と巨大な冠木門、豪壮な建物で「鵠沼御殿」と噂される高瀬邸が完成した。電車が藤ヶ谷停車場に近づくと、車掌が「次は藤ヶ谷、高瀬邸前」と叫んだという。邸内には少なくとも4軒の離れがあり、大正時代初期に高瀬弥一の先輩に当たる阿部次郎、安倍能成、そして高瀬家の長女・照と結婚した和辻哲郎、さらに茅野雅子が借家して居を構えた。彼らは時折「例の会」と称する牛鍋を囲んで談論する催しを、友人で夏目漱石門下の小宮豊隆や森田草平らを招いて開き、ここから「大正教養主義」と呼ばれる思潮が生まれた。また、谷崎潤一郎、芥川龍之介、与謝野晶子らの文人も彼らを訪問した。
高瀬弥一は豪壮な鵠沼御殿を嫌い、中藤ヶ谷の屋敷を銀座の豪商・徳力に売却し、江之島電氣鐵道高砂(たかすな)停車場(現在の石上駅)西方一帯を買い占め、南向き斜面3千坪を敷地とする数寄屋造りの瀟洒な屋敷を構え、その下の低湿地に2千坪の池を掘って舟を浮かべた。関東大震災で屋敷は倒壊し、次女を失ったが、火事は起こさなかったため廃材を利用して復興できた。四軒別荘(現在の鵠沼松が岡)で被災した林達夫・芳(弥一の末妹)夫妻が離れにしばらく居住した。藤沢駅から門前を結ぶ道路を建設し、橘通りと名付け、江の島道から門前を通る道路を建設し、高瀬通りと呼ばれた。時は人力車時代から自動車時代へと向かっていた大正末期、藤沢駅と鵠沼海岸を結ぶ自動車道路建設を計画し、地主に呼びかけて鵠沼新道(地主の名を採り高瀬通り - 上郎通り - 宮崎町 - 髙松通り - 小川町 - 熊倉通りと命名)を敷設した。開通間もないこの道路のことは、当時短期間鵠沼海岸に住んだ芥川龍之介の小説「歯車」 の冒頭に描かれている。この道は完成後藤沢町に寄附する予定だったが、町はこれを受け入れず、多額の固定資産税が弥一の財力を急速に奪った。弥一はまた、自宅の井戸水を江の島に送る「江之島水道」を建設した。これは1928年(昭和3年)に東京府の玉川水道株式会社と業務提携を結んだ際に「湘南水道株式会社」と商号を変更、1933年(昭和8年)には神奈川県に買収されて県営水道となり、継続的な収入には結びつかなかった。屋敷と池の5千坪以外の土地は「高瀬住宅地」として分譲され、主に横須賀鎮守府の軍人らが購入した。江口朴郎が少年時代を過ごしたのもここである。また、第一高等学校の校長になった杉敏介も高瀬家の筋向かいに住み、一高時代の恩師との交流も芽生えた。しかし、折からの世界恐慌で、不動産業も行き詰まった。高瀬弥一の晩年は、アルコール使用障害に罹り、悲惨なものだったという。
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