220年代
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| 千年紀: | 1千年紀 |
|---|---|
| 世紀: | 2世紀 - 3世紀 - 4世紀 |
| 十年紀: | 190年代 200年代 210年代 - 220年代 - 230年代 240年代 250年代 |
| 年: | 220年 221年 222年 223年 224年 225年 226年 227年 228年 229年 |
できごと
[編集]中国
[編集]- 220年、魏の実質的な創始者である魏王曹操が死去し、その子の曹丕が地位と王位を継ぐが、曹丕は皇帝である献帝に禅譲(皇帝の地位を引き渡すこと)を迫り、魏帝国を建国した。
- 221年、劉備が蜀の皇帝に即位したが、義弟である張飛が暗殺され、劉備は復讐に燃えた劉備は、暗殺者の逃亡先である呉に宣戦布告した(夷陵の戦い)
- 222年、呉の武将または軍師である陸遜が夷道近辺で蜀の劉備を撃破し、劉備は白帝城に敗走した。
- 223年、魏の皇族で文人の曹植が洛神賦を著した。また、蜀では、黄元による反乱が起き、すぐ鎮圧された。その後、蜀の皇帝である劉備が死去し、子の劉禅が即位した。また、呉は魏に三方面から侵攻され、それとほぼ同時に蜀と呉は同盟関係を戻し、呉は戦闘に集中した(濡須口の戦い及び洞口の戦い及び江陵の戦い)。結局、呉は魏軍の侵攻を退けた。
- 224年、魏の曹丕が呉の広陵に侵攻したが、呉将の徐盛の計略により曹丕は驚いて撤退した[1]
- 225年、223年頃から放置していた南中の反乱を鎮圧し、南中の勢力の長である孟獲を心服させた。
- 226年、魏の皇帝の曹丕が死去し、子の曹叡が後を継いだ。
- 227年、蜀の軍師の諸葛亮が劉禅に出師表を提出し、漢中方面に進軍した。
- 228年、魏の将孟達が魏に反乱を起こしたが、魏の軍師の司馬懿に滅ぼされた。その後、諸葛亮が第一次北伐を決行し、蜀の将である趙雲らが囮となり郿の付近に布陣し、郿に魏軍の主力が集結したところで諸葛亮が郿の西側の天水、安定、南安に急激に侵攻し、これを攻め落とした。だが、蜀将の馬謖が魏将張郃の備えとして街亭に置かれた時、近辺に山があり、諸葛亮は「山麓に布陣を」と命令したが、馬謖はそれを聞かずに周りが見渡せる山頂に布陣した。山頂は水が取れなかった為、張郃に水路を遮断され、大敗した。その後、馬謖は処刑され、諸葛亮は自分の地位を自ら下げた(街亭の戦い)。一方、魏の将である曹休は呉に侵攻したが、呉からの降伏者が偽の策略降伏であり、隙を突かれた曹休は司馬懿らと合流し、なんとか撤退した(石亭の戦い)。また、同年に諸葛亮は第二次北伐として陳倉を包囲し、しばらく続けたが、兵糧が持たず、撤退した(陳倉の戦い)。
- 229年、蜀の諸葛亮が第三次北伐を決行し、武都、陰平を制圧した。一方、呉の王の孫権が呉帝に即位し、正式に三国時代が始まった。
中央アジア
[編集]- 224年、サーサーン朝ペルシアがパルティアをホルミズダガンの戦いの戦いで破り、サーサーン朝は正式に成立した(226年に成立したという説もある)。
- 226年、パルティアが滅亡した。
- 228年頃、パルティアが完全にサーサーン朝に征服された。
ローマ帝国
[編集]- 222年、ローマ皇帝のヘリオガバルスが殺害され、新たにアレクサンデル・セウェルスが皇帝に即位した。
- 228年、プラエトリアニの権限を削減しようとしたプラエフェクトゥス・プラエトリオのドミティウス・ウルピアーヌスがプラエトリアニに殺害された。
日本
[編集]- 220年、卑弥呼が遼東の公孫氏と外交関係を結ぶ。
脚注
[編集]注釈
出典
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]
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