覚猷

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覚猷(『肖像集』)

覚猷(かくゆう、天喜元年(1053年)[1]- 保延6年9月15日(1140年10月27日)[1])は、平安時代後期の天台僧。鳥羽僧正(とばそうじょう)と世に呼ばれ[1]、日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、『鳥獣人物戯画』などの作者に擬せられている(ただし、確証はない)

経歴

天喜元年(1053年)、源隆国の第九子として出生[1]。若年時に出家し、園城寺の覚円のもとで天台仏教・密教を修めながら[1]、画技にも長じるようになった。長らく園城寺法輪院に住し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自らの画術研鑽にも努めた。

承暦3年(1079年)10月に法成寺法橋となり[1]、永保元年(1081)12月に天王寺の別当となる[1]。嘉保元年(1094年)園城寺に戻り[1]、天永4年(1113年)法眼に任じられる[1]。保安3年(1122)年、法印大和尚位に任じられる[1]。大治5年(1130年)権僧正[1]、天承元年(1131年)鳥羽証金剛院別当および梵釈寺別当[1]。長承3年(1134年)大僧正に任じられた[1]。保延元年(1135年)、法成寺座主となり、園城寺長吏・平等院検校に補せられる[1]。保延2年(1136年)最荘厳院別当となる[1]。保延4年(1138年)10月27日、天台座主となるものの、門徒の反対に遭い、わずか3日で辞した[1]。

保延6年(1140年)9月15日、覚猷は90歳近い高齢で死去した。

人物像

『鳥獣人物戯画』より

密教図像を自ら書写し、絵仏師に写させて蒐集させたほか、鳥羽院の扉絵筆者の候補になるほど、画力が高かった[1]。『古今著聞集』巻11には「鳥羽僧正は近き世にはならびなき絵書なり。法勝寺金堂の扉の絵かきたる人也」と記述されており、一流の職業画家にも劣らない筆力を持っていた[1]。

覚猷の画業として知られるのは、ユーモアと風刺精神に富んだ「戯画」(嗚呼絵(おこえ))である[2]。国宝『鳥獣人物戯画』(鳥獣戯画)『信貴山縁起絵巻』『放屁合戦』『陽物くらべ』などが伝鳥羽僧正作とされている[1]。いずれも一見単純な明るい笑いの画のようでありながら、深い批判精神を含む作品群であり、鳥羽僧正の作に擬せられている。ただし、覚猷を作者とする確証はない[1]。一方で、後世、風刺画を「鳥羽絵」と称するのは、その創始者として覚猷を想定したことによる[1]。

遺言の逸話が示すように、覚猷自身、笑いのセンスに長けた人物のようであり、『宇治拾遺物語』にも覚猷のいたずら好きで無邪気な人柄が描かれている。『古今著聞集』では、弟子である侍法師の絵を道理に合わないと非難するが、侍法師は「おそくづの絵」(春画)は誇張しなければ面白くないという例を出して反論し、覚猷は逆にやり込められてしまったという逸話が載っている。

覚猷は仏教界の要職を歴任しながら、当時の仏教界と政治のあり方に批判的な眼を持っていたともされている。『古事談』には、弟子から遺産分与に関する遺言を求められた覚猷が、「遺産の処分は腕力で決めるべし」と書き遺したという逸話が記されている。この逸話について、穂積陳重は「けだし僧正が衆弟子の出家たる本分を忘れて、貨財の末に齷齪(あくせく)するを憫(あわれ)んで、いささか頂門の一針[注釈 1]を加えられたものであろう[4]」と評し、松山文雄は「これは貴族や僧侶の権謀術策やこびへつらいの生活にたいする風刺ともとれ、強いものがとるという、権力の横行にたいするあてつけともとれて、おもしろい逸話です[5]」と評した。

関連作品

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ↑ ちょうもんのいっしん。「痛いところをつく教訓」という意味[3]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典 第1巻』岩波書店、1983年10月、599-600頁。
  2. ↑ 宮島新一「嗚呼絵」『日本歴史大事典』第1巻 小学館(2000)p.516
  3. ↑ 「頂門の一針」。コトバンクより2022年12月1日閲覧。
  4. ↑ 穂積陳重『法窓夜話』岩波書店〈岩波文庫 ; 青(33)-147-1〉、1980年、115頁。ISBN 4003314719。
  5. ↑ 松山『漫画学校』(1950)p.85

参考文献